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信じる

まず、私は幼い頃の記憶が曖昧だ。
楽しかった記憶も辛かった記憶もモヤがかかったように、特に印象に残ったエピソードしか覚えていない。

それでも、両親が不仲だったこと。
母のヒステリックな怒り方、祖母の過干渉、父の無関心は覚えているエピソードが楽しかったエピソードより多い。

母も父も自分軸でしか物事を考えられないらしい。
「辛いことがたくさんあったけど、三姉妹を育てられて幸せ」と母は言った。
私は、辛かった。
幼い頃、幸せを感じたのは母だけいる日、父だけいる日、どちらもいない日
両親揃うとかならず喧嘩が始まる。

母は病的に心配性で神経質なところがあった。
外から近所の人が見張っているから、カーテンを開けてはダメとよく言われた。
近所の人が、悪い噂をしているとよく話すこともあった。

私が小学校中学年当時、うちの家計は火の車だったらしい。
祖父がしてくる借金のせいだった。
そのため、母も父も夜遅くまで仕事をしていた。

母は22時を過ぎて帰ってきて、寝ないで母を待っていた私達姉妹に仕事のストレスをヒステリックにぶつけた。
宿題をやってない!どうしてこんな遅くまで起きている!寝ろ!とキンキンした声で捲し立てた。
朝、私達より早く起きて仕事へ行く母の顔を見るには帰ってくるのを待つしかなかったのに。

父はというと、全くの無関心だった。
母のヒステリーをなあなあとかわし、自室へこもって出てこなくなった。
私達を無視することはなかったが、学校は楽しいか?とか困ったことはないか?とかそんな声を掛けられたことはない。

そんな両親は顔を合わせるとかならず喧嘩をした。
暴力はなかったが、遠慮なく子供たちの前で子供達のことで喧嘩した。
祖父の借金問題があったため、お金のことでの喧嘩がほとんどだった。
母が私達にかかるお金が足りない、お金が無い!と父に言う、父も俺も金が無い!と言い返す。
父はそのうち母の言うことになあなあと答え、母を余計に怒らせる。
母もそんな父の態度にヒステリーを起こした。
喧嘩が数分続くと今度は私達姉妹に母の矛先が向く。
宿題をやってない!お風呂早くはいって!もう9時過ぎてるのにどうして寝ないの!母は父との喧嘩のストレスを子供達に向けた。

私は小学校高学年になった。
その頃になると、周りはファッションとか恋愛とかが話題の中心になっていた。
私はどれも興味が持てなくて、月刊の漫画雑誌に夢中だった。
付録のビニールポーチを愛用し、学校へ持っていったりしていたら、私の見ていないところでバカにされ、陰口を言われた。
正直、やられていることがわからずら意味不明だった。
そんなことがあって辛かったと、母に打ち明けても
母は私の方がもっと辛かった幼少期を送った!と言う。

中学になると、毎晩、深夜になるまで、母と話をした。
というか、母の話を聞いた。
中学生の私は立派なうつ状態になっていた。
当時、中学生が心の病院へかかることなんてなかったので、治療もできなかった。
泣きながらでないと眠れなかったし、どうやって死ぬか毎日考えた。
やる気も起きず、だるさで朝起きられない。
ストレスで常にお腹を壊して、立ちくらみでふらついていた。
急に不安に襲われ、死んでしまいたくなり、ベッドで丸くなり耐えた。
結局、不登校になり、毎日ベッドで小説を読み、過食して(本当にただただたくさん食べるだけ)過ごした。

1番下の妹も不登校になった。
三女は癇癪持ちで、内弁慶。
外では自己表現できず、友達もいなかった。
逆に家のなかではお姫様のようにわがまま放題。
キレると、キー!と叫び、物や人に当たった。
言葉にすることがとても苦手だったようだ。

うつ状態の私はそれを毎朝、聞きながら起きた。
とても、落ち込んだ。
でも、母がわたしの所に来ないことで学校へ行けと言われないことに安堵した。

中学2年生頃のある晩、父が言った。

「三女が不登校になったのは、お前のせいだ。」

いまでも、どう、受け止めていいのか分からない。
とても、苦しくなる。

ヒステリックに怒鳴り、生肉食わせてくる母よりは父のほうが好きだったから。

この時から、いや、もっと前からか、私は両親が信じられなくなった。

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