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“人生の中のバケーション”のなかのバケーション

ケニアに来てから一年。振り返ると、毎日ポーカーに明け暮れていた。来る日も来る日も休みなく、カジノに通い、ポーカーを打つ。不思議なものだ。仕事でも趣味でもない。その中間にあるような。でも惰性というよりは、明確な意志を持って、ポーカーに取り組んできた。

三ヶ月前にこんなことを呟いていたけど、ラム島への憧憬どうけいはぼくの頭のなかにずっと横たわっていた。だから今回、ポーカーを丸っと一週間ほどお休みし、ラム島への旅に出ることにした。

そもそも、いまケニアで人生の中のバケーションのような暮らしをしているわけだけど、バケーションのなかのバケーションということで、ナイロビから遠路ドライブし、最後はボートに乗り継いでラム島を目指す。

もともとは一人旅で行くつもりだったけれど、中国人の師のジェイソンに「ラム島に行ってこようと思う」と告げると、彼も「おー、俺も行ったことないから、一緒に行くよ」と言うので、「それなら二人で行くか」となり、翌日の朝にはすぐに出発となった。

DAY1:Driving all the way from Nairobi to Malindi

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朝8時。師とラム島に向けた700kmに及ぶロードトリップの旅に出る。まずは沿岸部にある町・キリフィを目指す。そこで一泊し、フェリーでラム島へ渡る。二日ほど滞在する予定だけど、スケジュールもなければ、目的もない。ただ、国籍と年齢を超えた、師弟が日常を飛び出してみる、野郎二人旅の開始だ。

ナイロビを抜けるまでは、スイスイと快調に車を飛ばせるわけじゃない。発展途上にある都市の多くがそうであるように、ナイロビもまだまだ未完成の街だから、そこらじゅうでビル建造の工事やら、道路整備の工事、ハイウェイの建造が行われている。そんな未整備の道路の上には数えきれない数の自動車とバイクが我先にと道を奪い合うから、渋滞も頻繁に起こる。

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しばらく走ってナイロビを抜けると、どこまで広がる荒野がつづく。ふだんナイロビで暮らしてるから、通り過ぎる町々に「これぞアフリカだよなぁ」と思わされる景色と人々を眺める。また町を越えると、365度なにもない荒野と山脈が顔を出す。ぼくらといえば、海を目指してドライブをつづける。

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4〜5時間車を走らせたところで、ある分岐点に到達。マリンディへ向かうにはある国立公園のなかを直進するのがマップ上は近道となっている。けど、守衛に聞いてみると(まあ、当たり前だけれど)国立公園内の道は舗装されていない土の凸凹道だ。国立公園内の動物を観ながらドライブするのも一興だとしても、未舗装の道を数時間走るのは正直しんどい。車も小さい乗用車で、この道を突っ走るにはスペックが心許ない。

ちなみに国立公園の入場は、ケニア居住者であれば500円ほどで、ぼくらのような非居住者だと、なんと7倍の3,500円に料金が跳ね上がる。

なので、マリンディへ直進する最短ルートは諦め、道を迂回しながらキリフィ経由でマリンディへ向かうことにした。

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ケニアをドライブしていると、道の上につくられたハンプ(hump)の多さに辟易する。ハンプとは平坦の道にあえて隆起をつくることで、車に上下の振動を与えて、スピードを減速させるための仕掛けだけど、目印もないハンプは害悪でしかない。むしろ、ハンプによって逆に事故が起きるんじゃないかと心配になるくらいだ。

日中ならまだしも、夜ならハンプに気づけるわけがない。何度もハンプに気づかず、車が宙に浮いた。そうすると、たしかに今度からハンプに気をつけるようになる。前方にみえる白い点線のようなライン。飛ばしていたので、急速にスピードを落とす。近づいてみると、それはハンプではなく、ヤギたちの隊列だったことがあって、爆笑してしまった。繰り返されるハンプは、気づけばドライブをつづけるぼくらに“疑心暗鬼”を埋め込んでいたのだ。

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ようやく沿岸部へとたどり着き、キリフィを経由して、マリンディに到着。沿岸部沿いのドライブはとにかく気持ちがいい。車線の左側には緑がつづき、反対側には光輝く海が広がる。

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チェックインを済ませ、なだれ込むように、プールサイドチル。

とりあえず到着してやることといえば、ディナーブッフェまで読書したり、ラム島周りの事前情報を軽くリサーチするくらい。無性に『風の歌を聴け』が読みたくなって読んだけれど、こんなにあっさりのっぺりしてたっけか。たぶん最後に読んだのは、中学三年生くらいのとき。

出版から40年以上の時が流れ、その間の村上作品を全て読んで、この処女作に立ち戻る。すると、村上作品よりも本作品が私小説的性格が飛び抜けて強いということに気づく。まさに原点。

ドライブの道中、休憩しながら読んだもう一冊の本が韓国でベストセラーになったというエッセイ本『あやうく一生懸命生きるところだった』

まるで、まとまったnoteの記事を読んでるかのような読後感。あまりにも、綴られている葛藤や焦燥が、日本社会で人々が抱えるものと同相で驚かされる。肩の力を抜いたり、人生に一息つきたいときに、響く考え方と言葉たち。

長時間のドライブでとうぜん疲労困憊のお師匠さんは早々にベッドイン。ぼくもディナーを食べたあとは、少しだけ読書をして、眠りについた。

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DAY2:Boat towards Lamu island

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マリンディからラムまでは、車で北上すること3時間の道のり。ナイロビの喧騒を離れ、荒野と自然を突っ走っていく。その過程で、たくさんの動物たちに出会う。猿やら牛やら山羊やら。とかく山羊の群れと、羊飼いの少年のセットで散歩する光景はあちらこちらで見かけた。

昔、アイスランドをドライブしながら見かけた人間と動物のセットとまったく同じだ。スカンジナビアとアフリカ。国も景色も違うけど、同じ営みに従事する人々の姿に、ちょっとした感動を覚えたものだ。

ラムへ到着。島へ渡るには10分ほどボートに揺られる必要がある。港にいた青年と軽い交渉をして、往復で1,500円ほどでぼくらを島まで運んでくれることになった。

とりあえず町を散策してみるんだけれど、とくに観るべき観光スポットもないらしい。何人かの人に声をかけて「どこに行けばいい?」と聞いても、それらしき答えは返ってこない。

とはいえど、かつてアラブとの交易(その昔は黄金とか象牙とか奴隷とか)で栄えた場所で、世界遺産にも登録されているだけあって、漂う文化の雰囲気は独特のものがある。イスラム文化とスワヒリ文化が融合した不思議な空気感に包まれた場所だ。

釣りやマリンスポーツのようなアクティビティをしたいわけでもなく、なんとなく散歩しながら観光したかっただけのぼくらは、手持ち無沙汰で、途方に暮れた。聞けば、海に浮かぶバーがあるというので、またボートに乗り込み、そのバーで一杯ビールでも飲んでから、マリンディへ戻ることにした。

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軽くラム島を案内してくれたアリにもビールを一杯ご馳走して、話を聞いた。彼は生まれも育ちもラム島で、45年間この島から一度も出たことがないという。もちろんナイロビやモンバサにも行ったことがない。けれど、ぼくもジェイソンも異口同音に「そのほうが幸せかもなあ」と口にした。

ラム島に滞在したのは正味3時間ほどだったか。きびすを返して、マリンディへ戻ることにした。

ぼくらは旅のほとんどをドライブの時間で費やした。まあ、車で旅をするということは、そういうことだ。音楽やラジオをかけることは一度もなく、基本的にずっとふたりで話にふけっていた。ジェイソンと出会ってからもう1年が経つし、車の中という密室で話すことあるかな、なんてちょびっと不安だったけれど、ぼくらの話は尽きなかった。

もちろんポーカーの話は尽きなかったし、これまでに読んできた本や、中国と日本それぞれの歴史や政治社会、人生で起きた不可思議なイベント、家族との向き合い方、ジェイソンの両親の数奇な恋愛話。ここでは、メモ程度にそのジェイソンの両親の恋話を書いておこう。

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この物語は、ジェイソンの両親(母と父)ともうひとりの女の子、三人から成る、それぞれの人生を巡る話だ。ときは第二次世界大戦。その頃、この三人はティーンエイジャー、クラスメイトだった。当時、恋仲にあったのはジェイソンの父親と女の子だった。つまり、母親はこの二人と仲良しではあったけれど、ただの友達だった。けれど、戦争は三人に離別を迫った。それぞれ疎開し、故郷を離れた。

第二次世界大戦が終わった後すぐ、中国は国共内戦に突入。当時、ジェイソンの父の彼女であった女の子は、政治的に国民革命軍を支持していたため、家族と共に台湾へ逃れた。この台湾への逃避行は、三人の運命を大きく左右する。ジェイソン父と女の子が離れ離れになり、しばらく時が流れた。

その間に、ジェイソンの父とジェイソンの母と関係を結び、結婚した。ある日、台湾のラジオから聞こえてきた、あの女の子の声。彼女は台湾でラジオパーソナリティをしているらしい。彼女が生きていること、台湾にいるらしいこと。そこまでは分かった。だけれど、彼女へコンタクトを取る手段がない。分からない。

また時は流れる。後に彼女は台湾を離れ、アメリカはニューヨークに移住し、暮らしていた。1990年代になり、この三人はそれぞれ年齢も70歳を過ぎた。人生の晩年を迎え、思い返すのは、幼少の思い出だ。戦争に引き裂かれる前の恋の記憶だ。「まだこうして生きている間に、あの人に会いたい」ーー。死が目前に迫るからこそ、そう願うのは当然のことだろう。

彼女は折に触れて、ジェイソンの父に向けて手紙を書いていた。だけれど、その手紙が中国のジェイソンの父が住む街に適切に届くことはなかった。それでも何通目だったのか、ある日、その手紙がようやく彼らの手元に届く。

そのとき、ジェイソンの母はガンに冒され、余命わずかであった。母は父に告げる。「わたしの命は残り短い。わたしが居なくなったら、わたしに構うことなく、彼女に会いにいってもいい。むしろ、会いにいってほしい」ーー。

それから三ヶ月後、母はこの世を去る。

だけれど、父がニューヨークに行くには障害があった。当時、すでに共産党員であった父がアメリカに行くためにビザを取得するのは困難を極めた。ちょうどタイミングよく、ジェイソンの兄がビジネス出張でニューヨークに行く機会があった。兄はその女性を尋ねた。第二次世界大戦の頃の中国の様子、三人の友情と思い出、話は尽きることがなく四時間も話し込んだのだという。電話で女性とジェイソンの父はついに話すことができた。ふたりが引き裂かれてから、じつに半世紀以上の時間が流れていた。

けれど、まだ中学生で幼かったとはいえ、当時育んだ恋心や、時代の流れによって引き裂かれた“ありえたかもしれない未来”への切なさを、ふたりはお互いに秘めながら、それぞれの人生を中国とアメリカで歩んできた。どちらか一方が天国に行ってしまったのなら、たしかめられない気持ちだ。

けっきょく、ふたりが再会することは叶わなかった。母が逝去した翌年に、この女性も亡くなった。

ジェイソンの父親もまた、2005年に亡くなるのだけれど、その3年前の2002年に別の女性と再婚し、最期の3年間を共に過ごしたという。この女性はまだ存命で、未だ父が遺した同じマンションで暮らしている。

ぼくらは戦争を知らない。戦争によっていくつもの運命の分岐点が潰され、そしてまた生まれた。戦争があったから失われた恋や命がある。けれどそれは同時に、戦争があったからこそ生まれた恋や命もあったことだろう。

もちろん、戦争がなければ、ジェイソンの父と母が結婚することはなかったかもしれない。だとすればジェイソンが生まれることもなかったし、こうしてぼくとケニアで出会い、ふたりきりでラム島に向かうトリップに出かけることもなかった。

ぼくらは生まれる時代や国を選ぶことができない。運命の外形は大いにはじめから規定されたものだ。所与の外側に向けて、なんとかバタ足で泳ぐことくらいしかできない。だとしても、歴史の裂け目に目を向け、耳を傾け、ありえたかもしれない過去・現在・未来をつなぐ可能性の束へ想像力を巡らせることは、べつの形で生きる力を与えてくれる。

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ジェイソンの両親がたどった壮大な物語に耳を傾けながら、ぼくらはまたラムからマリンディへの帰路についた。夕方、ホテルに到着し、近くのイタリアレストランでピザとパスタを食べた。

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DAY3:Feast in Kilifi. Play poker in Mombasa

ラム島はイスラム文化とスワヒリ文化が混淆したユニークな場所だったけれど、マリンディという土地もまたオリジナルな文化を育んできた町だ。

文化のコアにあるのはイタリアのカルチャーだ。現在でも多くのイタリア人たちが住むこの町は、おそらく現在に至るまで3〜4世代が暮らしを営んできた。だから、町にはそこらじゅうにイタリア語の標識があったり、イタリア系のお店が軒を連ねている。ケニア人にしても、スワヒリ語とイタリア語しか話せず、英語が分からない人すらいる。また来たいと思える場所だった。

ぼくらはマリンディを出て、南下してキリフィを目指した。正午に到着すると、ジェイソンが5年前に訪れて気に入っているというレストラン「Nautilus」へ足を運んだ。土地の崖縁を降りると、海に直接つながった木造りの素敵なレストランだった。オーナーは見るからに優しそうな口ぶりのアメリカ人マダムで、ジェイソンは5年前に訪れたときのことを彼女と話した。当時、イタリア人の旦那さんが逝去した直後だった。彼女ははつらつと忙しそうにしていた。

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席に着くなり、ジェイソンは大量の生牡蠣を注文し、すべてひとりで平げた。ぼくは生牡蠣がちょっと苦手なので、遠慮しておいた。

食事を済ませて、ぼくらはケニア第二の都市であるモンバサへ向かった。その道すがら、露天に立ち寄って飲み物を買う。そんなときに、ふと思うことがある。「マクドナルドがない国はまああるだろうけど、コーラがない国ってあるんだろうか?」ーー。少なくとも僕がこれまで行った国々では、どんなに田舎でも、必ずそこには例外なく、コーラはあった。コーラすごい。

「普遍」という尺度で考えると、同ジャンルの王様「水」には負けてしまうけども、異ジャンルの「白米」には勝てるくらいに、この世界において、コーラは普遍的なのではないかと思う。

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そうこうしている間、あっという間にモンバサに着く。まずはホテルにチェックイン。息つく暇もなく、近くのカジノへ。ここのポーカーテーブルを取り仕切っている、ジェイソンの昔からの友人に電話して、案内してもらう。

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ぼくらが訪れたとき、まだカジノは工事中で、正式なオープンは週末なのだという。だけれど、ポーカーだけはすでにプレオープンしており、庭らしきスペースに設けられたテントのなかにあるテーブルに案内された。

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ふだんナイロビ以外でポーカーすることがほとんどないため、知らない土地で、知らない人々とポーカーを打てることに新鮮な悦びを覚えた。とうぜんそれぞれのプレイヤーの特性や癖を知らないので、自分が参加していないハンドでも、注意深く観察する必要がある。ポーカーにおいては、テーブル選び、すなわち誰と同卓してプレイするのかが肝中の肝だ。常に自分よりもスキルが劣るプレイヤーや、忍耐がなくギャンブルとしてポーカーをプレーするような人と同卓すると期待値が高まる。

すぐにぼくはこのテーブルが気に入った。ぼく(日本人)、ジェイソン(中国人)以外は、ひとりがラトビア人で、残りの全員はみなインド人かイタリア人だった。みんなフレンドリーだし、レベルも決して低くはないけど、高くない。つまり、打てる場所であると判断した。

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2〜3時間ほどポーカーをしたところで、このカジノの経営者=ボスであるケニア人の“バブルー”がやってきた。彼はテーブルの誰よりも多いバイイン(テーブルに持ち込むチップ)でゲームに参加してきた。ぼくも改めて気合を入れ直す。

ポーカーにおいては、いわゆる“社長”と呼ばれるタイプのプレイヤーがいる。彼らは圧倒的にお金持ちで、ポーカーでお金を稼ぐというよりも、レクリエーションとしてポーカーを愉しむ。だから、ポーカープロなんかは「社長が来たぞ」という情報に飛びつき、そのテーブルで社長が帰るまでひたすら一緒にプレーし続ける。

バブルーもまたフレンドリーで気の良いケニア人だった。ただ、彼はケニア人ではあるんだけど、人種的にはインド人だ。ナイロビにも二店舗のカジノ、ドバイでもアンダーグラウンドでカジノを経営しているらしい。そのほか、コスメティックの輸出入など、手広くビジネスを手がけているやり手だ。けれど、聞くところによれば収入の大半はドバイが叩き出しているらしかった。けれど、今のところドバイでの賭博は厳しく規制されているので、リスクも大きい。だから、ケツ持ちに支払う費用が馬鹿にならないのだという。ぼくもその額を聞いてたまげた。

彼にとってみれば、いまぼくらがこうしてプレーしているポーカーはレートが低すぎて、小銭で遊んでいる感覚なんだろう。でも結果的には、彼がこの日一番の勝者であった。こうなると、かの有名はあの言葉が頭をかすめないでもない。「富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる」ーー。苦笑いするしかない。

ポーカーテーブル上で、彼と雑談していると「日本に行ったことあるよ」と言うので「どこ?」と聞いたら「津田沼」と言った。あまりにも答えが斜め上すぎて、ぼくは思わず笑った。 ケニア人の口からまさか「Tsudanuma」が出てくるなんて予測不能すぎるだろう。しかも、卓球の世界大会のケニア代表として行ったらしい、なんだそれ。

昼の3時頃からプレーをし始めて、途中、インド料理ディナーを挟み、夜の9時頃にはお開きとなった。結果は芳しくなかったけれど、とりあえずホテルに戻って、早めに床に就くことにした。

DAY4:Sushi in Nairobi

モンバサからナイロビへ帰る道は、決まった渋滞が地獄の様相を呈することは前々から知っていた。だからぼくらは、早朝の5時過ぎにはモンバサを発つことにした。

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思えば、ドライブの道中、警察に止められることが数限りなくあった。とくにラムに向かう途中は、ソマリア国境に近づいているからなのか、警察のチェックポイントがそこら中にあり、何回も停止。で、「パスポートやらビザやら免許証やらを見せろ」と確認、いちゃもん、こじつけが面倒で仕方がない。

真面目に取り合ってやり取りするにも面倒なので、「What do you want?」と聞くと「水」とか「ランチ」とか言ってくる。ぼくの理解だと水=100円、ランチ=500円。このお金を渡してあげると、一瞬で解決する。さっきまでの剣幕や脅しもどこへやら、「Safe Jorney」とか「God bless you」とか言って、優しい笑顔で手を振りながら、ぼくらを見送ってくれる。

ナイロビへの帰路でも、「スピード違反してるぞ」と路肩に止められた。なにやらメモ帳に雑に手書きで書かれた車体番号とスピードが書いてある。日本だったら考えられない。少なくとも証拠として効力のある写真は必要だろう。

ぼくらの顔に浮かんだ「マジかよ」を制するように、「はい、逮捕するからね〜。拒否するなら、近くの裁判所にこのまま連れて行きますよ〜」と、それっぽい脅しの言葉を並べ立ててくる。相手が怖がる言葉をとりあえず連発するこの手法に、ケニア暮らし1年のぼくはもうすでに慣れ親しんでいる。

この旅での教訓も思い出しつつ、面倒な抵抗はやめ、素直にランチ=500円を差し出した。すると、彼は態度を急変させ、だれも見てないことを確認するなり、慣れた手つきでさっとその紙幣をポケットへ忍ばせた。「Safe trip and have a good day」と快活にぼくらをまた道路へと送り出した。

こうしてまた、ぼくは旅にかかる経費のメモに「bribe 500」と記入した。

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無事にナイロビ市街に入り、ジェイソンが「昼飯なに食べたい?」と尋ねるので、「うーん。マカオレストランで中華とか?」と答えると、「じゃあ、KAIで寿司食べよう」。おい、じゃあなんで聞いたんだよ、というツッコミはいちいちせずに、ぼくらはナイロビに帰ってきた景気づけに寿司を食べた。

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これにて、ポーカーをひとまず休み(けっきょく、最終日にモンバサでやったけど)、日中の師弟でラム島へ向かうショートトリップは終わった。つぎはザンジバル島に行きたい。

旅に出て改めて思う。お金もいらないし、未来が保証されていなくてもいい。ただ、こうして思う存分読書して、好きな文章を書いて、ポーカーをして、気の合う人たちと一緒に過ごして、たまに旅に出る。そんなふうに、これからも生きていけたらなあ。

だけれど、生きているだけで最低限のお金はかかる。なにかと税金は発生するし、頭痛の種はなにかしらいつもついてまわる。のらりくらりで構わないから、どうにかストレスから離れて生きていきたい。

自分が心地よくいられる生き方を今日も模索している。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。