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4年毎の柔道ファン

柔道とJUDO

柔道の日本選手には「講道館ルール」と「国際ルール」の2つが課されるのだという。前者が「柔道」で後者は「JUDO」ということか。すっかりお馴染みになった青い柔道着も、かつて日本は猛反対して、それが使用される大会には選手を出さないとまで言った。ちなみに国内で青い柔道着が使用されるようになったのは、令和になってからのことらしい。

頻繁なルール改正

野村忠宏や、やわらちゃんが第一線だった頃は、レスリングかと思える試合が非常に多かった。かつては「有効」「効果」とかいうポイントもあった。それが、「まずは組む」「組み際に足を狙うのは反則」となっていったのは、「柔道とは?」を熱心に説いて回った日本(山下泰裕だったと思う)の主張が認められたからだと読んだ記憶がある。

いやいやながらの国際化?

おそらく、日本の柔道は明確な方針のもと、積極的に広められたものではないと思う。発祥国としての敬意と尊敬が与えられていることにあぐらをかき、気がつけば世界中にそれがJUDOに変わって広まってしまって、気がついたらそこに合わせざるを得なくなってしまったのではないかと思う。

審判の技量が不足していると言われるのも、元をたどれば、そこにいきつくのではないか。

剣道との比較

あくまでもわたしの感想であるが、それはかたくなに国際化を拒んでいるように思う。そしてそれが正解であるとわたしは思う。剣道が「KENDO」になってしまえば、その本質が失われることは明白だ。柔道も剣道も、最も強いものを決めるチャンピオンシップのスポーツではないからだ。

礼にはじまり礼に終わる

少なくとも「道」という言葉が付けられてからの「武」の本質はそれである。チャンピオンを決める競技ではないのだ。最初と最後に相手への敬意を示す、これが「武道」の本質であると思う。

※ちなみに、五輪書に書かれた宮本武蔵の剣は、今の剣道とはまったく異なるらしい。両足への体重の配分、足捌きからして根本的に違うらしい。剣道は1対1が前提のそれだが、武蔵のそれは1対多だからというのがその理由らしい。

※最新の情報ではないかもしれないが、「スポーツルールはなぜ不公平か/生島淳/新潮選書(20030720)」によれば、柔道大国フランスでは、柔道を学ぶ子どもに、幼い頃から絞め技、関節技をかけていいことになっているらしい。日本では小学生では2つとも禁止、中学生になって絞め技が解禁される。「JUDO」なら、相手に勝つためには危険な技であっても構わないということか。

「段位」と「品格」

武道には「段位」がある。この基準は明らかに強さだけによって与えられるのではない。そこには必ず「品格」とか「精神性」が考慮される。特に段位が上がればその要素は強くなる。単に強ければ最高位となれるわけではない。それらの理解なくして、正確に「武道」を理解することは難しいのではないか。

柔道家に引退はない

リオ、東京と金メダルをとった大野将平は、こう言ったという。代表選手としての引退はあるが、柔道家には引退はないといった意味らしい。彼の柔道は確かに美しかったし、感情を畳のうえで爆発させることもなかった。わたしは、少なくとも畳の上では、いかなる感情でも押し殺すのが武道家だと思う。それが「品位」であると思う。

茨の道、されど・・・

日本の柔道選手には、あくまでも「柔道」をやりきり、美しい技、立ち居振る舞い、それを世界に見せてほしいとわたしは思っている。それが日本の柔道家の宿命、まさに茨の道だとは思うが。

終わり

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