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10-2.江戸での評議

反対意見

川村ならびに、クルチウスからの書簡を受け取った江戸では、それに対して勘定系の海防掛から通商不許可、応接掛の長崎派遣反対と、川村の意見と真っ向から反対した上申書が出されました。少し詳しく見ていきます。

まず通商問題に対しては、「イギリスへ通商を許可した場合、他国へも許可せざるを得ない。そうなれば、日本から持ち出される品物の金額は計り知れない。一朝一夕の論で結論を出すべき問題ではない」というのが理由でした。

次いで応接委員の長崎派遣については、「既に締結された条約に基づき談判をおこなうべきで、その対応は長崎奉行で十分、通商を持ち出してきたら即答はできないため、江戸からの返答を待つか、再度来航するかのどちらかをイギリスへ選択させるように」という主張でした。

川村がおそれた軍事的威嚇を受けようとも、日英約定以上のことをイギリスと新たに取り決めることは考えていなかったのです。

賛成意見

一方で、川村の意見に同調する上申もありました。在浦賀奉行と、在府箱館奉行連名のものです。これは、クルチウスの述べた世界情勢に敏感に反応し、長崎での応接が不調に終わった場合には、バウリング艦隊が江戸へやってきて通商条約締結を脅迫することを恐れ、川村同様に「イギリスの脅威をいかに逸らすか」という論旨でした。通商に関しては、それを開始することによる損失を被らない方策をたてるべきとしたものでした。

評議結果

9月2日、幕府は現時点における通商の可否にかかわらず、近い将来にあるであろう通商開始に対処すべく、日本に損失のでない貿易方法を検討するよう指示を出しました。ここで、「交易互市ごし之利益を以、富国強兵之基本」とすべきことを指示したのです「幕末通商外交政策の転換/嶋村元宏/神奈川県立博物館研究報告―人文科学―第20号、1994年3月」P32)。

幕府にとって有利な輸出品・貿易方法を調査検討するには、時間が必要です。そのため、バウリングに対しては、条約にかかわる交渉さえ不可として応接掛の長崎派遣は見送ることとする通達もそのすぐ後に出されました。

前門のハリス、後門のバウリング

また、8月21日には和親条約の条項をもとに、下田にアメリカ領事としてタウンゼント・ハリスがやってきています。日本側からすれば「居すわる」です。ハリスについては後述します。つまり、江戸ではイギリスだけでなくアメリカへの対応も必要となってきたため、これまでより一歩進んだ「貿易方法の検討」という方針がだされたのだと考えられます。つまり、もはや通商は避けられないと覚悟したわけです。

方針転換

その通達が出されて間もない9月17日に、イギリス東インド艦隊司令長官シーモア率いるイギリス艦隊の長崎来航情報が江戸へ届きます。シーモアは日本との通商条約締結を命じられていたわけではなく、前年の日英約定の規定に基づき、長崎市内遊歩の許可を得るために長崎奉行と交渉が始まっていたのです(シーモアの来航は9月1日)。

これを受け18日には、一転して長崎での応接掛が任命されます。応接掛は、大目付1、勘定奉行2(川路聖謨・水野忠徳)、勘定吟味役1、同組頭1、徒士目付1、蕃書調所頭取1の、総勢7名の大人数です。それとともに、万が一バウリングが江戸へ来航した場合に備えて、江戸での応接掛(大目付筒井政憲、在符箱館奉行竹内保徳、目付岩瀬忠震)も任命するという念のいれようでした。先の勘定系海防掛の上申を全て否定したようなものです。

目付系海防掛からの上申

また、この方針変更後になって、今度は勘定系ではない目付系海防掛からの上申が出されます。これは、これまで「祖法」とされてきたものの転換を図り、イギリスからの通商に関しては許可すべしというものでした。

それは、「かつてはイギリスへも通商を許可していた」「その歴史はオランダと同等」「なんの関係もなかったアメリカへ許した権利は、かつての事実に基づき許可されるべき」としたもので、さらに通商に関しては、「イギリスの要求を追認するのでは、御威光にかかわり、侮りを受ける」だから「その前に自ら通商を開くべき」(出所:「嶋村元宏同論文同書」P34〜35)としたものでした。勘定系の上申とは真っ向から対立する内容でした。これについて、嶋村氏は次のように述べています。
 
「国家的威信維持のための政策として幕府が主導権を握って『自主的』に通商を開始すべきことを主張し、その正当化のために鎖国祖法の相対化を図ったのである。」(「嶋村元宏同論文同書」P37)

驚異の78歳

また、同時期に出された大目付筒井政憲からの上申書は、具体の通商方針として「政府は単に売主・買主両者からの税を徴収するにとどめ」るという、いわば自由貿易論が展開されていました。幕府が心配していた「外国へ売るものがない」については、「商人は自然と代わりの品を探すもの」なので「放任すればよい」といった放任論です。これについて石井孝氏は、以下のように述べています。
 
「管見のかぎり、幕吏の自由貿易論としては最初のものである。79歳という高齢の筒井が、よくこのような論を展開しているのは驚異である。この後大目付・目付から自由貿易論が出てくるが、筒井の論はその先駆をなすものであり、幕府内における新しい風潮を知るにたりよう。」(「日本開国史/石井孝」P 182)

筒井の名は、川路聖謨とともにロシアとの交渉時(「7-16.日露交渉の終結」)にすでに書いた。彼は1787年生まれなので、満年齢でこのとき78歳。彼は昌平坂学問所で学び、そこで頭角を現したいわゆる儒者だった。そこのトップは代々林家が勤めていたが、筒井は32才でその代理に任命されたほどの成績優秀者で、1817年には長崎奉行も務め、その後は江戸の町奉行も務めている。長崎奉行時代には日蘭貿易の拡大を図った(出所:「幕臣筒井政憲における徳川の外交/佐野真由子/日本研究39巻/2009/0331」P49)。

ゴンチャーロフの筒井評

ちなみに、ゴンチャーロフがみた筒井は以下の通りです。

「老人は最初から私たちを魅了してしまった・・・・まなざしにも、声も、すべてに長老らしい分別のある愛想のよい善良さが輝いていたーそれは長い人生と実生活の叡智のたまものである。・・・・おまけに、この老人の物腰には立派な教養がにじみ出ている。」(「ゴンチャーロフ日本渡航記/ゴンチャーロフ著/高野明・島田陽訳」P439〜440)

筒井については、このすぐ後のハリスの江戸出府要求の評議のときにまた登場する。

幕府は、「通商」の開始に向けて舵を切り始めるのです。1844年のオランダ国王からの「開国の勧め」から12年経っていました。

続く

タイトル画像:湯島聖堂(公益財団法人斯文会/http://www.seido.or.jp/yushima.html
(昌平坂学問所です)


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