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【インド瞑想記⑥】得るもの、失うもの(gains and loses)

注釈:本noteは2013年5月に書かれたブログに若干の修正・加筆を加えたものです。

#⑤にひき続いて...。

いつもは4時に起床するところ、am3に目が覚めた。

割れるような稲妻の轟。こんなに雷を肌に感じたのは、生まれて初めてのことだ。"振動"を体に感じる。

悪い虫の知らせなのか?情報がまったく入らないなかで、北朝鮮の核ミサイルが脳裏によぎる。(というのも、日本を経つ寸前、取りざたされていたのだ)

インドの天気も変化が激しい。ゲリラ的に雨が降り注ぐことも珍しくない。タイやカンボジアほどではないが。

朝を迎える頃には、天気も回復した。

そして瞑想の前に、ラジオ体操(ストレッチ)をこなし、少し辺りを逍遥する。

この辺りに棲息する鳥の種類も大方分かってきた。

高校時代オハイオの高校に留学していたとき、'Environmental Science'というクラスの中間テストで50種類くらいの鳥を暗記させられたのを思い出す。

このクラスは1限だったので、毎朝クラスメートと共にバードウォッチングをしていた。

ここの瞑想施設では、誰も言葉を発しないために、チュンチュンと鳥が木の実をついばむ音が余計に耳に響く。

遅々としながらも充実した日々が過ぎていく中で、日本やアメリカで濁流のような毎日を過ごしているであろう友人たちのことを想う。

きっと、すべてを失って得るもの、すべてを投げ捨てて残るものがある。

どれだけ"断捨離"マインドを持っていても、肌身に離せないものがある。

3月に書いた「読書考―「本を読む」ということについて本気で考えてみる」というエントリーでも少し、触れたようにインドでの瞑想のことを話すと恩師がこう言ってくれた。

「いまは多くのものが溢れすぎいて、本当に必要なものが見えづらくなっている。だから、一度そういう私欲から離れた場所で清貧な生活をすることで、本当に大切なものが分かる。それだけにすがって生きていくのもいい」。

すべてを囲い込もうとせずに、自分から鳥カゴの柵を外し自由へ近づいていくこと。(sense of "let it go")

少々、尊大な言い方をすればこれから生きていく上での"哲理"のようなものが見い出せればいいと思う。

仏教が広く膾炙したインドでは、リクシャのドライバーでさえ「カルマ」の思想を身に抱いて生きている。

一度、英語が上手だったドライバーとどれだけ執拗に値段交渉をして端金を上乗せして、賃金を得たとしても死んでしまえば紙幣なんて何の意味もなさないという話をした。

プラトンが「最初で最高の勝利とは、自分自身を征服することである。自分に征服されることは、最も恥ずかしく、卑しむべきことである」と言っていたのは、大いに頷ける。

この瞑想記で何度も強調しているように、"孤絶"された状況の中で自分自身の孤独と対峙することでしか、その"征服"は不可能ではないかと強く思う。

この点に関して

去年の今頃だったか、アメリカ育ちで日本人のエンジニアであるカーネギーメロン大卒の上杉周作さんがあげていた一つのエントリーが今でも自分に影響を与えている。

この記事ははじめから読まないとその要諦は分からないのだけれど、一番大事だと思ったのはこの箇所。

自分の中ではアメリカでも難しいと言われる大学で四年間、電車と遊び場が200キロ圏になく、冬はマイナス10度前後という地獄に閉じ込められて勉強した時がそれで、その修業分で食っているのだけど、また足りなくなったら修行に出るつもりです。しかしそういう思考で動いている若い日本の友達は少ない。インプットとアウトプットを両方最大化しようとしている友達よりはるかに少ない。

きっと今活躍されている多くの人は、上杉さんと同様に人知れず孤絶"の中で鍛錬した結果、その他多くの常人との差(これを上杉さんは修行分と表現しています)をつくり、その部分が評価されていると思う。 「個」というよりも「孤」。

こういった思いに至ったのにヘンリー・ソローの著作群には思想的に大きな影響をもたらされた。

迷子になってはじめて、つまりこの世界を見失ってはじめて、われわれは自己を発見しはじめるのであり、また、われわれの置かれた位置や、われわれと世界との関係の無限のひろがりを認識するようにもなるのである。
汝の視力を内部に向けよ。やがてそこには、いまだ発見されざる、千もの領域が見つかるだろう。その世界を経巡り、身近な宇宙地理学の最高権威者となれ。

考えてみればはじめてソローと出会ったのは大学1年のときに取っていた英米文学科の「アメリカ文学」という授業で『アメリカ文学史』を読んだとき。

国際政治を専攻する身で他学科の授業、それも文学部の授業をとること。何度も言うように、いつどうやって点が繋がっていくかは、その瞬間には分からない。

とくに現代の日本は特殊な状況に置かれていて、経済状況は90年代のバブル期からは様変わりしていて、韓国や中国の好景気とは対照的な状況。

国債は膨れ上がり、遠くない将来デフォルトになる可能性も指摘される。

超高齢化社会への階段を登り、社会保障費の問題も未だ解決の糸口はみえない。

なによりも東日本大震災で浮き彫りになった災害対策や原発問題。

これら山積する問題群に「当事者意識」を覚えず、繁忙の日々を惰性で漂流している人がいかに多いか。それはもちろん自分も痛いほど感じる。

毎日のルーティンに追われ、喧騒の轟音の中に身を預け、見て見ぬふり、聞こえぬふり。

どこかで気付いてはいるけど、べつに何をするでもない。

小松左京さんの『日本沈没』を読んだとき、隅っこにあった茫漠とした危機感がピークに達した。(マンガ版の6巻 記憶喪失の国、記憶喪失の首都だけでもいいので、ぜひ一読ください)

去年の園子温監督の『希望の国』を観たときにも同様の所感を覚えた。

先日起きた、ボストン・マラソンでの爆弾テロ。

村上春樹氏のニューヨーカーへ「ボストンへ。ランナーを自称する一人の世界市民から」と題した寄稿文。

その中で「傷を受け入れ、その上に新しい人生を築いていくこと」との言葉が印象に残っている。

瞑想を続けていく過程で、言葉の上に、言葉の下に、言葉の中にぼくらは生きていると思った。

なにを考えるにしても言葉がまずあって、なにかを伝えるにしても言葉を媒介にする。

長い時間をかけて「エクリチュール」について考えを巡らせた。

主体の自覚的な意味作用を超えた言語の自律性と他者性。

思考は現実化する』で繰り返しハイライトされている「自己深層説得」も、言葉が錨となっている。

「群盲象を撫ず」一つの物事も幾通りの見方がある。

ピンクスパイダー「何にもないってこと。そりゃ何でもありってこと

一個人がそれを包括的に全体を見渡すことはできない。でも時間は滔々と流れていく。(can't turn back the hands of time)

笑っていても、泣いていても。それならいつでもポジティブにいたい。(so get the best of it)

RADWIMPS「いいんですか」の歌詞が流れる。

「ごめんね」と「ありがとう」を繰り返せばいいんだよ。その比率は限りなく5分と5分に近いけど。例えば999999回ずつで最期の瞬間を迎えたとしよう。「ありがとう」の勝ちはもう間違いない。だってさ、だってさ、だってだって、だってさ。だって俺のこの世で最期の言葉はあなたに言う「ありがとう」

なんだかオノ・ヨーコさんのツイートを思い出さずにはいられなかった。 

ひとりの個人なぞ世界(earth, planet, universe)からしたら卑小でか弱い存在なのだとしたら、それを素直に認めて、そこにある大いな"ナニカ"、敬虔な宗教心に溢れる人なら「神」に敬服し、謙虚さを抱えながら生きていきたい。大地に生かされてる。「大地讃頌

名の知られた科学者ほど、その"ナニカ"に対して従順だと誰かが言ってた。

この時点でかなり胃が収縮してきた。中途半端に食べると、のちのち辛くなるから意図的に食べないようにしたりもした。わざとファスティング

その詳しい効用などについては『脳がよみがえる断食力』に詳しいです。

5日目をまだ慣れなかったのがパゴダ(個人セル)での瞑想。

なににもまして時間間隔が掴めない。掴もうとしている時点で失格ですが。

この辺りからほとんどタバコの禁断症状のようなものは皆無になる。

徐々にニコチン等の毒素が体内から抜け出ていることを実感する。

こんな動画も思い出しながら。

持ってきていた唯一のZARAの長ズボンが破ける。新しいものを頂く。これが思ったよりも非常に快適。やはり瞑想には伸縮性のいい服装が最適。

ここの施設で働いている職員の人たちは、陰がどことなく薄いようだ。

自ら存在感を希薄にしているような、人が通りかかると隅っこに身を隠しているかのよう。いわゆるカースト外の不可触賤民(untouchable)と呼ばれる人たちなのだろうか。

村上春樹『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で影を失っていく主人公をおもう。

こんないくつもの断想がよぎりながらも、淡々と瞑想は続いていく。

こんなどうしようもないことを思いついた。

いっそのことを「瞑想」を入社試験に組み入れてはどうか。

行住坐臥を徹底的に「坐」だけにフォーカスする。その他は度外視。

たとえば10日間といわず、3時間の坐禅瞑想でもいい。断続的に3時間。

これでもかなりふるい落とされると思う。忍耐力の指標になる。

「満たされているとき」は無頓着で、「満たされていないとき」は声を荒げて発狂する。隣の芝は青く見えるし、渇望のバケツには穴が開いている。

仏教のサンカーラ。説法(discourse)で語られる諸行無常。

苦痛から快感へ変わっていった6日目以降。

#⑦へつづきます...。

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。