蛇人間、生まれる(5) 【長編小説】
蛇人間、生まれる(4)の続き
九十八
僕は記憶の中に生きている。かつては何もなかった海の底に、今ではたくさんの記憶たちが――あるいはその残骸たちが――堆積しているのだ。僕は眠れぬ夜なんかに、その周囲をゆっくりと泳ぎ回る。ここはあまりにも暗いため、ほとんど光は降りてこない。それでも手探りで進んでいく。記憶というものは不思議なもので、完全に静止しているものは存在しない。どのような小さな動きであったとしても、それはやはり止まってしまうということはあり得ないのだ。あるいはそれは――と今思ったのだが――その記憶を掘り起こそうとしている僕自身が、まだ生きていることの証拠なのかもしれない。あるいは僕が完全に死ねば、記憶たちもプルプルを止めるのかもしれない。まあその辺は純粋な推測の領域に属することだ。僕は今を生きているのだし、今以外のことを考えたところでそれは単なる「想像」に過ぎない。僕は今だからこそ分かるのだが、世間の大抵の人たちは現在を生きているようでいて、その精神のほとんどを「想像」することに費やしているのだ。おそらくは死ぬのが怖いからじゃないかとは思うのだが・・・。
さて、今また震えている記憶を発見した。その震え方に特徴があるのだ。ほかとはちょっと違っている、不規則な震え・・・。僕はここでは光を欠いているが、この動きがあれば水の振動によって、何が起きているのかくらいは簡単に想像できる。そう、僕もまた、ここで「想像」しているのである。しかしそこには死が含まれている。それがほかの人々とは違っていることだ。死が含まれている想像は、真実に近接していく。完全に一緒、というわけではないにしろ・・・そこには魂の不毛さを癒す何かが存在している。というかそう信じて、僕はこれまでの歳月を生き延びてきたのだ。
僕は知らぬ間に無人の広場にやって来ている。中世ヨーロッパのような、石畳の広場だ。円形に広がっているが・・・あたりに人影はない。正面奥の方に、高い時計塔の姿が見える。時刻は・・・二時を指している。午前二時なのか、午後二時なのか、僕には判断が付かない。でも空を見てみるに――僕には光が戻ってきている。でももちろんそれは記憶の中の光だ。僕はそれを知っている――厚い雲の向こうに太陽が輝いているようにも思える。雨は降っていない。だとすると、これはどんよりと曇った、陰鬱な午後二時、ということになりそうである。僕は自分の手を見てみる。傷一つ付いていない。肌のきめの細かさから判断するに・・・たぶん十六歳、くらいのところだろう。果て、俺は本当に十六のときにこんな場所に来たことがあったっけ・・・? と僕は考え込んでいる。でも頭が変なふうにねじくれた気配があって、記憶が錯綜している。でもごく普通に考えてみて、東北地方の田舎に暮らす高校一年生が、突然こんな中世ヨーロッパにやって来るはずがないのだ。だとすると、これはあとから考えられた、想像上の広場だ、ということになりそうである。でもにもかかわらず、この感触はソリッドだ。実際に、ここに、存在している。僕はここで何をしようとしているのだろう・・・?
本来記憶において僕に行動の自由はない。いつもならただ追体験するだけである。失敗も、失敗として、繰り返す。嫌なことも、嫌なこととして、そのまま追体験する。それが場のルールだ。でも今回だけは違っていた。僕は十六歳(くらい)に戻っていて、ある程度の自由を保持している。その結果、途方に暮れている。ここがどこなのかも分からない。ひどく懐かしい、という感じはするのだが・・・明らかに一度も来たことのない場所だ。あるいは僕が想像の中で創り上げた場所なのだろうか?
そのとき時計塔の上の方から、不思議なホルンの音色が聞こえてくる。見ると四角く空いた窓から――ガラスはない。ちなみに――同じくらいの歳の少年がフレンチホルンを吹いているのが見える。その曲は・・・そう、ニック・ドレイクの"Horn" だった。かつて何度も聴いた曲だ。不思議な曲。彼は何を思ってあれを作ったのだろう・・・?
その少年はひとしきり空気を震わせてしまうと、やがて姿を消した。僕はその余韻を噛み締めながら、彼が姿を現すのをひたすら待ち続けていた。その演奏には明らかに死者を弔うような響きがあった。でもどこに死者がいるというのだろう、と僕は思う。ここは明らかに無人じゃないか。死体すら見えない。あるいはそれぞれの家の中には白骨が眠っているのだろうか・・・?
少年はやがて姿を現した。時計塔の下の方にある出入り口から、無表情で登場して、ホルン片手に、こちら目がけてテクテクと歩いてきた。僕はただじっと待っていた。場の空気には夢のような浮遊感と、死の予感がもたらす重たい粒子とが、混ざり合わない形で同居していた。僕は息を吸い込んだが、それは現実の空気には思えなかった。やがて少年は僕のすぐ側にやって来た。そして言った。「やあ。待っていたよ」と。
僕はなぜか頷き、そして一度首を振った。「僕は・・・たぶん初めてここに来たのだと思うんだけど・・・」
「君はずっと前からここにいたんだよ。自分で気付かなかっただけでね」。彼はそう言うと、僕の手を取って、どこかに向けて引っ張っていった。僕は抵抗する必要性を感じなかったため、ただ彼のされるがままになっていた。彼はごく普通の恰好をしていた。色の褪せたジーンズに、辛子色の半袖のシャツ。ナイキの白い――でも今では汚れてしまっている――スニーカー。髪の毛はだいぶ長くて、先の方が自然にカールしている。美男子と言えないこともないが・・・彼はあまり自分の外見のことは気にしていないように思える。まあたしかにそうだよな、と途中で僕は思う。だってどこにも同じ年頃の女の子がいないのだもの。
彼の姿は僕の記憶のさらに奥の方を突いていたが、結局最後までどこで会ったのか思い出すことはできなかった。あるいは地上ではなかったかもしれない。何かの夢で見たのかもしれない。あるいは古い本の中で読んで、このような姿の少年がいる、と想像したのだったか・・・。いずれにせよ、僕らは初対面だったにもかかわらず、会って数秒後にはもう親しくなっていた。きっとお互いに、心の底の方で、同じような想いを――孤独を、寂しさを、哀しみを・・・――抱いているということを本能的に感じ取っていたのだと思う。だからこそ我々は特に細かい言葉を交わさなくとも、心を触れ合わせることができたのだ。
彼は自分がやって来た時計塔の脇を通り抜け――近くで見るとすごく高く見えたが――細い街路を縫うように歩いていった。基本的にはレンガで造られた家々が並んでいたのだが、時折木造の古い家屋も見受けられた。それはヨーロッパのものというよりは日本のものに見えたが、僕は特に何も言わなかった。別に文化が混ざり合っていたって構わないだろう、という気がしたからだ。あるいは時間も、このようにして混ざり合っているのかもしれない。過去と未来・・・。根拠はなかったが、なんとなくそういう気がしたのだ。
彼は僕のことなんか振り返りもせずに、ただひたすら前に進んでいった。どうやらこの辺の道順は熟知しているみたいだった。右に曲がったかと思えば、左に折れる。階段を上り、階段を下る。少し開けた場所に出る。でもすぐにまた路地に入っていく・・・。
「ずっと前からここにいるの?」と僕は訊いてみる。「なんというか・・・すごく詳しそうだし」
「たぶんそうなんだと思う」と彼は足を止めずに言った(顔だけはチラリとこちらを向いてくれたが)。「いつからいるのか、もう自分でも思い出せないけどね・・・。でもさ、ここは不思議な街でさ、いつも形を変えているんだよ。あの広場だけが変わらない。それとあの時計塔ね。いつも二時を指している。僕は気が向くと、あそこで演奏をしている」
「誰にあの曲を教わったの?」
「誰かに、ね」と彼は言う。そして細い道を右に曲がる。「ここに注意してね。段差があるから・・・。うん。誰に教わったのかはね、自分でも覚えていないんだ。でもなぜかあの曲は吹ける。それで・・・ええと、それ以外のときにはね、こうやって一人で歩き回っている。それで街の形を記憶しようと努めているんだ。でもすぐに変わっちゃうんだけどね」
「変わっている割には、君は道を熟知しているみたいに思える」
「それはさ」と彼は歩き続けながら言う。「見える光景は大抵既知のものだからさ。でもその組み合わせが変わっている。たとえばこの路地」。彼はそう言って前方を見る。中世ヨーロッパの街並み。石畳。塀。誰もいない路地・・・。「僕はこの街並みをよく知っている。でもその先を曲がったところに何があるのかは分からない。というのもいつも違っているからだよ。ためしに行ってみようか」
僕らはそちらに向けて進んでいく。急な曲がり道を左に曲がる。すると・・・どこかで見覚えのある近代的な住宅街の光景が現れた。東京だ、と僕は思う。それも東京の外れ。僕が大学時代に住んでいたアパートの近く・・・。道路標識を探し求めるが、どこにも文字らしきものはない。「30」という制限速度の標識や、「止まれ」という道路に書かれた字はあるのだが、具体的な住所を示すものはどこにも存在しない。高い電柱。電線。灰色の空。僕は驚いてあたりを見回している・・・。
「言ったでしょ?」と彼は言っている。「突然こういうことが起こるのさ。でも僕はこの辺のブロックもよく知っている」
「まるで夢みたいだ」と僕は言う。「あるいは僕らは夢を見ているのかな?」
「みんなね」と彼はそこでぼそっとつぶやくように言う。「本当はいつも夢を見ているんだよ。それぞれの場所でね。でも大事なのは夢と夢の落差だ。僕らはそこから真実を推し量るしかない」
僕がその言葉の真意を理解する前に、彼はすでに先に向けて歩き出している。見慣れた道路。見慣れたブロック塀。見慣れた空き家。みすぼらしいアパート・・・。一つ一つの光景にはこうして見覚えがあるのに、どうしても特定の住所が浮かんでこない。特定の人間の顔も浮かんでこない。どうしてだろう、と僕は思いながら歩いている。と、そのとき前方、斜め右手の方向に、黒い猫が現れる。すらっとした、上品そうな黒猫だった。尻尾がピンと立っている。塀の上を優雅に歩いて・・・消えた。たぶん下に飛び降りたのだと思う。「猫だ」と僕は驚きつつも、なぜか少し嬉しくなって言っている。「ここにも生き物がいるんだね」
「いるよ」と彼はなんでもなさそうに言う。「というかこの街そのものが生き物みたいなものだからね。当然別の生命を包含する、ということもあり得る。こんなことを言っている僕自身だってそんな感じさ。たぶんね。自分の意志というよりは、街の意志によって生かされている」
「僕は?」と僕は訊いてみる。
「君は・・・ちょっと違うな」と彼は言って、そこで少し立ち止まる。僕は慌てて急ブレーキをかける(もう少しで彼に衝突してしまうところだった・・・)。彼は僕に、自分の胸に手を当ててみるよう言う。僕は言われるがまま、そこに手のひらを付けてみる。始めは何がおかしいのか分からなかったのだが・・・そう、鼓動がないのだ。あらためてシャツの下から直に肌に手を当ててみる。でもやっぱり鼓動がやって来ない。なんにもやって来ないのだ。僕は死んでしまったのだろうか、と僕は思う。
「君は今特殊な状態にいるのさ」と少年は言う。「ほら、ちょうど・・・意識だけが肉体を抜け出してきたって感じかな。ためしに僕の胸に手を当ててみなよ。ほら、ここのところ」
僕は彼の左胸に手を当ててみたが・・・そこにはごく普通の鼓動が鳴っていた。小さく、執拗に、規則的に・・・。ドクン、ドクン、と聞こえる。その音は僕を少しだけほっとさせてくれる。「君は・・・ちゃんと生きているみたいだ。この不思議な街で」
「そう」と彼は少しだけ微笑みながら言う(透明な朝露のように短命で、爽やかな微笑みだった)。「僕は生きている。この街と共にね。でも君は違う。君は・・・たぶんここでは観察者なんだろうな。きっと」
「観察者」と僕は言ってみる。観察者。カンサツシャ・・・。「それは・・・つまり?」
「つまりさ」と彼は言って、ホルンのふわりと広がったベルの縁を撫でる。その金属製の楽器には、僕ら二人分の反映が映り込んでいる。奇妙に歪められてはいるが・・・。「君は本当はここの住人じゃないってこと。たぶん君の本来の心臓は・・・地上で動き続けているんだろうね。だからこそ今ここにはなんにもないんだ。たぶん君の胸には、空虚な穴が空いている。穴が君を動かしているようなものなんだよ。実際のところ」
「穴」と僕は言う。そして無意識にまた胸に手を当てる。
「君はきっとね、その穴を埋めるためにここに来たんじゃないかな。わざわざ地上の肉体を離れてまでね。それで、僕はそのために今こうして道案内をしているというわけだ。決して適当にザクザク進んできたわけじゃないんだよ。道は分からないけれど、本能的な予感のようなものならある。ああ、あれはこっちの方向にありそうだなってね」
「あれって何?」
「それは」と彼は視線を前方に戻しながら言う。「実際に見てからのお楽しみだ」
蛇人間、生まれる(6)へと続く・・・
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