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【インド瞑想記④】あまりにも茫漠とした時間のなかで―Disposition of Soul

注釈:本noteは2013年5月に書かれたブログに若干の修正・加筆を加えたものです。

#③にひき続いて...。

旅にでる話をすると、多くの人が、こう聞いてきた。「目的は?」「何を求めてるの?」

きっと腹の内で、"バックパッカー"や"自分探しの旅"といったワードに聞き飽きた嫌悪感というか、独善性を括り付けているのだと思う。

「別に目的なんかなくたっていい。独善的だっていいじゃん」とぼくは思ってしまう。

打算的にならずに、飛び込んで行きたい。初期衝動に突き動かされて。

点と点がつながるのは、いつだって後から振り返ったときだ。(looking forwardではなく、backwardなのだ)

とくに日本では即物的な思考が根を張り巡らしすぎていると思う。

その先に利益(profit)が約束されていないと、行動に身が入らない。

自分の内に宿る欲求よりも、社会の中で位置づけられる価値を優先する傾向。

これでは思わぬ点と点の結合はなかなか起こらないのではないか。

身を粉にして働いてキャリアアップなり昇進なりに猛進している人も、「なぜ生きているのか」と問われれば答に窮してしまう人がほとんどではないかと思う。

この辺のことは以前「就職、進学、そして生きていく事」というエントリーの中で詳しく書いた。

完全な静寂のなかで、自らの人生を省みて余生について沈思黙考できる環境はおそらく、自分から積極的に身を投げ出して行かなければ得られないであろう確信があった。

社会のレール、なんとなくの空気感に右顧左眄し、通説通り就職するよりも、長い人生の中で一度、立ち止まる時間が欲しかった。

「求めよ、さらば与えられん」というマタイ伝の言葉。

時代に伏在する不易なものを看破するための時間。

忙しなく一瞬一秒が濁流のように流れていく東京の喧騒の中では"安心立命"の境地にたどり着くことはまず不可能ではないか。

坂口安吾『堕落論』のこんな一節を思い出す。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変わりはない。悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある。

そう、"孤独"の道をくぐり抜けること。ここに真の人間の実相はあるのではないかと思う。そして、東京の喧騒の渦の中にいれば、"孤独"に出会うことはほぼない。

活字やコミュニケーションから完全に断絶・遮断される。SNSの網の目から逃れる。

他者から隔離され、己の内に閉じこめられる。

拡がる世界の一点に意識を掻き集める。

結局、日常でどれほど知らんぷりしていても、見て見ぬ振りをしていても

死ぬときは独りきり。

一度、目を閉じれば自分の内に茫洋と広がる孤独の闇があるはず。

常にそこにあっても、自分からソレと対話しなければ何時まで経っても、その時はやってこない。

《タイムテーブル》

基本的に上記のスケジュールに沿って毎日流れていく。

4時起床の9時半就寝だ。

非常に規則正しい。最初は辛いが慣れると気持ちいい。

改めて禁止事項を確認しておくと、

音楽、酒・タバコ、本・活字・電子デバイス、メモ・日記、コミュニケーション・アイコンタクト・ボディーランゲージ、運動(ジョギング・ウォーキング含む)、いかなる殺傷行為(間接的にも→食事はすべてベジタリアン)、あらゆる性行為

加えて、

部屋にはシャワーはついていない。一応フィルター濾過済の水が飲めるが、暑さのためにほぼお湯である。

はじめの三日間の話をしようと思う。

さっそく、一日目、4時半からホールでの瞑想がはじまった。

坐禅を組み、背筋を伸ばす。両手を前に据える。

上唇と鼻で三角形のポイントを作り、そこに意識を集中させる。それを頭の天辺に移し、全身を一つずつ点検していく。

無為自然を大切にしながら、衣服や空気が触れる感覚からはじめ、体の各部にセンセーションを見つけていく。

1時間も瞑想を続けていると背中が痛み始める。集中力も散漫になる。

圧倒的なまでの自己の精神力の弱さを思い知らされる。

Mr. Children「かぞえうた」の一節が頭をかすめる

僕らは思ってた以上に脆くて小さくて弱い。
でも風に揺れる稲穂のように柔らかくたくましく強い、そう信じて。 

インド前日くらいから便秘が続く。

急激に変わった環境のせいなのか、単純に座り過ぎなのか、栄養なのか、分からないが。

そして三日も経つ頃には体重が落ちてきているのを感じる。

部屋にトイレも備え付けられているが、トレインスポッティングの便器のように汚く、便意も起きない。

食事のメニューは基本的に10日間ほぼ同じだった。

たとえば、朝食がパサパサしたもち米のようなものに、ミカン。

このミカンが日によって、スイカになったりバナナになったり。そしてミカンの一粒一粒に律儀に種が入っていて、スイカも食べづらいくらいにふんだんに種が詰まっている。

フルーツ一つとっても日本やアメリカ、ヨーロッパで食べるものは高度に品種改良が加えられ、食べやすいものに加工されているのだと気付かされる。

それから、バナナ。

極端に小さい。日本で食べるサイズの3分の1ほどの大きさしかない。(上の写真のイメージ)

きっとインドの人にとってみればこれがバナナで日本にきてバナナをみれば、その大きさに驚くと思う。

普段自分が当たり前と思っているもの(taking for granted)なものは、実は当たり前でもなんでもなくて、所変われば当たり前は違ってくる。

バナナ一つにそんなことを思わされた。少し怖くなった。

バナナにかぎらず、自分を取り巻く多くのもの、思考の根を張る"常識"と呼ばれるものの一つに疑心暗鬼になる。

昼食は薄っぺらいナン、カレーが何種類か。もちろんカレーはベジ。

夕食はなくて、代わりにティーブレイクがある。そこではチャイと日本でいう雷おこしのようなカレー風味の乾燥米が振舞われる。そしてこの雷おこしみたいなのが一番のお気に入りだった。

そしてチャイには救われたように思う。甘いミルクティー。あまりにも甘いのでいつも水を足して甘さを和らげた。

朝〜夕食まで総じて托鉢のような献立だ。

今、振り返ってみると最初の3日間があらゆる意味で最も辛かった。

瑣末なことに不平不満が絶えない。

上記のような食事、冷たいものが飲めない、水しか飲めない。

でも、アフリカの人からすれば土の濁りのない透明の水を飲めているだけ幸運。

すべては「相対性」に還元される。

暑い。部屋が汚い。

「一体、この部屋には何種類の蜘蛛がいるのか?」アリ、蛾、ハエ、蚊、トカゲ、ネズミ、嫌われ者たちの展示会(exhibition)のようになっている。

サラマンダーやグラスホッパーは一日に一度はぼくの部屋を訪れるようになった。

そして、一日1箱吸うのが当たり前だった自分にとって、いきなり禁煙するのは辛かった。それでも「今やめられなかったら、一生やめられない」と言い聞かせてここまで来た。

コミュニケーションを剥奪されると、彼女や友達や家族がやたら恋しくなる。

ぼくはいつもこんな感じだ。これまでアメリカへ二度留学したけど、いつもこんな調子だった。その意味でコミュニケーション理論で有名な「Uカーブ」はあまり自分には当てはまらない。

ハネムーン期の前にまず、ホームシックというかいきなり倦怠があるのだ。

でもこれも3日くらいまでで、そこまで来ると、あまり考えなくなる。

結局は「10日間」という期限つきなのだ。

これは決定的に重要な点であると思う。

たとえば『ショーシャンクの空に』で無実の罪で監獄にぶち込まれたアンディーは、「終身刑」という見えない時間の中で生きることを余儀なくされた。それでも"希望(hope)"を失わなかった。

Mr.Childrenの'one two three'の歌詞に

ビデオにとった『ショーシャンクの空に』見てからは、もっともっと確信に近いな。暗闇で振り回す両手も上昇気流生むんだ。

とあるように、映画で描かれる壮絶なドラマはたとえ、それがドラマであったとしても、その疑似体験はいつも自分に勇気を付与してくれる。

今年のTCC賞のグランプリだった

映画は、本当のことを言う嘘だ。

はその意味で核心を衝いていると思う。

インドへ瞑想の旅へでる前週くらいに、土屋Pにインドへ行く旨を話した。

すると、「期限のない旅」にこそ価値はあるのではないかというような話をしていた。

もしかしたら「もう帰ってこないかもしれない」「二度と祖国の地を踏むことはないのかもしれない」、それこそが真の旅のリアリティなのかもしれない。

この極限の状態において、はじめて生まれ育った土地「日本」を省みることができるのかもしれない。

心身が安定しないまま、瞑想は続いていく。

考えないことを学ぶ訓練、一瞬の悟りのための24時間。その一瞬の悟りの感覚を一度でも掴めれば、その日は報われる。

しかしその瞬間はなかなか訪れない。

ひたすら雑念、煩悩が脳ミソの高速道路をハイスピードで往来していく。

10分、30分、1時間がとてつもなく長い。

「夏帆の本名ってなんだったっけ?」という一度現れるとなかなか消えないどうでもいい疑問や、「吉田麻也のこれまでのキャリアパス」など、次から次へと今はどうでもいい事柄が頭を支配していく。

考えないように努めれば努めるほど、その濃度は増していく。

あまりにも時間は円滑に流れて行かない。

脳内で『もののけ姫』の上映が始まる。

アシタカが"Princess Mononoke!"と叫ぶシーンがずっと頭にこべりつく。(ちなみに『もののけ姫』を英語でみると、これがなかなか面白いです)

それを振り払う。

ロダンの「考える人」ををイメージする。

たしかあの男は地獄の門の上で、思索にふけっていたはずだ。

天国と地獄のその真中、「煉獄」とはいかなる場所なのか。

普段は考えもしないようなことにまで断想が飛び火していく。

薄く浮遊しはじめた断想が、なんとなく陽明学に及ぶ。知行合一。

100思考したところで、1の実践には及ばない...。

自分の両サイドで黙々と瞑想を続ける僧侶たち。

彼らは一体どんな人生観を持っているのだろう。どんな未来を思い描いているのだろう。夢は?希望は?

僧が性行為を禁じられているならば、彼らの両親は僧ではないのか。いろいろな事情を思案する。

なぜか僧から我が家のペットに考えが及ぶ。

一見、幸せそうな犬たち。屋根付きの家があり雨風を防ぐシェルターの中、エアコンがあるから夏は涼しく、冬は暖かい。食事もきちんとでる。

でも一日2度の散歩のときのあの異常なはしゃぎぶり。

そう、自分の意思で自由に外へ出入りすることは許されていない。

圧倒的な"不自由"なのだ。生まれてから、死ぬまで。

こんな調子で1〜3日くらい、次から次へと様々な思いに囚われていた。

食欲も減退していき、ベジ食の中で体力、精力が後退していく。

栄養不足気味からか瞑想のあと立ち上がると、立ちくらみがデフォルトになっていき、日に日にその度合も増していった。

KFCの犬にしゃぶり尽くされたあとの骨のようになっていく。絞られる雑巾。

身体が硬くなるのだけは避けたかったため、寝る前に軽いストレッチだけは欠かさずに行った。

ホールで皆で行う集団瞑想とは別に別棟で行う個人瞑想が毎日必ずあった。

仏塔(pagoda)の中にある独房(cell)の中で、2〜3時間行うのだ。

若干、閉所恐怖症(claustrophobia)気味の自分としてはこれは当初、かなり堪えた。

プリズンブレイクの懲罰房を思い出されたい。

ここでは当然、時計がないため、時間感覚をすぐに失う。

時間は流れているのか、止まっているのか把握できない。アインシュタインの「相対性理論」を吟味するには恰好の環境である。

時間でさえ、あくまで「相対的」なのだ。

それを「体験知」として理解する。

体と精神、二元論。古代から交わされてきた議論。ライプニッツの「単子論」。

それがまったく別個のものであったとしても、不可分なものであったとしても、精神をもって体に打ち克つこと。真に自分の支配者となること。

こんなことをグルグルと考えていた時、スティービー・ワンダーの'To Feel the Fire'のサビが頭に流れた。

Cause when I look inside my heart and I tell the truth to me, loud and clear my soul cries out with total honesty. I need the fire, fire, fire, to keep me warm. I got to feel the fire. (心の中を覗き込み真実を告げる時、完全な正直さと共に魂は高々と叫び声を上げる。熱を失わないために炎が必要なんだ。炎を感じるんだ)

体でもいい、精神でもいい、魂がそこで叫び声を上げていることを感じる。

瞑想をはじめて3日間が過ぎた。まだ1週間残っている。

「自分の中に誰も入り込めない堅牢な砦を打ち立てる」これを目標にする。当然、一週間で砦なんて出来ないかもしれない。まして一生かかっても。

「千里の行も足下に始まる」、まずは一つの釘を心に打ち込むことから。

#⑤へつづきます...。


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