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科学で事実を知り、哲学で意味を知る

こんにちは。Ryoです。

前回は、科学とは何か、いつ生まれたのか。
そして、なぜ科学を学ぶのかについてお話ししました。

まだ読んでいない方は、そちらを読んでから今回の記事を読んでいただくことをおすすめします。

さて、今回は少し違った視点から、
「哲学」についてお話ししようと思います。

そして、「哲学」との対比を通じて、「科学」の真の役割を知ろうというのが、今回の目的です。

哲学とは何か

まず、「哲学」とは何か
ということについてお話ししようと思うのですが、

皆さんは「哲学」という言葉を聞いてどのようなものを思い浮かべますか?

・難しいこと(正解のないこと)ばかり考えている学問
・屁理屈ばっかり
・生きていく上で必要ない(役に立たない)
・よく知らない

そういったイメージを持つ人が多い印象があります。

今回も、辞書的な定義を基に考えたいところですが、
実は、哲学は昔と今(近代以前と以後)で
意味が変わります。

(近代以前):知的探究活動全般・学問全般のこと
(近代以後):世界・人生の根本原理を追求する学問

これだけ見てもよく分からないですよね(笑)

今(近代以後)は、「哲学」といえば
「○○とは何か」「なぜ人は○○するのか」
といった、概念の本質や、人間の内面を深く追求する学問として知られています。

しかし、昔(近代以前)は、概念や人間の本質だけでなく、「学問」と呼ばれるもの全てを指して
「哲学」と呼ばれていたということです。

ここでいう、「学問」の意味は、前回の記事で紹介した、「科学」とほぼ同義を考えてもらってかまいません。

つまり、現在「科学」と呼ばれているものは、元々は「哲学」の一つだったのです。
前回紹介した「自然科学」についても、近代以前のもの(後ほど紹介します)はとりわけ「自然哲学(Natural Philosophy)」と呼ばれます。

しかし、近代以後、「自然科学」と「哲学」は別々の方向へと発展していきました。

「自然科学」と呼ばれるものが、近代以前と以後で何が変わったのかというと、
自然界の法則を明らかにするためのアプローチの方法が進化したのです。

これについては、哲学が生まれた歴史、
そして哲学から現在の自然科学が派生した歴史とともに見ていくこととしましょう。

哲学はいつ生まれたのか

哲学は、宗教から派生して生まれた(分化した)とされています。

そのため、まずは宗教について考えていくことにしましょう。

哲学も、宗教も、根本の目的は同じです。

・どのようにしてこの世界は生まれたのか
・なぜ人間はこんなにも苦しむのか
・愛とは何か
・よい人生とは何か

このような、一見答えのなさそうな問いに対して、何とかして答えを出そうと試みたのが宗教や哲学です。

宗教は、このような問いに対して、「神話」によって答えを出します。

例えば、約4000~4200万年前に古代エジプトで広がったメソポタミア神話(シュメール神話)では、「始原の水」であるナンム女神が、天の神と地の神を生んだことによって世界が始まったとされています。

このように世界が自ら始まったとする神話や、天と地が分かれてこの世界が出来たとする神話は、農耕革命以後、世界のあらゆる場所で見られるようになったと言われています。

水も天も地も、農業には欠かせないものですよね。
人々はこれらによって命を支えられていたわけですから、これらが無くなってしまうことは、何より恐怖であったことが想像できます。

気まぐれに雨が降り、はたまた気まぐれに晴れが続いて干ばつが起き、時に嵐が起こったり、、、

かつては天気予報も無かったわけですから、人々にとってはいつ何が起こるか分からない、カオスな世の中であったことでしょう。

そこで、人々は自然を支配し原理を決定づけている崇高な存在
すなわち「神」という存在を考え、人々の行いを「神」が見ており、
いわゆる「善い行い」をしていれば、人々は苦しみから解放されるというストーリーを考え出したのですね。

宗教には、大きく2つの意義があります。

・人々に安心を与えてくれる
・同じ宗教を信じる者の間に平和が訪れる

宗教は、カオスに満ちた世界を、「神」が作り出した「秩序ある」世界と解釈し、人々に安心を与えるものでした。

また、宗教では、「善い行い」と「悪い行い」が決まっており、「善い行い」をしていれば、人々は苦しみから解放されるとされているわけですから、その共通認識の中では争いは起きにくいことが想像できますね。

ただ、一方で、宗教には問題もいくつかあります。
それは、大きく以下の2つです。

・宗教の教えに納得できない人もいる
・異なる宗教の信者同士でしばしば争いが起きる

1点目についてですが、
この世界は「神」が作ったとか、天国と地獄とか、にわかには信じがたく、なかなか腑に落ちないことがたくさんありますよね。
それは実際に確かめることができないものばかりだからです。

2点目については、歴史的にも、そして現在でも、異なる宗教同士で戦争が起きており、想像に難くないと思います。
宗教によって、思想や解釈が異なるため、異宗教の共存には課題が多いのです。

そこで、約2600年前、古代ギリシアにおいて、哲学者と呼ばれる人々が誕生しました。

ギリシアは、様々な海に囲まれた場所に位置しており、当時から多様な民族との交流がありました。
そんなギリシャでは、異宗教同士の争いが頻繁に起こっていたことが伺われます。

ギリシャの地図

そんな古代ギリシャにおいて誕生した、最初の哲学者と言われているのが、タレスです。

タレスの名前を聞いたことがある方は、少なくないのではないでしょうか。
高校の倫理や世界史の授業で登場します。

彼は、「万物の根源は水である」と説いたことで有名ですが、
その根拠は、(所説はありますが)
「あらゆるものの種子は湿り気を帯びており、すべての栄養となるものは水気を含んでおり、熱そのものさえも湿り気のあるものから生じている」
といったものです。

うーん、なんだか良くわかりませんね。
もちろん「あらゆるものが水を含んでいる」なんてことはありません。

しかし当時、タレスの試みは画期的なものでした。

当時、「神」は誰も見たことがないが、誰もがその存在を信じ、この世界を作ったのは「神」なのだとする神話を語り継いでいました。

そんな時代に、タレスは論理的に思考することを通じて、「神」の存在を実証することを試みたのです。

この、「論理的」というのが、哲学と宗教の大きな違いです。

この世界の始まりを、「神」という「確かめる事ができない存在」ではなく、
「万物の根源(アルケー)」という、
「実際に確かめる」ことのできる存在として、説明したのです。

古代ギリシアの時代には、タレスの後にも多くの哲学者が観察や思考を繰り返し、より納得できる答えを探していきました。

「万物の根源は数である」としたピタゴラスや、
「万物の根源は原子である」としたデモクリトスなどは有名ですね。

このように、論理的で実際に確かめることが可能な「原理」を探ることで、皆が納得できる答えを出し、異宗教間の争いに終止符を打とうと挑んできた者たちが、「哲学者」なのです。

科学との違い

さて、ここまでで、哲学がいつ、何のために生まれたのかは理解いただけたかと思います。

しかし、「論理的に実証する」というのは、
今では、専ら「科学」の役割です。

では、哲学は科学に取って代わられたということなのかというと、それはNOです。

科学と哲学は、それぞれ異なる方向へと進化し、現在も私たちの生活を支えています。

かつて、古代ギリシアの時代では、「確かめる方法」は、ひたすら「論理的に思考」することが主流でした。

しかし、タレスらの登場からしばらくして、アリストテレスという人物が登場します。

アリストテレスは、ものごとを「確かめる」という行為に際して、自然界をよく「観察」することを重視しました。

つまり、ひたすらに「考える」だけでなく、実際に自分の目で見て、その経験知を基に自然界の法則を実証するという方法を広めたわけです。

アリストテレス以後、様々な道具や機器を用いて、より広い世界を、より精密に観察することができるようになり、科学は大きく進歩しました。

また、中世ヨーロッパの時代に、ガリレオ・ガリレイが「実験」という手法を用い始めたことで、より客観的かつ再現性をもった実証が可能になりました。

このように、自然や世界を対象として、より客観的・合理的かつ再現性のある「確かめ」を極めていったのが、「科学」です。

一方で、哲学は「自然の世界」を離れ、「人為的なもの」すなわち法律や社会制度を扱うようになっていきました。

その背景には、アテネで民主政治が成立したことにあるとされています。

つまり、一般市民も政治の担い手となったため、家柄や財産に関わりなく政治的手腕を発揮するためには、知識や弁論術(他人を納得させる話し方)を身につける必要があったのです。

そこで、市民のニーズに応えるべく、ソフィストと呼ばれる知識人が登場します。

彼らは、政治のための知識や弁論術を教えるフリーランスの教師のような存在でした。

ソフィストが若者たちに教養的な知識と、人を納得させる話術を教えていったことで、
多くの人に「自分の主張を信じさせる能力」を持つ政治指導者が現れました。

しかし、このような能力を過度に持った者(理論武装をした者)が行う政治は危険ですよね。
何となく腑に落ちないことも、それらしい言いぶりで無理矢理に納得させられてしまう。

それで、人々は、本当は全然分かっていないのに、なんとなく全てを知った気になってしまう。

そんな状況にメスを入れたのが、かの有名なソクラテスです。

ソクラテスは「無知の知」を説いたことで有名ですよね。

「無知の知」とは、
「自分は本当は何も知らないのだということを自覚している」という意味です。

ここでいう「無知」というのは、
一般的なものごとについての知識ではなく、
「幸せ」や「良い人生」といった人間としての本質についての「無知」です。

彼は、何となく全てを知った気になっている大衆やソフィスト達に、問答を繰り返すことで、
己の無知を自覚させていきました。

ソクラテス:「人生で一番大事なものは何だろう」
市民   :「それはお金ですよ」
ソクラテス:「なるほど。それはなぜ?」
市民   :「お金で全てが手に入りますから」
ソクラテス:「ほう。全てですか。」
市民   :「はい。物はもちろん人も」
ソクラテス:「では恋人や友達は?」
市民   :「お金に寄ってくる人もいます」
ソクラテス:「あなたを大切にしてくれる?」
市民   :「そうとは言い切れない」
ソクラテス:「それは恋人や友達といえる?」
市民   :「本当の意味では言えないかも」
ソクラテス:「お金で全てが手に入るのでは?」
市民   :「・・・・・・・・・・・・・」

といったように。(これは僕の想像ですが)

そして、ソクラテスは、己の無知を自覚した上で
「汝自身を知れ」と説きました。

「汝自身を知る」とは「自分を知る」ことであり、「個人的内面の幸福を追求する」ことです。

表面的な知識を得ただけで、全てを知った気になるのではなく、
自分自身を知ることで、自分にとっての幸せを知り、自分の内面を知ることは他者を理解することに繋がり、それは他者と共生することに通じるのだということです。

そして、このソクラテスの登場以後、弟子達によってさらに哲学が発展し、個人の内面のみならず、あらゆることがらの根本原理を探っていくようになりました。

このような哲学が
初めに近代以後の辞書的な定義として紹介した、
「世界・人生の根本原理を追求する学問」
とされているのです。

ソクラテス以後の哲学についてもたくさんお話ししたいのですが、
長くなってしまいますので、またの機会とさせていただければと思います。

なぜ哲学を学ぶのか

ここまで、哲学とは何か、哲学はいつ生まれたのか、そして、科学とはどう違うのかについてお話してきました。

少しは哲学に親しみを持っていただけましたでしょうか。

哲学と科学は知的探究活動として共に生まれ、
そして、科学は自然や世界を、哲学は人間の内面を対象にして、
互いに別々の進化をたどってきたわけですが、
これらはどちらも人生をより豊かにしてくれるものだと僕は思います。

僕が考える、哲学を学ぶ意義は、以下の3つです。

①物事の「意味」を知り、納得して行動するため
②自分の自由を守りつつ、他者と共存するため
③人生をより豊かにするため(自分を知るため)

これら3つについて、具体例を示しながらお話していきたいと思います。

①物事の「意味」を知り、納得して行動する

前回、「科学」を学ぶ意味の中で、
「科学的な社会問題に対して自ら意思決定をするため」
というものを紹介しました。

しかし、皆さんは、「自ら意思決定をする」ということを、
果たして「科学」を知るだけでできると思いますか?

もちろん、「社会問題は科学的なものばかりではない」ということもありますが、僕は、科学的な社会問題についても、「科学」の力だけでは何の意思決定もできないと思います。

それは、科学が「事実のみを教えてくれるもの」だからです。

確かに科学は、「なぜそのようなことが起こるのか」といった、
自然界の法則や原理については、驚くほど正確に説明できるようになりました。
そしてそれは、いつどこで誰にとっても確実に納得せざるを得ない「事実」を与えてくれる存在となっています。

しかし、「事実」を知っただけで人は行動できるのでしょうか?

答えはNOですよね。

そんなことができるのなら、とっくに戦争なんてなくなっています。

社会問題が、真に個人にとって「問題」となるためには、
その人にとっての「意味」が必要です。

例えば、科学的な社会問題の代表例として、「環境問題」があります。

世界中で起こる気候変動は今、「気候危機」と呼ばれ、私たちにとっても他人事ではない、大きな社会問題となっています。

さて、この「環境問題」は、私たちにとって何が「問題」なのでしょうか。

「地球の平均気温が年々上昇していること」が問題でしょうか。
はたまた、「プラスチックごみが自然界に散乱していること」が問題でしょうか。

いいえ、これらは単なる事実でしかありません。

地球の温度が上昇することによって、熱中症による死亡率が拡大したり、
北極の氷が解けて海面が上昇することによって国が沈んでしまったり、
大きな台風が発生して、私たちの生活が脅かされることが問題なのです。

プラスチックごみを魚が食べて死んでしまうことで、漁獲量が減ったり、
その魚を私たちが食べることで、私たちの体にプラスチックが取り込まれてしまうことが問題なのです。

このような問題は、私たちの「自由」や「幸せ」を奪ってしまうため、
私たちは「問題」として捉え、行動するわけです。

この、「自由」や「幸せ」が、自分の中で定義されていて、それが脅かされると分かって初めて、社会問題が「自分自身の問題」となるのです。

このような自由や幸せの「意味」を考えること
これこそが「哲学」の真の役割です。

②自分の自由を守りつつ、他者と共存する

「争い」ってなんで起こるんだと思いますか?

唐突な質問ですみません。
でも、これを考えることこそが、この2つ目の哲学を学ぶ意義に繋がってくるのです。

今回、哲学がいつ生まれたのかについて紹介するなかで、
異なる宗教同士で争いが起きてしまうというお話をしたかと思います。
これは、なぜでしょうか。

どちらかの宗教が間違っているからでしょうか。
どちらかが悪意を持って争いを仕掛けているのでしょうか。

これらは本質的に正しくありません。

「争い」が起きるのは、お互いが、「自分が正しい」と思っているからです。
つまり、「争い」は、「正しさのぶつかり合い」なのだと思います。

だって、自分は間違ってるって思って、喧嘩する人っていないですよね。
お互いが「自分の方が正しい」って思うから、喧嘩が起こるわけです。

哲学者たちも、そんな「正しさのぶつかり合い」によって起こる戦争をずっと見てきて、なんとかこの無益な戦争を無くすことができないものかと考え続けてきたわけです。

中世ドイツの哲学者であるヘーゲルは、
人間が戦争をするのは、人間一人ひとりが、「自由への欲望」を持っているからだと考え、本当に自由になりたいのなら、それを主張し合って殺し合うことをやめなければならない。
つまり、お互いがお互いに「自由な存在」であることを認め合わなければならないと唱えました。

これは、「自由の相互承認」の原理といい、現在の民主主義の考え方の根底を支えているものです。

しかし、このように皆がお互いに自由な存在であることを認め合い、
皆が納得できる答えを共有することは理想ですが、
なかなか皆が納得できる答えって難しいですよね。

「よい社会とは何か」「よい教育とは何か」

このような難しい問題に直面すると、
評論家や専門家の間では、お互いの正しさがぶつかり合って批判し合うばかりになりますし、
私たち一般人の間では、「それは人それぞれ考え方が違うんだから仕方ないよね」となってしまいます。

哲学は、そのような、一見答えのない難しい問題に対しても、
その本質的な部分を限界まで考え抜くことによって、ここまでならだれもが納得できるだろうという答えを見出そうとするものです。

哲学的に考え抜くことが、皆が自分の自由を守りながら他者と共存する、
本当の平和への一歩になるのかもしれませんね。

③人生をより豊かにする(自分を知る)

これは、「科学」を学ぶ意義でも同じようなことを言いましたね。

結論、さまざまな学問を学ぶことが、人生をより豊かにすることに繋がるわけですが、それぞれの学問には、それぞれ特有の方法で人生を豊かにしてくれます。
(「自然科学」は、自然観察という”スポーツ”を楽しむ方法でしたね)

とりわけ、哲学は、「自分自身を知る」という方法で、人生を豊かにしてくれます。

「よい人生とは何か」「幸せとはどのようなことか」

これらは、先ほどの、
「よい社会とは何か」「よい教育とは何か」
などとは違い、人それぞれ考え方が異なってしかるべきものです。
(自分のことであり、異なるからと言って他者と争うことはないからです)

自分にとって「よい人生」や「幸せ」の本質を考えることは、
自分の人生の深みを大きく変えてくれます。

メディアが大きな力を持った今の時代(特に日本)では、
テレビなどで「幸せの理想像」が語られ、
「大学に行って、いい会社に入って、結婚して家庭を持って、夢のマイホームを買って、、、」
そんな生活に誰もがあこがれを抱き、疑う余地もないでしょう。

しかし、そんな誰かに敷かれた「幸せという名のレール」に沿って進んでいると、ひとたびそこから脱線してしまったとき、生きていく術を見失ってしまうことがあります。

・親が期待する中、大学受験に落ちてしまった
・周りが結婚していく中、自分だけ結婚相手が見つからず焦る
・定年になって会社をやめたら、家族に疎まれる日々になった

どれもよく聞く話です。
こういった状況になった時、自分にとっての「幸せ」や「よい人生」が
考えられていなければ、立ち直る事ができなくなってしまいます。

実際の人生は、他人が定義した幸せという名の「真っ直ぐのレール」
ではなく、いくつもの分岐点があるはずです。

その分岐点に到達するたびに、自分にとっての「幸せ」や「よい人生」ってなんだろうかということを考えるようにしてみてください。

そうすることによって、他人が作った見せかけのレールではなく、
自分が選んだ、自分だけのレールを走っていくことができるはずです。

自分の人生に納得して生きていきたい。

だから僕はこれからも哲学を学んでいきたいと思います。

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