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外国人が絶賛する「和牛」にまつわる歴史

KOBE牛

有名なNBA選手だったコービー・ブライアント選手。彼の名前(KOBE)は、あまりの美味しさに感激した彼の父が、息子の名前にそれを名付けたと読んだ記憶があります(Wikipediaにもそう出てました)。美味しかったものは「KOBE牛」です。何ともすごい名付け方ですが、「KOBE牛」が絶品だということが外国人に知られたのは、最近のことではありません。幕末の頃からです。

幕末の外国人居留民の悩み

彼らの悩みは牛肉が容易に手に入らないことでした。生きた牛の提供を求められた幕府は、「わが国の人民が、渡世のために飼っている牛馬は、重き荷を負って遠くに行き人力を助くるが故に、その恩を思いて肉を食うことなし」と再三再四断り続けていました。箱館奉行所は、「荷物の運搬で牛をつかうこと」を禁止することまで出しました。外国人にみせたくなかったからです。困り果てた外国人は、アメリカや中国からウシを輸入し、横浜や横須賀で食肉に処理しました。1865年(慶応元年)7月に外国人に牛肉を供給する処理場が横浜の山手に開設されますが、数頭ずつの輸入の手間は大変なものであり、開設後しばらくすると、神戸から近江や三丹(丹波・丹後・但馬)で飼育した牛を、30~40頭ずつ船で運ぶようになります。この時から「神戸(KOBE)ビーフ」の美味しさが外国人の間で評判になったのです(出所:「明治洋食事始め/岡田哲」P37)。

ハリスと森山栄之助(幕府の応接事務係)の問答

1856年8月に下田に来日したアメリカ初代領事のハリスは、滞在3週間経った9月6日に下田奉行に毎朝牛乳を届けてくれるよう、下田奉行所に依頼しました。このときの問答は、「幕末外国関係文書」に残されており、「ハリス日本滞在記(中)/坂田精一訳」で読むことができます(同書P56〜57)。どんな内容だったか、ご紹介します。

森山:牛乳を依頼された件ですが、わが国民はそれを口にしません。あなたが目にした牛は、農民が耕作用、あるいは荷物を運ぶために飼っているだけで、繁殖させているわけではありません。たまには子牛も生まれますが、あなたが所望する牛乳は、子牛に与え子牛が育つためのものなので、ご希望には添えません
ハリス:それならば、母牛を求めたい。こちらで乳搾りをします。
森山:先ほどのべたように、牛は耕作、運搬のために農民はとても大切にしているので、他人に渡すことは難しいでしょう。
ハリス:それならば仕方ありません。しかし、食用以外にも当方で必要なものは追って相談するので、ご配慮は願いたい。
森山:承知しました。状況が整えば手当はいたします。
ハリス:ここにヤギはおりますか?
森山:ここにも、近隣にもおりません。
ハリス:ならば、香港より取り寄せ、この辺りの野山で放飼することはどうですか?
森山:それはなりません。
ハリス:ならば、この宿舎で飼うのはいかがですか?
森山:それならば、構いません。

「牛乳は子牛が飲むためのものなので、差し上げられません」という回答には笑ってしまいます。また、「その恩を思いて牛肉を食うことなし」という回答にも、当時の日本人が家畜にいかなる情を抱いていたかがわかるものだと思います。

出島でのオランダ人

長崎出島に滞在していたオランダ人はどうだったのでしょうか。基本は1年間の滞在でしたが、その間「牛肉」を食べることは諦めていたのでしょうか?また、長崎には「唐人屋敷」という一画に清の商人も滞在しています。中国人は(朝鮮人も)、日本人のように「肉食」をタブーとする文化はありません。東アジアの中で日本だけにそのタブーがありました。

出島のオランダ人や唐人屋敷の中国人へは、食用肉を提供する役目を負った村があったようです。彼らが食べる「肉(牛、豚)は、そこで飼育されていたのです。オランダ人へは屠畜後、唐人屋敷へは屠畜前に売られていました。全村あげてその商売をしていたわけではなく、村内でその商売をするものは、他の村民と折り合いが悪く、しかも村内で屠畜をすることが、子供が犬を殺して真似事をするなど、風紀上、教育上よくないことなので、せめて村内での屠畜は中止したいと、村役人連名の長崎代官へ向けたお伺い書(1843年、1865年の2回)が残っています(出所:「潜伏キリシタン/大橋幸泰」P186)。

ロシア船への物資補給

1853年8月21から11月23日の約3ヶ月間、日露条約交渉のために長崎に滞在したロシア使節プチャーチン一行へは、オランダ商館が仲介して幕府からロシア船へ物資が補給されていました。このときオランダ商館からロシア船へ納品された物資(8月31日から10月31日までの2ヶ月間)の中には「牛乳(煮沸済)3瓶」「牛乳2瓶」、「豚2匹」「豚1匹」「鹿1匹」などがあります。「牛乳」はあっても「牛」そのものはありません。貴重なものとしてオランダが渡さなかったのでしょうか、ここからはわかりませんが、「牛乳」だけは渡していたことがわかります(出所:「和親条約と日蘭関係/西澤美穂子」P62~66の表より)。

仏教伝来、白村江の戦い、渡来人、そして肉食禁止

仏教が日本に伝わったのは、538年とされています。その後、朝鮮半島の戦乱、白村江の戦い(663年)以降、百済からの亡命者、新羅・高句麗からも渡来人がやってくるようになります。近江の都(大津)で優遇された渡来人は、半島の様々な文化も日本に持ち込み、牛の飼育、殺した牛を神前に捧げる風習も持ち込みました。幕末に外国人を喜ばせた「牛」の産地は近江・三丹だと前述しましたが、その渡来人の伝統がずっと生きていたわけです。

仏教の興隆に熱心だった天武天皇は、仏教の教義をもとにした殺生禁断、獣肉禁止の法令を675年に初めて発しました。「牛馬犬猿鶏の肉食禁止。それ以外は禁止しない。もし食べたら罰する」というものです。以降、1126年まで10回にわたり、内容は違えど、肉食禁止の法令が出されるようになります。本来仏教には食に対するタブーはありませんが、殺生禁断はあり、肉食禁止はそれに基づいた日本独自の禁忌でした(ただし、仏教僧には厳しい戒律があった)。

701年に出された有名な「大宝律令」にも、家畜や肉食に関する条項があるようです。前掲岡田氏同書には

「しかし、家畜を食べるのは騎馬民族の習慣で、古代からの日本にはなく、渡来人がもたらしたものであろう。したがって、当時の日本人にとって、肉食禁止はあまり苦痛にならない禁令であったと思われる。むしろ、仏教の興隆とともに、台頭し始めた渡来人の勢力を、食べ物の面から抑圧しようとした政策とする見方もある。」(出所:「岡田氏前掲書」P33)

とあります。

法令の目的が何だったにせよ、最初の法令から1200年の長きにわたり、公然たる肉食は禁止され、それが解禁されたのは明治5年(1872年)、新橋・横浜間に鉄道が開通したのと同じ年でした。

タイトル画像出所:Wikipedia[コービー・ブライアント」https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kobe_Bryant_DC.jpg

終わり

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