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暗い時代のいちねん

 2020年の2月頃から、なんとなくすべてにおいて精気(生命の力、精神と気力)のない一日一日を過ごしてきてしまった。気づいたらもう1年3か月もの時間が経っている。

 たとえば、私たちは毎年春になると花粉という目に見えない物質にまとわりつかれ、目・鼻・口をやられる。場合によっては頭痛になったり、心なしか耳が聞こえづらくなったりする。といっても、目に見えないし、触覚的に感知することもできない。身体の異常を以て、ただ、”そこにいる”という形で、花粉の存在を知ることになる。春は、花粉という―植物が生殖のために噴出させる―ものに覆われている。なんだか、とても気持ち悪い。

 そんな気味の悪さのある春(とひとによっては秋)の時期は、なんとなく身体がダルくなるし、気もそぞろ、集中できなくなる。ところが、春先には梅が赤くてかわいらしい花を咲かせるし、満開の桜が赤ちゃんを抱くように私たちを温かく祝福してくれる。秋なら、ツリフネソウが花火のように鮮やかに飛び散るし、イタドリが可憐に目を喜ばせてくれる。

 だからこそ、こころは死なない。いちおうのバランスがある。

 しかしながら、この一年は、気味の悪いウイルスに取り巻かれ、ひとびとは憑かれたようにヒトを避けた。いや、実際は、ヒトを避けたのではなく、ウイルスを避けたのだが、明示的な行動としてはヒトを避けるようになった。そのせいで、私たちは、社会の関係性から切り離されて弱体化した。人が人を避けてしまったら、ヒトになってしまう。話題が逸れだしてしまった。おかか。

 人間は、これまで科学を進歩させてきた。そのせいで、「答え」があふれていて、「分からないこと」にどう向き合うか、どんどん分からなくなってきている。そして、この一年。未知の、それも刻一刻と変異するなにかに脅かされた一年。この一年は、確実に、わたしたちの生命力を削ぎ続けてきた。分からないという「状況」が、わたしたちをジリジリとくびり殺すかのように。荒涼とした社会、索漠とした街。わたしたちには、寄る辺がない。そんな時にどうすればいいのか。身体感覚としてそれが分からなくなってしまっている。

 わたしたちは、様々な他者に条件づけられて、いま・ここにわたしとして存在している。そして、わたしたちが、いま・ここに存在するには、様々な他者に条件づけられていなければならない。この一年で、わたしたちを拘束する条件は、なんだか遊離していった。とりわけ、地理的拘束・条件づけが著しく低下した。同じ釜の飯を食う仲間のような(疑似的でも)共同体の成立は望みづらくなってしまった。友人と、仲間と、恋人と、ひょっとしたら家族とも、食卓を囲むことができなくなった。いただきますも、ごちそうさまも、乾杯もできなくなった。このことの意味は、想像以上に大きいのかもしれない。

 そういえば、柳田國男老師が、

「常に酒を飲み茶を啜るに、皆其初を神に供ふる儀を為す。是をホカヒと謂ふ。古語なり。」(『笈埃随筆』)と誌して居るが、同じ風習は現在なほ消えてしまはず、高千穂地方では敬神の念の強い人たちが、酒を飲む前に指の先で三べんほど、酒を空中に散らすことをホカフといふさうである。
                       ―柳田國男『先祖の話』

と書いている。柳田老師は、このホカヒを無縁仏や地霊への儀礼でないかと推測している。おそらく今日では「乾杯!」と、同席する一同が盃を空に掲げることが、ホカヒにあたる。これは、日本文化における重要な儀礼のように思える。一杯目のひと口目は、そこに存在するとは別の仕方で、しかし、確実に”いる”霊的なものへの献杯なのである。だからこそ、乾杯する前に口をつけてしまうと顰蹙を買うのである。決して、先に飲んじゃってずるいという話ではない。

 霊的なものを信じるかどうかは関係ない。ここでは、場を共有する者が、共餐の席についている共同的行為そのもの―そして副次的に構成される「共同している実感」―がポイントなのである。

 なんだかむずかしい話になってきてしまったが、言いたいことは難しくない。食べたり、飲んだりという、生きるために必要な行動を誰かと一緒に行うことで、わたしたちは「わたしはこの世界に自分だけではない」という実感を得られる。このような営みが、人間をヒトとしてでなく、人として賦活しているという当たり前な事実に気づかせるのである。

 そして、そんな不気味なウイルスのいる毎日を便々とすごしてしまった私は、日課だったランニングを再開した。この一年三か月で 5 kg 太ってしまっていたのだが、2 週間で 2 kg 落ちた。あんがい、ちょろい。

 あと、歳なのか野菜がおいしくなった。とくに水菜とか三つ葉、菜の花、たらの芽、うどといったタンニン・サポニンなどの含有量のおおい、苦みのある野菜がおいしく感じられる。本来、酸味と苦みは、身体が異物として認知するためまずいと感じる。しかし、人間は不思議と酸味と苦みに「慣れる」。そして、慣れるとおいしいと感じるようになる。不思議なものである。

 一年三か月ですっかりコロナ禍という状況には慣れてきてしまっているけれど、これでよしとはまったく思えないし、思うことはない気がする。慣れてもおいしくは感じられない。ただただ、苦虫を嚙み潰しつづけているだけの切ない状況なのである。前にも進まず、後ろにも戻らず、右往左往、右顧左眄。私たちは、これからも漫然と一日を過ごさざるを得ないのだろうか。

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