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7-1.ペリーの登場

オーリック司令官の解任

「5-13.動き出すアメリカ」の続きになります。

日本派遣艦隊の指令長官オーリック司令官への大統領の指示(1851年5月)は、

「蒸気船による大洋航海が世界を結ぶときがまさにこようとしている」「カリフォルニアとチャイナを結ぶ航路。これが最後に残されたリンクである。わが国の企業家にこの航路を提供する施策を一気呵成にとらねばならない。これは大統領の考えである」(「日本開国/渡辺惣樹」P185)

と、非常に明確でした。

「カリフォルニアとチャイナを結ぶ航路」「最後に残されたリンク」という言葉は、彼らの真の目的をよく表しています。前章「6.太平洋を隔てた隣人」で明らかにしたように、西へ西へと進められたアメリカの領土拡張は、ついに太平洋へ向かうこととなったわけです。

蒸気軍艦サスケハナは1851年6月に、広東へ向けて出港します。しかし、司令官オーリックは広東で※司令官を解任され、その後任として白羽の矢が立ったのが、マシュー・カルブレイス・ペリーでした。1851年11月のことです。

※「幕末外交と外国/加藤祐三」によれば、オーリックは赴任の途上でトラブルをおこし、1851年11月に解任、更迭(出所:同書P54)。

ペリーの登場

オーリックに代わり、東インド艦隊司令長官への内示を受けたペリーは、しばらく回答を保留。正式な任命は1852年3月でした。彼は当時蒸気郵船開発の監督責任者として、蒸気船開発の進捗を海軍に報告する立場にありました。それ以前は、蒸気軍艦ミシシッピ(のちに日本にやってくる戦艦)の艦長として、米墨戦争を戦い、その後はメキシコ湾艦隊の司令長官に昇進しています。生粋の海軍軍人であった彼が、東インド艦隊指令長官に任命されたのは58才の時でした。

日本への遠征決定が知られると、アメリカの新聞はその賛成派、反対派と意見が分かれます。賛成派は、日本を開国させ、国民を無知の迷信の中から救い出し、教育するのはアメリカの責務だとし、一方の反対派は、艦隊派遣は宣戦布告と同じこと、あくまでも平和的な手段をとるべきだというものです(出所:「日本開国/渡辺惣樹」P188)。

また、このアメリカの情報はヨーロッパにも伝わり、それを知ったシーボルトは、その遠征艦隊に自らを加えてくれるように売り込んできています。当時、彼ほど日本の事情を知った専門家はいません。その自負があったのでしょう。しかし、ペリーはシーボルトが日本を追放された事実を知っていたので、その同行を拒絶しています(出所:「ペリー提督日本遠征記Kindle版/合衆国海軍省/大羽綾子翻訳」P30)。

日本情報の収集

任命後、ペリーは入手可能なあらゆる日本情報を熱心に集め、またオランダに対しても協力を求めるようアメリカ政府に働きかけ、オランダ政府からの協力もとりつけました。具体的には、日本の地図類や多くの参考資料をオランダから入手(3万ドルで購入)したのです(出所:「日本開国/渡辺惣樹」P200)。アメリカには、日本に関する資料はほとんどないので、すべてヨーロッパから入手しなければなりません。中でもシーボルトが日本から持ち帰った膨大な資料をまとめた「日本(Nippon)」(1832年から20年ほどにわたって20分冊で発行されたもので大部分はドイツ語で書かれていた)でした。それは英語圏でも需要が高く、それを英文抄訳したアメリカ人宣教師は、その解説でこう書いています。

「日本人は、原始時代いらい膨大な数の船舶を有し、中国人と同様に商人たちは近隣諸国を往来・交易し、その足跡ははるかベンガルにまで及んでいた。ポルトガル人との接触時期に、すでに日本国は優れた文明を有しており、これはキリスト教の平和的・禁欲的な教えの影響を受けずに到達しうる最高位の文明段階といえる…」(「幕末外交と開国/加藤祐三」P75)

「1-13.フランシスコ・ザビエル」「1-15.ザビエルの見た日本」で述べた、ザビエルが抱いた日本の印象とほとんど同じです。

日本という国の情報は、最初はポルトガル人やスペイン人の宣教師によって、彼らが追い出されてからは、長崎に滞在したオランダ人からヨーロッパへ対して発信されており、これが当時のヨーロッパ人が理解していた日本像だったとしていいと思います。

ペリーは、「この歴史ある日本をわれわれの望む世界への仲間入りさせることが、最も若き国の我々に残されている」と、決意を述べています(出所:「幕末外交と開国/加藤祐三」P76)。

最も若い国が最も古い国へ挑むのだと。

続く


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