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自然な灯りのスケール

死について考えてみようと思ってから、様々な街の風景に眠る生と死について目が向くようになりました。ひとつ前のnoteではかなり大きなスケールで考えようとしていたけれど、もっと人に寄り添うような「いのちのあり方」を建築で表現できないものかとだんだん考えるようになってきました。

そんなことを考えながら夜の住宅街を散歩していました。
割と田舎なので灯りもそこまで多いわけではなく、ひたすら暗闇の中を音楽を聴きながら歩いているうち、住宅から漏れ出る光に不思議と安心感を覚えました。これは割と誰にでもある経験だと思います。

それに気づいたとき、建築が失ってきたのはそうした安心感なのではないかと思いました。僕は基本的に建築は死んでいると思っていて、向こうから僕らに対して距離を縮めてくることはないと思っています。その意味で冷たいというか、どこか突き放したような感覚があるものだと思っています。

ではどうして安心感を感じたのか、それは人の暮らしがそこに反映されているからだと思います。昼間の住宅街は死んでいるような雰囲気がしてあまり活発でない印象があるのですが、夜になるとそれがますます顕在化します。近代建築の負の側面である均質さ、無機質な感覚が前景化します。それだけだとネガティブなままで終わりですが、逆にそのような状況だからこそ灯りが静かに灯っていることの意味が鮮明になるのだと思いました。

加えて静かに灯っていること、すなわち個人スケールでの生活で必要なだけの光であることが重要なのだと思います。市街地や都心は言うまでもなく明るいですが、それは人間的なものではありません。その光のほとんどは人が暮らすために必要なものなのではなく、商業的な都合によって発せられたものです。それは人にとって自然ではありません。つくられたものです。

死と光の関係性で言えば、祭りや灯籠流しなどが挙げられるのではないかと思います。それらは元は死者の魂を弔うために行われたものですが、その光も住宅街のそれのように何か安心感がありますね。賑わいとセットになっていたり、死者とつながっていたり、そういう感覚や意味づけがあります。

こうしてみてみると、僕らにとって重要なのは(=生きているなと感じられるものは)灯りの使い方なのだと思います。そこには一定の意思表明があって、住宅のように人を優しく迎え入れるような灯りもあれば、透明なファサードのオフィスビルのように利益を追求するための労働環境の一部としての灯りもあります。灯り一つをとっても、その扱い方や場面によって人間の心理に大きく影響を与えます。

建築は様々な観点から理論化・体系化がなされていますが、結局のところはその建築を見た人々がどのように意味づけを行えるか、なのだと思います。そしてそのような意味づけはどんなことをきっかけに起こっているのかを具に観察し、追っていくことが重要なのではと思います。

また、「生と死」というテーマに取り組む上で大切なものの一つは詩的な感覚なのではと思います。それを自分の内に閉じた妄想にするのではなく、なるべく客観的で普遍的なものとして昇華できるように上手くバランスをとっていければと思います。そしてそのような詩的な感覚こそが現代の都市や建築には不足しているのではないかと主張できるように頑張りたいです。

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。何か得るものがあれば幸いです。それでは。

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