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笑われる恐怖からバンジージャンプする

恥を捨てて一歩を踏み出すのって、なかなか飛べないバンジージャンプに似ている気がする。

一歩踏み出したことで笑われないか、馬鹿にされないか、杞憂かもしれないけどそんな恐怖が心の中で渦巻きながら、やるかやらまいかの心の往来は、なかなかえいっと飛び立つことかできないジャンプ台の上の心境なのではないか。

飛んでしまえばなんてことはないのかもしれないけれど。

私がこのバンジージャンプのジレンマの渦中にいたのは留学していた時。

語学を早く上達させるには、恥ずかしがらずに積極的に使って、わからないことは聞く、とわかってはいたけど私にはそれができなかった。

何言ってるの?そんなこともわからないの?と思われることが怖くて、素直にわからないことをわからないとその場で言えず、雰囲気に任せてやり過ごしたことがたくさんある。

さすがにここはしっかり理解してないとダメなとこ、というのは聞くようにしていたけど、致命傷に至らないただの会話なんかは、心の消耗を最小限に減らすため、その場の雰囲気を察して、とりあえず浮かないリアクションだけで生き延びた。

だから上達した、と言えるまでには想像していた以上にすごく時間がかかった。

あの時の自分がもっとオープンで、ぐいぐいイケる系だったら、と思うこともあるし、なんでそんなことが怖いんだ、と責める自分もいる。

それは結局、理想の道筋と自分自身が乖離しているから生じる気持ちだと思う。

目標を成し遂げるために、理想のやり方は必ずある。でもその理想が自分に当てはまるかどうかはまた別の話で、理想通りにパフォーマンスできない自分も自分自身だ。

だからと言って、理想に近づけるように何が何でも努力すべきか、と言ったらそうじゃないと私は思う。

もしその理想に近づけない理由が、見えないものへの恐怖心や恥ずかしい気持ちなら、そんなもの捨てて、さっさとバンジージャンプしてしまえ、なんて私は言えない。

その、「えいっ」の瞬間に到るまでの怖い気持ち、恥ずかしい気持ち、手に溢れ出てくる汗を握る感と心臓のきゅーっとなる感じを知っているから。

あの時心をすり減らしながら恥を捨てていたら、

もしかしたら心配していた通りの反応が返ってきて心がぽっきりいっちゃったかもしれないし、

もしかしたら私の周りの人は全員親切で、全部解説してくれて、ぐんぐん語学力がアップしたかもしれない。

でもそれはあくまで仮説であって、それが理想の形だったとしても、やってみなかったことを、そっちの方がよかったに違いない、とは言えない。

だから、バンジージャンプ、飛ぶか飛ばないか迷って結局飛ばなかったとしても、別にそれはそれでいいんじゃないだろうか。

飛ばなかったことを後悔したらまたチャレンジすればいいし、もし飛べる時が来てその経験が飛ばない時よりよかったならば、それは恐怖を捨ててそれは飛ぶべきなのかもしれない。

怖い、恥ずかしい、という感情はなかなか簡単に捨て去れるものじゃない。だから、自分のペースで心の準備が整うのを待つのもありな、優しい世の中だといいな、と思ったりする。

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