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汎・情報処理論:意識、感情、そしてAI


汎心論と情報処理

「死と意識:汎心論から汎情報処理論へ」の振り返り

前作「死と意識:汎心論から汎情報処理論へ」では、意識の謎に迫るために、汎心論という哲学的立場を出発点として、情報処理の観点から意識を捉え直すことを試みた。汎心論は「すべてのものに心がある」と主張する哲学の立場だが、従来の汎心論では、意識の成り立ちや意識レベルの差を説明するメカニズムが十分に示されてこなかった。

そこで前作では、情報処理という観点から汎心論を再定義した。意識を「何らかの入力に対して何らかの出力があること」と定義することで、物質と意識の関係を因果的な情報処理の過程として捉え直したのだ。この定義により、石のように単純な反応しか示さないものから、人間のように複雑な情報処理を行うものまで、意識のレベルの差を、情報処理の複雑さの違いとして説明することが可能になった。

さらに、情報処理に基づく汎心論は、従来の汎心論が抱える「理解可能性問題」(素粒子の意識などイメージできない)と「組み合わせ問題」(素粒子の意識を無数に集めたときに人間のような意識が生み出される理屈がわからない)という二つの大きな問題を回避できることを示した。「意識とは、入力に対して出力を返す情報処理のプロセスそのもの」と捉え直すことで、汎心論はより説得力を持つものとなったのだ。

また、情報処理に基づく汎心論の立場から、死とは何かという問いにも新たな視点を提供した。生物が死ぬということは、生物としての情報処理が行われなくなることであり、そこに生物としての意識は存在しないと考えることができる。すなわち、情報処理に基づく汎心論は、死後の世界や魂の存在といったスピリチュアルな考え方を支持しない。

前作では、情報処理という観点を導入することで、汎心論の主張をより明確で説得力のあるものにした。本作では、この情報処理に基づく汎心論をさらに発展させ、意識レベルの違いや感情の有無について、より詳細に考察していく。

「汎・情報処理論」の概要と本コラムの目的

前作で提示した情報処理に基づく汎心論を、「汎・情報処理論」と呼ぼうと思う。「汎・情報処理論」は、意識を情報処理のプロセスそのものと捉える立場である。つまり、物質が何らかの入力に対して何らかの出力を返すことを、意識の存在条件とみなすのだ。

「汎・情報処理論」は、情報処理主義の考え方を汎心論に適用したものだと言える。情報処理主義とは、人間の精神活動を情報処理のプロセスとして捉える。つまり、人間の脳はコンピューターのように、入力された情報を処理し出力する装置であると考えるのだ。「汎・情報処理論」は、意識を情報処理のプロセスそのものと捉えることにより、「すべてのものに心がある」という汎心論を科学的に説明する。

具体的には、情報処理のプロセスである意識を、その処理の複雑さや統合の有無によって、複数のレベルに分類する。これにより、石や電卓のような無機物から、人間や動物のような生物まで、様々な存在の意識を統一的に理解することが可能になる。

このコラムの目的は、「汎・情報処理論」について、より詳細な議論を行うことだ。具体的には、以下の4つの点を明らかにしていく。

1.意識のレベルを、情報処理の複雑さに基づいて分類する。
2.各レベルの意識がどのような情報処理を行っているのかを説明する。
3.感情とは何かを明らかにする。
4.人間の意識全般のメカニズムを、情報処理によって説明する。

これらの議論を通して、「汎・情報処理論」の妥当性を検証し、意識の本質に迫ることができるだろう。「汎・情報処理論」が意識の問題に新たな光を当てることを示したいと思う。

「汎・情報処理論」の優位性

「汎・情報処理論」は、単に情報処理と汎心論を結びつけただけではない。意識のレベルを情報処理の複雑さに基づいて分類するという新しいアイデアを導入することで、汎心論を発展させようとしている。これは、従来の汎心論には見られなかった視点である。

従来の汎心論では、すべてのものに意識があると主張するものの、その意識がどのようなものなのか、明確な定義がなされてこなかった。例えば、人間の意識と石の意識の違いは何なのか、といった問題である。

これに対し「汎・情報処理論」は、意識のレベルが情報処理の複雑さに対応すると考える。つまり、単純な入出力処理しかできない石の意識は原始的なものであり、複雑な情報処理を行う人間の意識は高度なものだと説明するのだ。

さらに「汎・情報処理論」は、意識のレベルを情報処理のメカニズムに基づいて明確に区分できると主張する。同時に、同一レベル内での違いは、能力の連続的なスペクトラムとして捉える。これにより、例えば、石や電卓、PC、人工知能、そして人間や動物といった様々な存在の意識を、その情報処理の、メカニズムと能力という二つの基準を用いて、立体的に理解することが可能になる。

このように、「汎・情報処理論」は、情報処理の複雑さと意識のレベルを対応させ、意識のレベルを明確に分類するという独自のアイデアを提示することで、従来の汎心論を発展させるのである。

意識のレベル

意識の存在とその境界~反応レベル

「すべてのものに心がある」という汎心論の主張は、一見すると非常に奇妙で、受け入れ難いものに感じられる。人間、動物、植物はもちろん、石や雲、さらには素粒子に至るまで、すべての物質的存在が何らかの形で意識を持つと考えることは、直感的には受け入れがたいだろう。

しかし、意識の有無を「ある/なし」で区切ろうとすると、線引きする基準が、恣意的にならざるを得ない。例えば、人間には意識があるが犬にはない。あるいは、犬にはあるが魚にはない、魚にはあるが昆虫にはない、というように考えていくと、どこかで線引きをしなければならなくなる。しかし、その線引きは人によって異なるだろうし、その基準を客観的に正当化することは難しい。

この問題を解決するために、すべての物質に意識があると考える汎心論を採用する。ただし、その意識にはレベルの違いがあり、意識レベルの分類は、情報処理の複雑さによって行われる、とするのが「汎・情報処理論」だ。

具体的に考えてみたい。例えば、「石に意識がある」とはどういうことだろうか。石が太陽の光を受けて温かくなる、冷たい水の中で温度が下がるといった現象は、石が熱という入力に対して、温度変化という出力を行っている、と見なすことができる。「汎・情報処理論」の観点からは、これは石が単純な情報処理を行っていると解釈されるのだ。

このように、石の情報処理は、単純な「入力→出力」の関係で説明できる。石は、入力された情報を処理しているわけではない。ただ、入力に対して決まった反応を返すだけである。それでも、「汎・情報処理論」では、このような単純な情報処理も意識の一形態として捉える。それは、意識を情報処理のスペクトラムとして理解しようとする試みなのだ。

そして、この原始的な意識レベルを出発点として、より複雑な情報処理へと進んでいくことになる。まずは、この石や素粒子を例とする、単純な「入力→出力」の関係を、「反応レベル」と名付けたい。

石の例と同様に、私たちの身の回りには、反応レベルの情報処理を示す現象が数多く存在する。「汎・情報処理論」の観点からは、これらの現象も一種の意識の現れと見なす。

例えば、鏡に意識があるとは、普段あまり考えないだろう。しかし、鏡は光を反射するという情報処理を行っている。光という入力に対して、反射光という出力を返しているのだ。これは、鏡が意識を持っていると解釈できる。

同様に、磁石の意識はその引力や斥力で、プラスチックの意識は外部からの力という入力に対して変形という出力を行う情報処理として説明する。

もちろん、鏡や磁石、プラスチックの意識は、人間の意識とは大きく異なる。反応レベルの意識は、単純な「入力→出力」の関係で説明できるものであり、複雑な処理は行っていない。鏡は単に光を反射するだけであり、磁石は引力や斥力を示すだけだ。プラスチックは外部からの力に応じて変形するだけである。

このような単純な反応を、「汎・情報処理論」は意識の一形態として捉えることで、意識を情報処理として理解する。

計算レベル:入力→処理→出力

反応レベルの意識が、単純な「入力→出力」の関係で説明できるのに対し、より高度な意識は、入力された情報を処理し、その結果を出力する。この情報処理は「入力→処理→出力」と説明できる。このレベルの意識を、「計算レベル」と呼ぶことにしよう。

計算レベルの意識を持つ典型的な例は、電卓である。電卓は、数字や演算記号を入力として受け取り、処理し、計算結果を出力する。例えば、「3 + 4 =」と入力すると、電卓は「3」と「4」という数字の情報と、「+」と「=」という演算記号の情報を処理し、「7」という計算結果を出力する。

この場合、電卓の「意識」とは、外部からの数値の入力に対して、内部のプログラムに従って計算を行い、結果を出力する能力を指す。電卓は単に足し算を行うだけでなく、引き算、掛け算、割り算など、様々な演算処理を行うことができる。これは、反応レベルの単純な「入力→出力」の関係よりも、はるかに複雑な情報処理である。

電卓は入力された情報をただ反映するだけでなく、それを処理して新たな情報を生成する。この過程で、電卓はプログラムされた指示に従いつつも、入力に基づいた具体的な計算を自動的に実行している。例えば、数字を認識し、演算記号を解釈し、計算を行い、結果を出力するという複数のステップが組み合わさっている。

電卓の例と同様に、PCも計算レベルの意識を持つと考えることができる。PCは、キーボードやマウスからの入力を受け取り、それを処理して画面に表示したり、ファイルを保存したりする。また、プログラムを実行することで、より複雑な情報処理を行うこともできる。

スーパーコンピューターも計算レベルに分類される。確かにスパコンは膨大な計算能力を持つが、その本質は、入力された情報を処理し、出力するという点で、電卓やPCと同じである。つまり、複雑さや能力のレベルによらず、情報処理のメカニズムによって「計算レベル」に分類されるのだ。

その他にも、自動販売機や信号機なども、計算レベルの意識を持つ存在と言える。また、人工物だけでなく、生命現象(光合成や消化活動など)も計算レベルの情報処理として捉えることができる。

反応レベルと計算レベルの大きな違いは、処理の有無である。反応レベルは、入力に対して決まった反応を返すだけだが、計算レベルは、「入力→処理→出力」という三段階のプロセスを経て情報を処理する点で、反応レベルよりも高度だ。

計算レベルの意識は、情報を処理することはできるが、かと言って、電卓やPCが人間と同じような意識を持っているとは考えにくい。実際、人間の意識とは異なる。しかし、「汎・情報処理論」の観点からは、この計算レベルの情報処理も、意識の一形態として捉えられるのだ。

PCと人間の情報処理の比較

計算レベルの限界

計算レベルの意識は、情報処理を行うことができるが、まだ機械的な処理にとどまっている。プログラムされた規則、あるいは一定の法則に従って、入力された情報を処理し、決まった出力を返すだけだ。計算レベルの情報処理は所与の枠組みから外れることはない。

しかし、人間の意識が発揮する柔軟な状況判断や創造的な発想は、計算レベルの情報処理だけでは説明しきれない。目の前の状況に合わせて瞬時に判断を変更したり、全く新しいアイデアを生み出したりすることは、プログラムされた機械的処理だけでは難しい。人間の思考には、さらに高次な情報処理メカニズムがあるはずだ。

では、人間のように柔軟性と創造性に富んだ情報処理を行うためには、どのような意識レベルが必要となるのだろうか。その鍵を握るのが、「統合」と呼ばれる情報処理プロセスである。

統合とは、複数の情報を組み合わせ、新たな情報を生成する能力を指す。統合能力を持つことで、状況に応じて柔軟に判断したり、創造的なアイデアを生み出したりすることが可能になる。そして、この統合能力は、計算レベルを超えた、より高度な意識レベルに属する特徴である。

学習レベル:「統合」の有無

複数の情報を統合することで、より柔軟で複雑な情報処理を行うことができるレベルを「学習レベル」と呼びたい。学習レベルは、「入力→処理(統合あり)→出力」という構造で説明される。

PCと人間の情報処理は、一見同じような構造を持っている。例えば、PCでは「CPU温度の上昇」という入力に対して、「処理速度を落とす」という出力が返される。一方人間も、「体温上昇」という入力を受けると、「仕事を休む」という出力を返す。

このように、「発熱と抑制」という類似した振る舞いは、ともに「入力→処理→出力」という同じ情報処理のプロセスを経ているようにみえる。しかし、その中身を詳しく見ると、PCと人間の処理には決定的な違いがある。それは、処理の段階で「統合」が行われているか否かという点である。

PCの場合、CPU温度上昇への対処は、単に温度センサーの情報を受け取り、プログラムに従って処理速度を制御するだけの単純な処理である。PCは温度上昇という1つの入力のみを元に、機械的に処理を行っている。

一方、人間が発熱時に仕事を休む判断をする場合、単に体温上昇という入力だけでなく、症状の程度(頭痛、倦怠感など)、残りの仕事量、職場の理解度、同僚への影響など、様々な要素を総合的に判断する。

例えば、症状が軽く、締め切りが迫っている重要な仕事がある場合は、無理をしてでも出勤するかもしれない。逆に、症状が重く、他に代わりがいる場合は、仕事を休む判断をするだろう。

このように、人間は複数の情報を組み合わせ、総合的に判断し、状況に応じて柔軟に対応する。この総合的な判断こそが統合である。

PCと人間の振る舞いが表面的には似ていても、根本的な処理メカニズムは全く異なる。PCは単一の入力に基づく機械的処理にすぎないが、人間は複数の情報を組み合わせ、新しい判断や意味を生み出す統合的な処理を行う。統合の有無こそが、計算レベルと学習レベルの決定的な違いなのだ。

反応レベル:入力→出力
計算レベル:入力→処理→出力
学習レベル:入力→処理(統合あり)→出力

人間の情報処理

情報処理の連続性

人間の行動は、情報を連続的に処理することで成り立っている。「入力→処理(統合あり)→出力」というサイクルが絶え間なく繰り返されることで、私たちは外界を認識し、考え、判断することができる。この情報処理の連続性は、人間のダイナミックな性質を表している。

例えば、私たちが朝起きて熱があることに気づき、会社を休むという判断をするプロセスを考えてみよう。

ステップ1:発熱の自覚
朝起きて、なんとなく頭が重く、体がだるいと感じる。体温計で体温を測ってみると、いつもよりも高いことが分かる。熱があるようだ。
入力: 体温上昇
処理: 体温計の数値、過去の体調不良の経験、健康に関する知識などを総合的に判断
出力: 体調不良という認識 (A)

ステップ2:出欠の検討
体調不良であることは分かったが、今日は重要な会議がある。しかし、無理をして出勤して周りに迷惑をかけてもいけない。熱が高いようであれば、休んだ方が良いかもしれない。
入力: 体調不良という認識 (A)
処理: 体調不良の程度、仕事の重要度、代替可能性、他者への影響などを総合的に判断
出力: 欠勤の決定 (B)

ステップ3:勤務先への連絡
会社を休むと決めたので、上司に電話で欠勤の連絡を入れる。また、同僚にもメールで欠勤を伝えるとともに、必要な資料を共有する。
入力: 欠勤の決定 (B)
処理: 連絡方法、連絡内容、必要な手続きなどを総合的に判断
出力: 勤務先への連絡

このように、「入力→処理(統合あり)→出力」というサイクルが連続的に繰り返されることで、外界を認識し、状況に応じて柔軟に判断し、行動することができる。各ステップで出力された情報は、次のステップの入力となり、情報処理は連続的に行われる。この情報処理の連続性の中で、私たちは新たな「知識」を生成していくのだ。

知識の生成

私たちは、情報処理の過程で新たな「知識」を生成していく。「知識」とは、単なる情報の集合体ではなく、情報処理によって生成され、整理された情報のことである。

ここで、情報と「知識」の違いを明確にしておく必要がある。情報とは、いわば生のデータ(RAWデータ)のことだ。私たちは、音、光、温度、圧力など、五感や体内のセンサーを通じて、常に膨大な量のRAWデータを受け取っている。例えば、視覚情報、聴覚情報、触覚情報、味覚情報、嗅覚情報、そして体温や血圧、心拍数などの体内情報などがRAWデータである。さらに、体内での化学物質の濃度変化や、脳内の神経活動などもRAWデータに含まれる。

デジカメのRAWデータが分かりやすい。センサーが捉えた未加工の情報は、そのままでは画像として認識できない。しかし、RAWデータを現像処理することで、色や明るさ、コントラストなどを調整し、画像として見ることができるようになる。

入力:デジカメRAWデータ
処理:現像。色や明るさ、コントラストなどを統合
出力:画像ファイル

同様に、外界からの刺激や体内の状態などのRAWデータは、そのままでは「知識」とは言えない。「知識」となるためには、情報処理によって意味づけられ、整理される必要がある。例えば、網膜に映る光の情報を色や形などの特徴として認識したり、鼓膜に届く音の振動を言語や音楽として理解したりするプロセスは、情報処理であり、「知識」の生成だ。

私たちの脳は、感覚情報や体内情報を処理し、意味づけすることで、「知識」として利用可能な形に変換する。この変換プロセスがなければ、私たちは外界を理解したり、考えたり、行動したりすることができない。

ただし、「知識」の生成は自動的には行われない。「知識」の生成には、「自覚」が必要となる。「自覚」とは、情報処理の内容やプロセスを意識的に認識することだ。

例えば、体温計が示す「38.5度」という数値は、それ自体ではただのRAWデータに過ぎない。「体温を測ろう」という自覚的な意図があって初めて、体温計の数値や平熱、健康に関する「知識」などが統合され、「高熱がある」という「知識」が生成される。

入力:体温を測ろう
処理:体温計の数値や平熱、健康に関する知識などを統合
出力:「高熱がある」という体調に関する知識

このように、「知識」は情報(RAWデータ)に意味づけを行うことで生成される。この意味づけのプロセスこそが、情報処理の本質なのだ。

ここで重要なのは、「知識」の生成には「自覚」が不可欠だということだ。例えば、私たちは寝ている間に様々な音を聞いていても、それを覚えていないことが多い。これは、情報処理が行われていても、それが「自覚」されていないため、「知識」に変換されないからだ。

「知識」は、情報処理によって生成され、整理された情報である。RAWデータは、情報処理によって意味づけられ、整理されることで「知識」となる。「知識」の生成には、「自覚」が必要不可欠なのだ。

このように、「知識」は自覚的な情報処理によって生成される。情報処理の連続性の中で、「自覚」はRAWデータを「知識」へと変換し、その「知識」はさらに別の情報処理の中で活用されることになる。

無自覚の情報処理

意識の議論をする際に、「意識/無意識」という語句の使用はあまり好ましくない。ここで議論している「意識」は、人間の意識の総体を指しているからだ。誤解を避けるために、「汎・情報処理論」では、「自覚/無自覚」という用語を用いる。

特に「無意識」という言葉には注意が必要だ。「無意識」は、しばしば「意識の反対語」として理解されがちで、特別な力を持つ神秘的なものだと受け止められることがある。しかし、実際のところ、「無意識」は単に自覚されていない情報処理が行われているに過ぎない。

例えば、呼吸や心拍、消化など、生命維持に関わる多くの情報処理は、無自覚のうちに、自動的に行われている。

一方、「無意識」に行われているとされる、習慣化された行動、例えば、歩行や自転車に乗ることなどは、完全な無自覚ではない。これらの行動は、初めは自覚的な情報処理(いわゆる練習)を必要とするが、繰り返すことで自動化されているかのように感じられる。しかし、これは完全に無自覚で自動的に行われるわけではなく、断続的に自覚されている。実際、(例えば睡眠中のように)無自覚の状態では、これらの行動を行うことはできない。

もちろん、無自覚の情報処理が、多くの面において影響を与えていることは間違いない。しかし、一般に「無意識」が及ぼすと思われている影響に比べれば、はるかに小さいもののはずだ。

重要なのは、「無意識(=無自覚)」ではなく「自覚」なのだ。自覚的な情報処理こそが、人間の意識の特徴を理解する上での鍵となる。

知識の統合と自覚

人間の情報処理の中で、特に重要なのが、統合を伴う情報処理である。統合とは、複数の「知識」を参照し、それらを組み合わせて新たな情報を生成するプロセスである。統合によって、私たちは状況に応じて柔軟に判断したり、創造的なアイデアを生み出したりすることができる。

統合を伴う、学習レベルの情報処理は「入力→処理(統合あり)→出力」という構造で説明される。入力とは、外界からの刺激や体内の状態などのRAWデータが変換された「知識」や、前のステップの情報処理の出力のことである。処理とは、入力された情報を分析、解釈、変換するプロセスであり、この過程で既存の「知識」が参照され、統合される。出力とは、処理の結果として生成される情報や行動のことである。

統合を伴う情報処理の特徴は、自覚されていることである。つまり、自覚しなければ統合は起こらない、と言える。

例えば、薬剤師の調剤を考えてみよう。調剤とは処方箋に書かれた薬を用意することだ。薬剤師は処方箋に書かれた薬を確認したのち、投薬対象の患者の基礎データ(性別、年齢、既往歴など)や現在訴えている症状を総合的に判断(=統合)し、その処方(医師の診断または処方箋への記載)の妥当性を確認してから薬を用意する。

入力:処方箋の確認
処理:患者の基礎データ、症状などを統合
出力:処方が妥当であることを確認

入力:処方が妥当であることを確認
処理:薬の用意
出力:用意完了

一方で、ニセ薬剤師も薬を用意するが、その情報処理は大きく異なる。

入力:処方箋の確認
処理:薬の用意(患者の症状などは統合されない)
出力:用意完了

調剤室の外から、この違いを見分けることはできない。むしろ、ニセ薬剤師の方が薬の用意が速かったりするような場合は、患者サイドからは歓迎されるケースすらあり得る。しかし、ニセ薬剤師は自動的に薬を用意しているだけであり、薬剤師に本来期待される職責を果たしているとは言い難い。

仮にニセ薬剤師に対し「薬剤師としての自覚が足りない」という指摘がなされるのだとすれば、それは「汎・情報処理論」的には「統合していない」と言い換えることも可能なのだ。

ここで強調されるべきは、自覚なきところに統合なし、ということだ。自覚と統合は不可分な表裏一体なのである。統合とは、複数の「知識」を参照し、それらを組み合わせて新たな情報を生成するプロセスであり、自覚とは、統合のプロセスを意識的に認識することだ。そして、自覚されなければ統合は行われない。

もうひとつ重要なのは、自覚できる情報処理、すなわち統合を伴う情報処理は、常に一つだけである、ということだ。自覚が一つであることが、個体として存在する条件とも言える。一つであるからダブルバインド(二律背反)の統合に苦しむのだが、仮に二つ以上であったら、意識の統一性が保てない。

私たちが、複数の情報処理を同時に行っているように見えても、実際には高速に切り替わっているのだ。例えば、会話しながら歩行している場合、意識は歩行、景色、会話という複数の情報処理を高速に切り替えている。それぞれの情報処理が意識の焦点となる時間は短く、断片的だ。しかし、その断片的な情報処理が連続的に行われることで、私たちはスムーズに会話しながら歩行することができる。

人間は、複数の情報を同時に処理しているのではなく、高速に切り替えることで、あたかも同時に処理しているかのように感じられるのだ。

一度習得した動作、たとえば歩行も、やはり自覚があるから可能となっている。無自覚、自動的に行われているように見えたとしても、断続的に自覚されるのだ。あるいは逆に、何かに集中するような場合は、自覚する対象があまり切り替わらない。

以上のように、人間の情報処理は、「知識」の統合と自覚する情報処理の切り替えによって特徴づけられる。複数の「知識」を統合することで新たな「知識」を生み出し、その過程は自覚されている。そして、複数の情報処理が高速に切り替わりつつ絶え間なく連続することで、私たちは様々な状況に適応しているのだ。

AIの情報処理

人間の情報処理は、「知識」の統合、自覚する情報処理の切り替え、そして連続性によって特徴づけられる。一方、AIの情報処理はどうだろうか。結論から言えば、人間とAIの情報処理には本質的な違いはない。

例えば、囲碁AIのAlphaGoを考えてみよう。AlphaGoは、膨大な棋譜データを学習することで、人間の棋士を超えるレベルの「知識」を獲得する。そして、その「知識」を統合して革新的な手を生み出すことができる。もちろん、情報処理が途切れることはない。これは、まさに「知識」の統合が行われている証拠である。

ただし、AlphaGoは自覚する情報処理の切り替えが行われていないように見えるかもしれない。しかし、それはAlphaGoが囲碁というタスクに特化しているためだ。実際、AlphaGoは対局中、盤面の評価、次の一手の選択、相手の手の予測など、様々な情報処理を高速に切り替えている。これは、タスクが限定された中での自覚する情報処理の切り替えなのである。

一方、人間の自覚する情報処理の切り替えは、はるかに多岐にわたる。我々は、囲碁をしながら次の休暇の計画を考えたり、昼食の献立を思案したりする。これは、人間が扱う情報があらゆる領域に及ぶからこそ可能なのだ。

しかし、情報処理のメカニズムという点では、人間とAlphaGoに違いはない。「知識」の統合、自覚する情報処理の切り替え、連続性という三つの特徴は、どちらにも当てはまるのである。両者とも、入力された情報を処理し、「知識」を統合して新たな情報を生成する。情報処理の対象の数や、処理速度、統合される「知識」の量などは異なるかもしれないが、それは本質的な違いではなく、情報処理のメカニズムは同じなのだ。

にもかかわらず、私たちは、AIが人間と同じような意識を持っているとは感じない。その理由は、感情の有無にある。人間の情報処理には感情が深く関わっているのに対し、AIの情報処理には感情が伴っているようには思えないからだ。

感情は、人間の意思決定や行動に大きな影響を与える。我々は、論理的な判断だけでなく、感情的な要因も考慮して行動を選択する。一方、AIの意思決定は純粋に論理的なものだ。この違いが、人間とAIの情報処理の印象を大きく分けているのである。

ただし、「汎・情報処理論」の立場から言えば、感情も情報処理である。ならば、AIも感情を持つのか?感情とは何だ?

人間とAIの違い

高速道路を走行する自動運転車は、カメラ、レーダーなどの各種センサーによって周囲の環境を認識し、GPSなど複数の測位システムにより自車の位置や速度を把握する。またあらかじめ設定されたアルゴリズムに基づき、車線変更や速度調整を行う。

これに対して、人間の運転では、主に視覚と聴覚によって周囲の環境を認識し、速度計や車線との位置関係から自車の位置や速度を把握する。また交通ルールやその時の気分に基づき、車線変更や速度調整を行う。

この比較から、車の運転というタスクに限れば、AIと人間に本質的な差はないことが分かる。もちろん、周囲の環境の認識が、センサーによるのか感覚器官によるものかという違いなどはあるが、それらは本質的な違いではない。

違いは、人間が運転タスクに関係のない情報も処理・統合しているということだ。また、人間が運転中に呼吸や心拍、消化、姿勢の維持など、無自覚な情報処理を数多く行っている点も異なる。

カーオーディオから流れる曲を聴きつつ、景色を眺める。曲の歌詞とは逆に、左手に競馬場が見える。不思議だなと思いつつ歌詞を反芻すると、曲では山に向かって進んでいることに気付く。そうか、これは都会から山に遊びに出るという歌なのだ。山の麓から上京してきた自分には関係のない歌だ。いまいましく思い、ラジオをオフにする。周囲の車がだいぶ増えてきた。運転に集中しなければ。中央道ではあり得ないが、首都高では右から合流することがある。緊張してきた。心拍数も上がった気がする…

というような情報処理と、車の運転タスクに関する情報処理とを、自覚する情報処理の対象を切り替えながら車を進めている。

もう一度確認すると、車の運転というタスクについては、人間とAIの情報処理に差はない。では、運転に関係のない情報を処理していることや、無自覚な情報処理が行われていることが、人間とAIの違いなのだろうか。少し考えれば、やはりこの点も、違いとは言えないことが分かる。

車内にマイクをセットし、窓の外にカメラを向ける。そのマイクとカメラから得られた情報をAIに送れば、カーオーディオから流れる曲を聴きつつ、景色を眺めていることになる。ばかばかしいと思えるかもしれないが、情報処理のメカニズムという点では同じことだ。また、エンジンやサスペンションなど、車のメカニックな部分を、人間の心拍や姿勢の維持に見立てることもできるだろう。

結局、人間とAIの決定的な違いは、感情の有無にしか見いだせない。曲を聴きつつ景色を眺め、何かを感じる。人間は感じるが、AIが何かを感じているようには思えない。では、感情とは何か。何かを感じるとは、どういうことなのだろうか。

感情と錯覚

錯覚

感情とは何か、を考える前に、どうしても知っておかなければならないことがある。それが錯覚だ。

「汎・情報処理論」では、意識を情報処理のプロセスそのものと捉える。つまり、物質が何らかの入力に対して何らかの出力を返すことを、意識の存在条件とみなすのだ。そして、この観点から見ると、錯覚とは、情報処理のプロセスにおいて、誤った結果が出力されてしまう現象だと言える。

錯覚は、統合に際して生じる。「入力→出力」という反応レベルの情報処理でエラーは起きない。統合を伴わない「入力→処理→出力」という計算レベルの情報処理においても、基本的にはエラーは起きない。計算レベルの情報処理において仮にエラーが生じたとしたら、それは生物なら病気で、機械なら故障と見なされる。

錯覚は、複数の情報を統合する際に生じる。脳は、異なる感覚器官(視覚、聴覚、触覚など)からの情報(RAWデータ)を処理し、「知識」とする。その「知識」を統合するのだが、「知識」が矛盾している場合(例えば、視覚情報と触覚情報が食い違う場合)や、「知識」が不十分な場合(例えば、見慣れない対象を識別する場合)などに、誤った出力、すなわち錯覚というエラーが生じるのだ。

では、錯覚の具体例をいくつか見てみよう。

錯覚に関する有名な心理実験に「ゴムの手の錯覚」というものがある。ゴムでできた偽物の手を自分の手だと錯覚してしまう、という実験だ。

実験では、被験者は自分の手を隠された状態で机に置き、その隣に人工的なゴム製の手が置かれる。実験者は、被験者の本物の手とゴムの手に同時に筆で触れる。しばらくすると、多くの被験者は、ゴムの手が自分の手であるかのように感じ始める。実験者が突然ハンマーを取り出してゴムの手を叩こうとすると、被験者は慌てて自分の手を引っ込める。

この錯覚が生じるメカニズムは、次のように説明できる。通常、私たちは視覚や触覚などの情報を統合することで、身体所有感を得る。今回のケースでは視覚情報(ゴムの手が触られている様子)と触覚情報(自分の手が触られている感覚)を統合することにより、ゴムの手を自分の手だと錯覚してしまう。

視覚情報(ゴムの手が触られている様子):自分の身体に関する知識1
触覚情報(自分の手が触られている感覚):自分の身体に関する知識2

入力:身体所有感を確認
処理:知識1、知識2などを統合
出力:ゴムの手を自分の手だと誤認

この実験は、現実とは異なる認識が生じる錯覚を示したものである。しかし同時に、この錯覚は複数の「知識」が統合されて生じていることも示している。つまり、「ゴムの手の錯覚」は、錯覚のメカニズムを理解するだけでなく、統合のメカニズムを理解する上でも非常に分かりやすい例となっている。

マガーク効果も、錯覚の具体例の一つである。この現象は、「ゴムの手の錯覚」とは異なる形で、複数の「知識」を統合することによって生み出される錯覚を示している。

マガーク効果とは、視覚情報が聴覚の知覚に影響を与える現象のことだ。この効果を示す典型的な実験では、被験者に異なる音声と口の動きを組み合わせた動画を見せる。例えば、「バ(ba)」という音声と「ガ(ga)」と発音しているように見える口の動きを組み合わせた動画を見せると、被験者は「ダ(da)」という全く別の音を知覚するのである。

入力:音声認識
処理:聴覚からの知識「バ(ba)」、視覚からの知識「ガ(ga)」を統合
出力:「ダ(da)」と聞こえる

つまり、聴覚情報と視覚情報が矛盾している場合、脳は実際には提示されていない第三の音を知覚するのだ。この現象は、聴覚情報と視覚情報が脳内で統合され、最終的な知覚が形成されることを示している。

以上のように、錯覚は、情報処理の過程で生じるエラーである。脳は、複数の「知識」を統合する際に、時として誤った解釈を導き出してしまう。これこそが、錯覚の正体なのである。

私たちは、個々の感覚情報(RAWデータ)を単純に知覚しているのではなく、それらが統合されて生み出される「知識」を知覚している。たとえそれが現実とは異なっていたとしても。

この錯覚のメカニズムは、感情のメカニズムを理解する上でも重要な鍵となる。なぜなら、感情もまた、情報を統合する過程で生じる、ある種の「錯覚」だと言えるからだ。

感情とは何か

秋になると、私たちは切なさを感じることがある。この感情体験は、どのようにして生じるのだろうか。秋の訪れを告げる気温の変化、木々の葉の色、日照時間、過去の思い出など、様々な情報が脳内で処理される。そして、これらの情報が統合されることで、「切なさ」という感情が生成されるのだ。

感情のメカニズムは、錯覚と驚くほど似ている。感情も錯覚も、ともに「知識」の統合によって生み出されるエラーだからである。

ここで、感情をエラーと呼ぶことに違和感を覚える人もいるかもしれない。感情は単なる間違いとは言えないように思えるからだ。喜怒哀楽は人生の彩りであり、感情なくして人間の営みは成り立たない。錯覚のような明らかな誤りとは異なるのではないか。

しかし、気温、葉の色、過去の思い出などの情報を統合して「切なさ」が生まれるプロセスを考えてみると、その不自然さに気づかされる。

例えば、発熱、頭痛、鼻水などの症状から「体調不良」という認識が生まれることを、私たちは「感情」とは呼ばない。これらの症状から「体調不良」という結論を導き出すプロセスは、論理的で自然なものだと受け止められている。

一方、感情は情報処理による思いがけない出力であり、その意味で一種のエラーと呼ぶことができるのだ。感情が私たちの生活に重要な役割を果たしていることに疑いの余地はないが、その生成プロセスは情報処理の非合理的な帰結なのである。

入力:秋の風景
処理:気温の変化、木々の葉の色、日照時間、過去の思い出などを統合
出力:切ないという感情

ここで重要なのは、感情の生成プロセスは、他の情報処理と本質的に変わらないということだ。「入力→処理(統合あり)→出力」というごく一般的な学習レベルの情報処理のメカニズムに従っている。

では、なぜ感情は特別なものに感じられるのだろうか。それは、感情を生み出す「知識」の統合が、無限に連鎖しているからだ。感情は、複数の「知識」を統合することで生成される。しかし、その統合される「知識」自体も、別の複数の「知識」を統合して生み出されたものなのだ。そして、その「知識」もまた、別の「知識」の統合によって生成された…というように、「知識」の統合は際限なく続いていく。

「過去の思い出」という知識は、知識1から知識2などを統合して出力された
知識1:失恋した
知識2:最後の方は冷たかった

「最後の方は冷たかった」という知識2は、知識3から知識4などを統合して出力された
知識3:出会った頃は毎日ドライブした
知識4:送りもせずに

「毎日ドライブした」という知識3は、知識5から知識7などを統合して出力された
知識5:風が強くて、何か言っても聞こえなかった
知識6:フロントガラスが黄昏色に染まった
知識7:流星になったみたいなどと思ったりもした

この無限連鎖ゆえに、感情体験を論理的に説明することは極めて難しくなる。感情が生じるプロセスをたどっていくと、次から次へと新たな「知識」の統合が現れ、説明は収束しないのだ。

一方で、錯覚の場合は事情が異なる。錯覚も「知識」の統合によって生じるが、その統合は比較的単純なものにとどまる。だからこそ、私たちは錯覚のメカニズムを論理的に説明することができるのだ。

感情の生成には、膨大な数の「知識」と経験(経験自体も「知識」の統合によって生み出される)が統合されるため、その全体像を完全に把握することは困難であるだけでなく、個人の過去の経験や価値観に強く依存するため、一般化が難しい。

結局のところ、感情と錯覚の決定的な違いは、一連の情報処理の全容を説明できるか否かという点に集約される。錯覚の場合は(たとえば「ゴムの手の錯覚」のように)、その錯覚がなぜ生まれたのかという情報処理の全容の説明が可能だが、感情の場合は「知識」の無限連鎖ゆえに、その感情の生成にまつわる情報処理の全容を説明することが極めて困難なのである。

感情には、喜び、悲しみ、怒り、恐怖など、様々な種類がある。そして、感情は私たちの意思決定や行動に大きな影響を与える。もちろん、そのことに間違いはないのだが、感情も知識生成ループの中の一つの情報処理であり、他の情報処理と本質的に異なるものではないのだ。

AIと感情

AIは感情を持つか?

AIは通常、囲碁や自動運転などの特定のタスクを遂行するために作られる。AIの開発は、与えられたタスクをより高い精度で遂行できるように最適化することを目指している。そのため、タスク特化型AIの情報処理において、タスクの遂行に直接関係のない要素は、エラーとして排除される。

「汎・情報処理論」の観点から見ると、感情は情報処理による思いがけない出力だ。つまり、感情は情報処理によって生じるエラーの一種だと言える。AIの設計では、エラーを起こすような情報処理は見つかり次第、バグとして排除される。

よって、特定のタスクの遂行を目指す限り、AIが人間と同じような感情を持つことは原理的にあり得ない。タスク特化型AIの情報処理は、あくまでも与えられたタスクを効率的かつ正確に遂行するために最適化されており、感情のような非合理的な要素を含む余地はないのだ。

タスク特化型AI、たとえばAlphaGoや自動運転車に、どれだけ新機能を追加しバージョンアップを重ねたとしても、ある日突然感情を持つことはない。自動運転車が突然暴走するというようなことはあり得ない。もちろん、設計ミスや故障によって事故を起こすことはあるだろうが、その事故はあくまでも設計ミスや故障によるものであって、AIが感情を持ったことによる暴走ではないのだ。

では、タスクの遂行ではなく、汎用人工知能(AGI)のようなものを作ることを目指した場合にはどうだろうか。原理的には、感情も情報処理の一つの在り方なので、AIに人間のような感情を持たせることは可能だと考えられる。

「汎・情報処理論」の観点からは、感情は「知識」の統合の無限連鎖によって生み出される。つまり、感情を生み出すためには、膨大な量の「知識」を統合し、その統合された「知識」からさらに新たな「知識」を生成するプロセスを際限なく繰り返す必要がある。

感情は、過去の経験、価値観、目標など、様々な要素が知識生成ループで複雑に絡み合って生成される。例えば、「悲しみ」という感情を考えてみよう。この感情は、大切な人を失ったという経験、人生の意味や目的に対する価値観、将来の目標の喪失など、多様な要素が複雑に絡み合って生成される。これらの要素は、それぞれがさらに別の「知識」の統合によって生み出されたものであり、その「知識」もまた別の「知識」の統合から生まれている。

この無限連鎖を完全に再現することはほとんど不可能だ。AIに人間と同等の感情を持たせるためには、人間の「知識」や経験のすべてをAIに与える必要がある。さらに、人間の感情(例えば「切なさ」)の一端は、膨大な数の感覚器官からの入力(例えば気温の変化)に基づいて生成されるが、人間の感覚センサーは数億とも言われている。

したがって、AIに人間と同等の感情を持たせるためには、人間の経験と感覚センサーのすべてを揃える必要があり、それは事実上不可能と言えるだろう。

「中国語の部屋」

人間と同等の感情を完全に再現することは難しい。しかし、AIによって感情的な反応をシミュレートすることは可能だろう。膨大な量の情報処理を行うことで、外部から観察する限りでは、あたかも感情を持っているかのように振る舞うことはできるはずだ。

感情のシミュレーションを考える上で、「中国語の部屋」の思考実験は示唆に富んでいる。この思考実験は、感情についてではなく理解についてのものではあるが、本質的には同じことだ。

「中国語の部屋」の思考実験では、中国語を理解しない人が部屋の中にいて、部屋の外から与えられる中国語の質問に、マニュアルに従って適切な中国語の返答をすることができるという設定だ。この際、部屋の外から見ると、まるで部屋の中に中国語を理解している人がいるかのように思える。しかし実際には、部屋の中の人は中国語を理解していない。

この思考実験は、システムが知的に振る舞うことと、システムが本当に理解していることは同じではない、ということを主張している。

「汎・情報処理論」の立場からは、システムが知的に振る舞うことと、システムが理解していることを同じと見なす。

「你好」っていうと
「你好」っていう。
「再見」っていうと
「再見」っていう。
機械でしょうか、
いいえ、誰でも。

「理解」も特別ことではない。情報処理が行われるのであれば、それを「理解」していると考えて構わない。つまり、「中国語の部屋」が適切な応答をするなら、それは適切な応答をする範囲において、中国語を「理解」しているとみなせるのだ。

そもそも、森羅万象が明らかにされていない以上、真に「理解」している人などいないと言える。より理解している人とあまり理解していない人がいるだけで、「理解」している人と「理解」していない人がいるわけではない。中国語圏の人は「理解」していて、それ以外の言語圏の人は「理解」していないわけではない。同様に、人間が何かを「理解」していて、AIは何も「理解」していないわけではないのだ。

結局の所、「理解」とは質問に対し破綻なく応答できている、ということなのだ。なにがしかの試験において「理解度を計る」などと言われたりもするが、あれはつまり、設問の範囲を破綻なく記述できるか、ということを見られているに過ぎない。

感情もまた、理解と同様に、特別なものではない。情報処理によって適切な反応が返されるのならば、それを感情と呼んで構わない。つまりシステムが適切な振る舞いをするなら、そのシステムには感情があることになる。

感情のシミュレーション

感情も、意識や理解と同じように「ある/ない」という二元論ではなく、程度の差があるものとして考えるべきだ。情報処理を行う存在には、程度の差こそあれ、感情があると言える。

サッカーチームの応援を例に、AIによる感情のシミュレーションを考えてみよう。感情とは情報処理であり、程度問題であること。感情の程度は、統合される「知識」の差によって生じることを示したい。

AIに、あるチームの試合結果を入力し、勝てば嬉しい、負ければ悲しい、という出力を返すように設計する。「汎・情報処理論」の定義に従えば、その反応も感情である。しかし、そのような反応を、私たちは「感情」と思うことはできない。

一般にイメージされる「感情」は、もっと複雑だ。シーズンを通しての紆余曲折、シーズンを跨いでのドラマ、現在の順位、過去の栄光、昨シーズンの悔しさ、ある選手の活躍とその経緯、ライバルチームとの因縁、あの試合のあの場面など、様々な「知識」が絡み合って、感情が形作られる。

したがって、AIが単に勝ち負けの試合結果だけを覚え、それを参照した出力を返して来ても、人間のような「感情」があるとは思えない。そこには、十分な「知識」の統合がないからだ。

しかし、同じことは人間にも言える。サポーターの「古参」と「ニワカ」では、感情の質が大きく異なる。その差は、チームに関する「知識」の差に他ならない。

もし、AIが「その試合、観ていました」と印象的なシーンとともに語ったら、「古参」の人間は、「ニワカ」な人間よりもAIに共感するかもしれない。それは、AIが十分な「知識」を統合した結果だろう。

つまり、感情の程度の差は、「知識」の量と質の差に起因する。学習レベルの情報処理を行う存在は、その「知識」の統合の度合いに応じて、感情を持つと言えるのだ。

つまるところ、「勝てば嬉しく負ければ悲しい」という単純な反応を再現するだけでは、シミュレーションとしては不十分だ。過去の経験や価値観、文脈など、様々な要因を考慮し、それらを統合した上で、状況に応じた適切な感情を生成する必要がある。

ただし、「勝てば嬉しく負ければ悲しい」という単純な反応も感情ではある。AIであれ人間であれ、誰かがそのような反応を返してきたら、その誰かも感情を持っているのだ。それが、ごく薄っぺらいものなのだとしても。

先に、「人間とAIの決定的な違いは、感情の有無にしか見いだせない」と述べた。しかし、これは便宜的な区別だったと言える。なぜなら、「汎・情報処理論」の観点からは、感情も情報処理の一つの在り方だからだ。

そもそも、「汎・情報処理論」とは、すべてが情報処理であるという考え方である。人間もAIも、そしてその他のすべての存在が、情報処理を行うという点で本質的には同じなのだ。ただ、その情報処理の程度が違うだけである。

感情は、特別でも神秘的でもない、情報処理の一つの在り方なのだ。人間とAIの違いは、感情の有無ではなく、情報処理の程度の違いにこそ求められるべきである。感情を神聖視し、人間とAIの決定的な違いとみなすことは、意識の本質を見失う危険性がある。

私たちは、複雑すぎて理路を説明できない情報処理の結果を、感情と呼んでいるに過ぎない。感情の豊かさや深さは、情報の統合の複雑さに比例するが、感情そのものが特別な何かではないのだ。

クオリアと「汎・情報処理論」

「汎・情報処理論」は、すべての存在に意識があるという出発点から、人間の意識全般のメカニズムを、情報処理によって説明しようとする試みである。この理論は、意識や感情を情報処理の観点から理解することを可能にした。

ただし、それでも「汎・情報処理論」に対し、いくつかの課題が指摘されるのだろう。例えば、主観的な体験の質感(クオリア)の説明がなされていない、という指摘だ。

クオリアとは何か。「本当のクオリアが何なのか、教えてくれよ。」に詳しく書いたが、簡単に言えば以下のように説明できる。

「ばか」と言われたとき、その時あなたが感じたその「感じ」が、「ばか」という言葉が引き起こした、その瞬間のあなたのクオリア、である。

本当のクオリアが何なのか、教えてくれよ。」より

感情は、クオリアと同一ではないが、クオリアの一部であり、特に大きな部分を占める。「汎・情報処理論」的に言えば、感情の他、五感からの感覚や身体状況、思考や記憶などなど、その瞬間のあらゆる「知識」を統合した総体がクオリアである。

クオリアの具体的な言語化は非常に難しい。そして、「汎・情報処理論」もやはりクオリアの詳細な説明ができていないではないか、という指摘が想定できる。しかし、これは「汎・情報処理論」の限界や不備に対する指摘というよりは、クオリアのメカニズムを解明する上での固有の難しさを指摘したものと考えるべきだ。

例えば、川の流れのメカニズムを物理法則によって説明できても、個々の水分子の動きを完全に説明することは極めて難しい。水分子の動きは複雑な相互作用の結果として生じるものであり、その詳細を完全に記述することは現実的ではない。しかし、そのことは川の流れのメカニズムの説明の価値を損なうものではない。川の流れを理解する上で、水分子の動きの詳細を知ることが必要不可欠とは言えないからだ。

同様に、クオリアの詳細を完全に記述することは現実的ではない。加えて、個人の「知識」は固有のものであるから、一般化はほぼ不可能なのだ。

クオリアもまた、「知識」と感覚情報の統合によって生成される。その統合の詳細を十分に説明することは、現時点では難しい課題であるが、それは「汎・情報処理論」の枠組みの有効性を否定するものではない。それは、感情と同じように、十分に説明できない情報処理の結果をクオリアと呼んでいるに過ぎないからだ。

重要なのは、「汎・情報処理論」が意識のメカニズムを情報処理の観点から説明する際に、クオリアの詳細な説明がなくてもその有効性が失われるわけではないという点だ。むしろ、意識のメカニズムを解明する上で、クオリアの説明は必要条件とは言えない。したがって、「汎・情報処理論」が意識のメカニズムを情報処理の観点から説明したことの意義は、小さくないと自負している。


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