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語学の散歩道#1 バベルの塔


『文学で学ぶ表現力』のクラスがついに定員不足で消滅してしまった。

これは日本におけるフランス文学の低迷を示すものなのか、あるいはフランス語学習者の減少を示すものなのか。確かに木曜日の19時から2時間もフランス文学を読んでフランス語でディスカッションをする語学講座など苦行のように見えるかもしれない。誰かが欠席すると、マンツーマンで2時間のディスカッションをするという事態に陥ったことも度々あった。

私たちは、常に絶滅危惧種だった。

クラスが消滅したので、le jardin de l’écriture シリーズも自動的に消滅してしまった。マイナーな記事だったにも関わらず、読んでいただいた皆さまには感謝の気持ちでいっぱいである。

しかしながら、語学学習への愛情のやり場を失い、これにはすっかり参ってしまった。そこで、あれこれ考えた末、今回新たに“語学にまつわるエッセイ”として、これまた誰に期待されるという訳でもない語学シリーズに紙面を割くことにした。

語学学習というと、単に外国語を学ぶことだけを目的にしているようであるが、実際にはそうではない。言葉だけを学べば外国人と楽しく交流ができるという夢は、残念だが幻である。語学講座に通って異文化交流ができているつもりでも、在日歴が長い外国人から学ぶ場合、教える側がある程度日本文化に馴染んでいるため、双方向に理解できているというよりは、むしろ相手側がこちらの文化を理解したうえで交流してくれていると言った方がいい。

外国人との交流において重要なのは、言葉の違いを克服することもさりながら、それ以上にその言葉の背景にあるもの、すなわち生活や文化に根差した考え方やものの見方の違いを理解する、ということだ。もちろん個人差があるので一概に文化の違いと一括りにすることはできないが、大枠で捉えるといわゆる国民性の違いというものが語学を学ぶことで見えてくる。

表面的に言語だけを学んでも異文化を理解していることにはならない。むしろ言語の裏側にあるものを理解する必要があり、それは概して学習者の主体性に委ねられる。すなわち、異文化コミュニケーションに奥行きを持たせられるかどうかは、それを学ぼうとする学習者の観察力と努力にかかってくるのである。

私は、外国語を流暢に話せないし、母国語のようにスラスラ(いや、母国語も時に苦労している)書いたりできない。しかしながら、細々と地道に学び、日常的に言語に対して関心を持つことで、多少なりとも多角的に物事を考えるようになれた気がしている。

日本にいれば日本語以外の言語は必要ない。たまに外国人に英語で話しかけられて怯むことがあったとしても、その場さえ凌いでしまえばまた日常に戻れる。外国語が話せないことを理由に、井の中の蛙大海を知らず、などと言われたところで、日常生活に支障をきたすわけではないし、日本語ができれば何の問題もないはずである。むしろ井の中の蛙なんていう言い方をされては、いい気分がしない。しかし、一方でとりたてて必要のない知的好奇心が、時とともに硬化しがちな思考力に刺激と慧眼をあたえてくれることもあるのだ。

私の場合は、仕事で必要なわけでもなく、留学する予定があるわけでもないのにフランス語を学んでいる。そう話すと、大抵の場合「必要もないのに何でフランス語なんて勉強してるの?英語の方が役に立つのに」と言われる。なかには「英語が話せれば、世界中どこでもコミュニケーションが取れるんだから、フランス語なんて学ぶ必要はないじゃないか」とまで言い切った人もいた。学ぶ必要のない言語。役に立たない言語。そんなことは考えたことがなかった。しかし、そもそも言語に有益性を求めて学習しているわけではないし、極言すると、こうした見方は学習される言語に優劣がつけられ、差別につながるのではないかとむしろ懸念する。

そういうわけで、この記事は語学学習の必要性や有益性を説くためのものではなく、語学を学ぶことによって、あるいはその過程で知り合った人や知り得たことによって、語学学習から私が得たものをただ書き連ねてみようと思う。

そして、このエッセイを読んで現在語学を学んでいる人、これから学ぼうとしている人、あるいは全く関心がない人でも、本編を通して小さな発見をしていただけたら嬉しい。


さて、近年国際化が叫ばれる一方で、吹替えの映画やドラマが増え、“グローバル化“の意味を考えることが多くなった。たしかに、字幕版だと字幕に気を取られて映像を見落とし、ストーリーに集中できないというデメリットはある。しかし、同時に役者のオリジナルの声やトーン、原語のセリフがダイレクトに伝わってくるメリットもある。対して吹替版は、映画のあらすじは楽しめるかもしれないが、それ以外の要素が消し去られてしまうため、オリジナルの楽しさを十分に味わうことができない。原語がもつニュアンスが日本語に置き換えられ、さらに役者の演技が声優の演技に置き換えられてしまうからだ。

こうした傾向があるとはいえ、最近の映画配信サイトでは英語圏以外の作品も字幕版で配信される機会が増え、オランダ語やトルコ語、エストニア語といったさまざまな言語で視聴できるようになったのは嬉しい。とくに海外への渡航が制限されている最近の事情を踏まえると、自宅にいながらこの手の海外の番組を見れるなんて、非常にありがたい時代である。


しばらく前のことになるが、友人の勧めで『The team』というドラマシリーズを見た。デンマーク南部で起きた殺人事件を、ドイツ警察とベルギー情報部がデンマーク警察と共同で捜査するという内容だ。ヨーロッパの作品にしてはプロットが甘く深みにかけた感があったが、私の関心はもはやストーリーになく、登場人物たちが話す言語にあった。

主人公はデンマーク警察の女性警部なので、いわゆる地の文はデンマーク語である。特捜部Q以来のデンマーク語に大興奮である。Mange tak!
加えてドイツ警察がドイツ語を話す。戸惑ったのは、ベルギー情報部の女性捜査官の言語である。最初ドイツ語かオランダ語のように聞こえたのだが、なんとなく違う。彼女が別の場面でフランス語を使ったときに気づいた。あれはフラマン語だったのだと。ちなみにこのドラマでベルギーに情報部があることを知り、さらにテンションが上がった。

捜査官同士の会話は英語なのだが、それぞれにお国のアクセントがあり、これがまた面白い。さらに事件の発端がシリアにあるため、シリア語(あるいはアラビア語?)も登場する。こうなると、ドラマはまさに“バベルの塔“そのものである。そして肝心のストーリーの方は…。忘れた…。

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同じく複数の言語が楽しめる映画として、セドリック・クラピッシュ監督の『スパニッシュアパートメント(原題: l’auberge espagnol)』という作品がある。

卒業後の進路に戸惑いを感じるフランス人の学生が、エラスムスという留学制度を利用してバルセロナへ留学する。そこで出会った人々との交流を通して自分が進む道を模索する、という監督の自伝的青春ドラマである。

主人公のグザヴィエは、留学先のバルセロナで滞在先を探していたのだが、国籍の異なる学生たちがルームシェアをしているアパートに同居することになった。ルームメイトは、リーダー格のドイツ人トビアス、楽天的なイタリア人アレッサンドロ、デンマーク人のラースとその恋人でスペイン人のソレダ、生真面目なイギリス人のウェンディの5名だったが、家主による家賃の値上げ事件をきっかけに新たにベルギー人イザベルが加わり、グザヴィエを含めて総勢7名での共同生活が始まる。

ストーリーについては、ここでは本題ではないので割愛する。私が注目したいのは、この映画で使用されている言語の多さである。全編通して基本的にはフランス語が使用されているが、ルームメイト同士の会話では、フランス語を理解できるのは留学経験を持つラースとベルギーのワロン出身のイザベルだけなので、主にスペイン語や英語が使われている。しかし、このスペイン語について、さらに一騒動が起こる。大学での講義中にイザベルが教授に対して「留学生の多くは標準語(カスティリア語)しかわからないので、カスティリア語で話してください」と抗議をする。バルセロナで通常使用されているのはカタロニア語である。すると教授は、「ここはバルセロナだから、カタロニア語が公用語である。カスティリア語で学びたけりゃ、マドリードか南米の大学へ行けばいい」とやり返すのである。

国籍の異なる学生同士が言葉の問題を超えて同居しているのに対して、ここでは言葉の違いが対立要素になっている。「言語というのはアイデンティティである」という経済学部の学生同士の会話も興味深い。私は第二外国語でスペイン語を学んだが、バルセロナで話されるスペイン語にはかなり戸惑った記憶がある。今思えば、少しフランス語に似ていた部分もあったように思う。

本作原題の『l’auberge espagnol』は、手元の辞書を引くと「自分が持っている物以外は手に入らない場所や状況」とある。aubergeは「旅籠」という意味である。昔のスペインの宿屋では大した賄が期待できないため必要な飲み物や食べ物は自分で持ち込まなければならないというところから上記のような意味になるのだが、作中では転じて「混沌から何かを得る」という解釈に繋がっている。邦題のスパニッシュ・アパートメントという日本語からは得られない語感である。

ついでながら、シリーズ第3作の『ニューヨークの巴里男(パリジャン)』の原題である”Casse-tête chinois”は、Casse-tête(「難問」、「パズル」)に、学ぶのが難しいことからchinois「中国(語)の」という形容詞を付けて、あわせて「厄介な問題」という意味になる。これを聞いたとき、高校時代の英語の先生が、It's Greek to me(チンプンカンプンだ)というフレーズを教えてくれたのを思い出した。見慣れない外国語の学習が難しいのは洋の東西を問わないようである。

こういうところに、語学を学ぶ醍醐味があると私は思っている。

<語学の散歩道>シリーズ(1)



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