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5-11.アメリカ人青年の夢

初のネイティブ英語教師

前回述べたラナルド・マグドナルドのことを書きます。

彼は夢を果たすことはできませんでしたが、長崎でオランダ通詞たちに約七ヶ月間英語を教えました。彼が日本で初めてのネイティブスピーカーによる英語教師となったわけです。彼は、日本での滞在を記録した※「日本回想記」の中で、長崎での様子を詳しく残しています。

※「マクドナルド『日本回想記』再訂版/ウィリアム・ルイス、村上直次郎編/富田虎男訳訂」2012年9月15日再訂版、刀水書房

マクドナルドの生い立ち

マクドナルドの母は、産後すぐに亡くなっており、彼は母の面影を知らずに育ちました。漂流、救助されて太平洋西岸にやってくる日本人の風貌が、現地インディアンとよく似ていることは、当時から現地で驚きをもって知られた事実であり、彼はその話を耳にし、自分のルーツが日本にあるのかも知れないと考えました。そして、いずれ必要となる日米間の通訳を夢見たのです。彼の回想記には肌の色の違う彼に対する、いろいろな差別のあったことが記されています。

日本滞在思い出

彼は、回想記に以下のように書き記しています。

「日本の最北端から最南端に及ぶーゆうに1000マイル(1600キロ)はあるーあの長い旅と航海において、またこの異邦で過した10ヶ月の滞在期間全体を通じて、私は一度も荒々しい言葉を浴びせられたことはなく、意地悪な目つきをされたりしたことさえなかった。あらゆる階級の間に、この奇想天外な漂流者―このうえなく風変わりな異邦人である私―に対する優しい思いやりがみなぎり、それは私への一般的な好意と処遇にあらわれていた。私が宗谷海峡にある利尻島の浜に上陸したとき、アイヌ人が両側から1人ずつ私の手首を優しくとって、彼らの雇主の住居まで助けながら導いてくれ、他方で他のアイヌ人たちが草履をはかせてくれたが、そのときから合衆国のスループ型砲艦「プレブル号」に乗船するときまで、彼らの親切な心くばりはまったく変わることはなかった。私は、気心の合った共感から、彼らが心から好きだった。この共感さえあれば、人種とか信条とか世間的な利己心に曇らされないで、放っておいても、われらアダムの一族全員(人類全体)が『すばらしい親族』になれるのだ」(同書P189~190)

彼の教え子(オランダ通詞たち)

彼が英語を教えた中で、最も優秀、かつ印象に残る人間として、前述したマンハッタン号での通詞を務めた森山栄之助(当時28歳)を挙げています。森山はオランダ人から「オランダ人より正確にオランダ語を話す」とまで言われたオランダ語のエキスパートでもあり、発音の仕方は独特だったが、彼の英語は非常に流暢だったとマクドナルドは書いています。森山は彼と会う時(ほとんど毎日だった)、いつも何冊かのオランダ語の本と、1冊の蘭英辞典をもっていたとあり、ラテン語とフランス語も勉強しているとマクドナルドに語っていました(出所:同書P128)。

マクドナルドの生徒は14名。生徒たちが苦労した発音は、今の私たちと同様です。マクドナルドはこう書いています「たとえば、彼らはLの文字を発音できない。できたとしてもきわめて不完全だ。彼らはLをRと発音する」(同書P148)。授業は、日本人が英語を発音し、それをマクドナルドが矯正していくといった形式でした。

「海の祭礼/吉村昭」は、このマクドナルドと森山栄之助を主人公にした歴史小説です。

日本初の外交官

森山は、後のペリー艦隊の2回目の来航の時に、通詞として活躍し、アメリカ側の通訳に対して、「マクドナルドは元気だろうか」と尋ねたとも言います。マクドナルドの帰国後、決して交わることのなかった2人の運命ですが、森山もまたかつてのマクドナルドとの日々を懐かしく思っていたに違いありません。

森山は、その後幕臣に取り立てられ、外交専門の官僚、外交官としてのちに、ハリスとの交渉の矢面に立っていきます。

続く

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