「女性活動家」たちの正体
武田邦彦先生がよく言っているように、「男」と「女」は別の生き物だから比べることができない。
だから「どちらが優れているか?」についても議論することができない。
そもそも「どちらが優れているか?」なんて誰も議論しようとしていないのだが、これまで「女性活動家」たちは勝手に議論を始めてきた。
このような「女性活動家」たちの意見に賛同してしまった女性たちは気付いていないのだ。
そもそも議論されていなかったことについて、議論を始めたことによって自分たちが損なわれているということを――
世界各地の主神について
日本では、日本神話のトップが天照大御神(アマテラスオオミカミ)という女神である。
つまり仮に「どちらが優れているか?」を議論するのであれば、日本においての答えは「女性」だということになる。
海外の神話や宗教では、トップはすべて男神である。
キリストもお釈迦様も男性だし、ギリシャ神話のゼウスも男性だ。
「無為」と「怠惰」
そもそも議論が行われていなかったのにもかかわらず議論は開始された。
それも女性によって。
しかも議論する前から答えが出ているような事柄について、である。
しかしながら、上の3行の中にはミスリードがある。
お分かりだろうか?
それは「女性によって」という部分である。
――「女性活動家」たちの正体は、実は女性ではない――
一瞬、「誤字かな?」と思われるような文章だが、誤字ではない。
「女性活動家」として前面に出てきているのは、その組織の一部であって全体ではないのだ。
その組織には当然、男性もいる。
ではなぜ「女性活動家」たちはこのような無意味な議論を始めたのだろうか?
基本にあるのは、欧米諸国、白人、とりわけユダヤ人による「搾取」の構造であるように思う。
会社、企業、資本主義が「搾取」の構造であるように、彼らは「搾取」によって私腹を肥やしてきた。
労働をするのは搾取する対象の人間たちだけであって、搾取する側は労働をしない。
「無為」や「怠惰」という考え方を作ったのもすべて彼らだ。
「何もしない」とか「働かない」ことを罪としたのだ。
日本でもニートとか揶揄されて「無為」や「怠惰」は忌み嫌われている。
「高等遊民」と表現しても結局、世間の評価はニートになる。
搾取する対象が働かなくなると困るのは誰か?
答えは簡単だろう――
次の標的にされたのが女性だった
さらに日本には「主婦」という存在がいた。
男たちについては「無為」や「怠惰」という罪を設定したことですべて労働に追いやることができたが、まだ女性が残っていたのだ。
そこで「女性活動家」というものが登場してきた。
彼女たちが主張したのは、「女性も男性と同じにしろ」ということだった。
つまり女性の「無為」や「怠惰」も許さない、という意味だった。
別に「主婦」だって家事という労働をしていたのだが、確かに20世紀後半になって家電製品のめざましい発達によって主婦には時間ができた。
そこを狙われただけに過ぎない。
確かに女性の中にも「社会進出したい」という願望はあって、うまくそそのかされてしまった。
そもそも女性たちは男性と同じになりたかったのだろうか?
男性がどれだけつらい思いをしているかを知らなかったのだろうか。
それと同じになりたいなどと、やはり女性は本来的にマゾである。
女性としての苦しみも感じながら、男性としての苦しみも感じたいというのだから――
最後に
いついかなるときも自分の頭で考えることは必須だ。
世界は…というよりは欧米の白人たちは全力で騙してくる。
それでも日本人には根強く欧米に対するコンプレックスがある。
確かに坂口安吾が書いているように、日本の農村なんて陰湿極まりなく決して褒められたものではないのかもしれない。
でも、だからといって欧米人に首を垂れる必要なんてないのに…と思ってしまう。
アフリカ人などは、日本人は唯一、白人と戦った民族として多大なリスペクトをしているらしい。
アフリカに自衛隊が行くと「戦士」として崇められるらしい。
無根拠に日本をageて、欧米をsageる必要はないけど、その逆もまた然りだろうと思う。
今日はここまで。
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