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あくびの隨に 35話
前回
邪なる蛇の見下ろす下界は、広大にて矮小だった。
五芒星を模した留包国という隔世の大陸。山があり、川があり、直下にあるは草木の枯れ果て、生き物が住むこともできない封節の森。その中心に長らく居座っていた神の座する封節の社も、今や存在があったことすら嘘のように消し飛んだ。
奈落の底で永劫にも感じられる間、封印されていた積年の憎悪。
遣いである腐土の権現によって、人々の血と負を吸った大地から流れ込んできた力は、強大にして絶対無比。
灼熱の瘴気をひと吹きしただけで、地形が変化するほどの大穴が空いた。
かつては五大光家と神に後れを取ったが、その神もすでに消え失せている。
忌々しい光が五つと、神の気配に似た妙な存在があるようだが、そのようなものは脅威とは成り得ない。封印が解かれ、全盛期以上の力を発揮する邪なる蛇に、虫けらの如き地上の人間が敵うべくもないのだ。
邪なる蛇は、そう考えるように暗黒に包まれた空で翼を広げ、留包国の全土より生じる人々の恐怖を一身に受けていた。
しかし地獄の体現者は、あくまでも存在を有するものであり、決して概念ではない。
形あるものに永劫は許されず――
「――っと、自分が最初かぁ?」
稲による因果の超越に際し、一番槍として光の中から数良が姿を現した。
彼女の出現場所は邪なる蛇の背中。がら空きの翼に、直接攻撃を加えるに最適の地点だ。
これをすかさず理解しながら、数良は我慢を重ねた憤りを解放させる。
肩に担いだ鳳葉を振りかざし、狙い澄ますは六枚の翼。
「まずはそのうっとおしい羽を――断つ!」
持てる季力を注ぎ込み、数良は双頭の斧刃を繰り出した。
力強く無造作に、ただそぎ落とすことだけに特化した暴風の如き連撃。超硬質化した黒い鱗の外殻も、至近距離から打ち込まれる破壊に耐える道理はない。破片が飛び散りながら、次々に翼の表面が削られていく。
そうして根本を根こそぎ叩き伏せる数良の破砕が実を結ぼうとする間際、異変を察知した邪なる蛇が突如として旋回を始めた。
背中で飛び跳ねる蚤でも払うように、身をよじりながら数良を振り落とそうとする。
激しい揺れに見舞われて態勢を崩す数良だが、それでもなお攻撃の手が止むことはない。
ひたすらに翼を責め、邪なる蛇が全身をきりもみ回転しようとしたとき。
「これで、どうだぁ!」
二振りの鳳葉を両翼に見立て、数良は季力の羽ばたきを引き起こした。
刹那、突風の刃が六枚の翼を襲い、外皮は完全に禿げ落ちた。けれど、これを斬り落とすことは叶わず、季力を使い果たした数良は全身の余力を失い宙に投げ出される。
「ちくしょう、ここまでか……けど、あとは頼んだぜ」
数良の全身が光に包まれ、彼女は己の役割を果たしながら消えていく。
翼の守りを失った邪なる蛇だが、その浮力はまだ健在である。未だ大空を飛び回り、腹の底で怪奇な音を鳴り響かせ、着実に死の瘴気を放つ準備を整えていた。
「――はてさて、あっしは何をすれば良いんだい?」
司垂が現れた地点は、邪なる蛇の頭部であった。
ちょうど額の一角を支柱としながら、司垂は素早く状況を確認する。
このまま首を切り落とせれば手っ取り早いのだが、堅固な鱗がある限りそれは不可能に近い。すぐに致命傷を与えられる箇所を探し、邪なる蛇の背中側を見やると司垂は口端を持ち上げた。
「なるほどねえ。ご丁寧に手羽先の鱗を落としてくれたってか。こんだけお膳立てされちゃ、仕損じるわけにゃいかねえなあ」
司垂は右腕を角に絡ませて態勢を保ちながら、左手で雨隠を振るった。
「てっきり一人一枚って考えてたが、手間が省けるわ。んじゃ、その六翼を――刈る!」
伸ばされる季力の鎖鎌は、左右三枚ずつある翼の外側と内側からこれを四刃で囲う。剥き出しとなった黒色の肉に鎌を食い込ませ、司垂は全力でこれを引き戻した。
季力の刃に晒されて、草刈りのように奥から一本ずつ羽が削がれていく。
血の代わりに噴き出してくるのは、先に口から吐かれた赫の吐息と同質。
あらゆるものを腐食し溶かす液が、自らの体表を包んで邪なる蛇は暴れ狂う。
全ての翼が雨隠に斬り落とされると、飛翔を奪われた巨体は地上へと落下を始めた。
「おっとっと、こいつは早いとこ退散した方がよさげかねえ……って、ありゃあすげえな」
役目を終えた司垂の身体は、光の中に消失していく。
その直前、彼は遠方より聞こえる無数の音をその耳に聞いていた。
「――角度、風向き、全て良好ですね」
司垂の出現とほぼ同じとき。
転移を果たした一陽が立っていたのは古木の上だった。
封節の森で、おそらく最も高い枯れ木の枝。そこに両足をかけ、安定性の悪い場所で幕引を絞っていた彼女は、米粒よりも遥かに小さな邪なる蛇の鱗の隙間を狙い定めていた。
肉眼では、到底捉えることのできない距離。
どれほどの弓の名手であろうと、一か所でさえ匙を投げるような射であるが、一陽はこれから無数の的めがけてそれを実行しようとしていた。鱗の数は何百、何千という単位では収まるはずもなく、ましてや敵は空を飛んでいる。
加えて司垂が翼を斬り落とそうとし、今にも落下しそうになっていた。
地上に落ちてからこれを行ったのでは遅い。
空から地に落ちることが確定した、完全に無防備な今このときでなければ、一陽の射は意味を成さないのだ。
「龍には逆鱗があると聞きますが、あれは蛇でしょうし、冷静さを欠くのであれば好都合と言ったところでしょうか」
じっと射を構える一陽。
余裕というわけではない。幕引をつがえる手は震え、外せばそれが仲間たちの命取りになるという重圧が押しかかっている。けれど乱れた心は弓にとって致命的だ。外れると思って放った矢は必ず的から逸れる。
それなら当たることを前提に置くことが、弓を射る者にとってあるべき精神だった。
「醜悪なる身体を覆い隠す、忌まわしき鎧を――射る!」
しゅっ、と放たれる一矢は総矢。
季力を注ぎ込んだ幕引の矢幕は、千や万などの桁で表すことはできなかった。
それこそ数え切れぬほどの光の襲撃に、翼を失って失墜する邪なる蛇の体表は幾度となく見舞われる。
地上に落ちる間に受けた本数は測り知れず、もはや季力の矢は鱗の隙間をぎっちりと覆い尽くしていた。
邪なる蛇の体躯は、地上の焦土より軌道を逸らし、封節の森に激突していく。これを見届けて消える一陽の視線の先には、待ち構える者の姿が映っていた。
「――見事なり」
邪なる蛇を覆う、漆黒の鱗鎧は一枚残らず砕け散った。
落下地点に現れた透非は、間髪入れず動き出した邪なる蛇の尾の前にいた。
付近に繚乱季装の気配を感じ取った邪なる蛇は、一帯を薙ぎ払うように尻尾を振るう。
しかし狙いも付かない攻撃が、練達の武人に当たるはずがない。鶴首の柄を地面に突いて、透非は塀でもよじ登る勢いで跳躍し、すかさず槍を手元に引き戻して攻撃を躱す。
邪なる蛇は両足を地面に踏ん張り態勢を直しながら、長い首を曲げて背後を振り返り、宙に飛んだ透非に向けて器用に尾を振りかざす。
けれどこれも透非は鶴首を上手く利用し、太い尻尾の直撃に合わせて槍を打ち付けた。その衝撃でさらに透非の身体は高く上がり、憤ったように邪なる蛇は鋭利な尾の先端で、彼の身体を貫きにかかる。
「敏捷なる尾は鞭の如きしなやかさなれど、ことせめぎ合いにおいて槍には敵わぬ」
透非は空中で槍を両手で握り締め、肉薄する尾槍に鶴首を定めた。
「いざ、その貪欲なる徹尾を――突く!」
真正面から打ち合う矛。火花巻き散る競り合いに、勝利を得るは透非の鶴首。季力を最大限まで研ぎ澄ませた矛先に、貫けぬものなしと邪なる蛇の尾は瓦解した。
その先端から身体に迸っていく季力に危機を感じたように、邪なる蛇は自らの尻尾を胴体の付け根から、とかげのように削ぎ落とす。
とっさにそうしなければならないほど、邪悪の権化は追い詰められていたのだ。
「――ふむ。私が最後のようだな」
透非が消え、地上に堕ちた邪なる蛇の正面に現れた稲は、満身創痍の巨体を見やる。
翼はもがれて、鎧は砕かれ、尻尾は落とされた。
残る胴体には二つの脚と、長い首が存在するのみ。
脅威と成り得るものは、あらゆるものを溶解させる瘴気であるが、邪なる蛇にはまだ隠された力が存在していた。
突如、鳴り響く地鳴りに稲は身体をよろめかせる。
すると、地上から亡者のように這い出してくる腐土の権現。まだこれらを呼び起こすだけの余力があったことにも驚きだが、それらは稲に攻撃を仕掛けてくるわけではなかった。
無数の腐土は、邪なる蛇の身体にへばりつき、何かの形状を成していく。
まるで欠損した肉体を補うように、蛆を彷彿とさせる蠢きの末に土塊は完成された。
稲の眼前にそびえていたのは、腐土を寄せ集めて形取られたもう一つの頭。
そう、双頭の蛇が今ここに姿を現し、巨大な牙を見せつけながら稲に眼光を利かせる。
「思えば哀れなものよ」
二つの首に射竦められながらも、稲は感慨に耽るように呟いた。
「人の負より産まれし蛇は、人を食らうために生き、人の手によって滅ぼされる。私たちの我欲が生み出した怪物の成れの果てがそなたであるが……或いは、そのもう一つの頭は、羅刹と化した私なのやもしれぬな」
三日月の刀を上段に構え、稲は哀愁を言霊に乗せる。
「私は死なねばならん。この闘争の果てに、灰之防人の力を得た者の末路として、長生きはできぬ身よ。なればこそ、此度の戦場を死地と見定めてはいたが……存外、これより先の未来をこの目で見たくあった……」
決して叶わぬ末期の願い。
羅刹という過ちを経て、ようやくたどり着いた己の本当の気持ちも、全ては夜露と消える運命。されど、これを悲しいと稲は思わない。そのような資格は初めから持つことを許されず、けれどその礎と成れたのなら、それは真の幸福。
稲は人生を懸けて、留包国に真の平和をもたらせることに、この上ない喜びを感じた。
「我が刃にて、忌まわしき過去とともに――斬る!」
振り上げた繊月に心を纏わせ、稲は双頭の蛇に月光の煌めきを見せた。
牙を剥き、稲を呑み込もうとした邪なる蛇。
しかし潜在的な恐怖を感じたように、元来の首がとっさに横に避けていく。一方、土塊にて生まれた頭部に知能はなく、本能のままに眼前の障害を殺そうとしたことが、この勝負の明暗を別った。
閃光を放つ繊月の刃は、三日月の軌跡を描くに留まらない。
振り下ろすと同時に、切り返して結ばれる太刀筋は十字。季力の斬撃が一刀の元に腐土の頭を落とし、胴体にも致命傷に至る深い傷痕を残していく。
さらに輝きの一閃が、逃げるもう片方の首の額を掠めた。それは頭を斬り落とすには至らなかったものの、飛来した刃は見事に邪なる蛇の一角を叩き斬った。
身体から赫い瘴気を撒き散らす蛇は、絶叫するようにのたうち回る。
「あとは、ぬしに任せよう」
光に包まれた稲は、最後の役目を焦土に佇む彼へと託した。
――――――――
一連の五大光家の偉業により、邪なる蛇は巨体をふらつかせながら歩いてくる。大空を掌握し、大地を揺るがし、世界を滅ぼす負の権化が、その命を尽かそうとしていたのだ。
しかし邪なる蛇は、自らが負わされた邪悪な感情を、瘴気として体内へと蓄積させる。
神の力に頼らなければ、生きることすらままならぬ人間たちに、これほどの傷を受けてしまった。その憎悪は計り知れない恩讐とともにある。
人の血を、負を、邪悪を糧に生まれし蛇。
厄災をもたらさずして、邪なる蛇を名乗れはしない。
ならば、焦土などでは生温い。留包国全域を灰燼に化し、ありとあらゆる存在を根絶やしにする。そして、それが済んだ暁には、兼ねてより強く感じている別世界への来訪を目指すのだ。
そこでは留包国など比ではない、溢れ返るほどの人間が存在しているだろう。これらを貪り、殺し尽くすこと。それが邪なる蛇として生まれた存在意義であり、その身にとって最大の悦楽であった。
「――神のあくびに、神はいない」
焦土の中心に立つ逸流は、片足を地面に踏み込んで季力を流し込む。
瞬間、辺りに描き出される光の五芒星。
それは留包国の形を表すものであり、各頂点に顕現するは繚乱季装を手にした五大光家の末裔たち。
「人間の負が全ての始まりだけど、それは決してなくならない。全ての人間が、良いことだけをして生きるなんて無理なんだ」
不浄の上に成り立つ浮世は、人の生み出す地獄かもしれない。
「けど、やっぱり僕たちは生きてる。簡単に死んで良い命なんてない。良い奴も悪い奴もこの世にはたくさんいるけど、誰かがこれを身勝手に奪ったらいけないんだ」
逸流は右足を前に、左足を後ろにし、肘を引いた構えを取る。
「僕を恨むならそれでも良い。その代わり他の誰かを傷つけるな。これ以上その淀んだ力で、留包国の人たちを不幸にするな」
逸流より止め処なく溢れ出す季力は、描いた陣を通して五大光家に伝わっていく。
繚乱季装をそれぞれ構え、迎える先は大口を開く邪なる蛇。
そこに集約する邪悪な瘴気は、一同を滅ぼすために行使される赫き死の吐息。
これを真正面から受ければ、万物は融解して腐土の糧となるだろう。
さりとて、それを迎え撃つは生命の息吹。
「繚乱季装に五光は灯り、季力は百華を世に咲かし――」
蠢く闇の瘴気と相対するは、五つに集う光の輝き。
「然らば、その道は隨においてこともなく、神見る夢よと邪なるを――」
意を継ぐ稲の言葉とともに、一同は持てる季力を振りかざした。
『討つ!』
【――――――――――――――――っっっっっっ!】
放射状にもたらされる赫き死。
そこに返すは白き五光の輝き。
季力殴蹴による正拳とともに、一斉に振るわれた繚乱季装が合わさることで、今ここに神の奇跡が降臨した。
「儂は貴殿らと出会えたこと、生涯誇りに思い続けよう」
互いの全力を懸けた闇と光のせめぎ合いは、拮抗しながらも僅かに赫が勝っている。
「貴君らはまさしく此方の光明でした。どうかこれからも、その道が照らされることを」
押される白は、底力を見せるように徐々に輝きを増していく。
「自分みてぇな奴でも、おのれらといると良い奴に成れたみてぇで、すげぇ良かったぜ」
邪なる蛇はさらに腹の底から瘴気を生み出すが、それでも白き輝きに勝ることはない。
「あっしとして、そちらさん方の見た夢。しかと見届けさせてもらったよ」
負を祓うは聖なる務め。
生命と神秘の合わさる季力を前に、邪悪がはびこる世など訪れない。
かつては打ち倒すこと叶わず、封印するに留まってしまったが、同じ結末は二度も繰り返させなかった。
「そなたらと、そして……ぬしと出会えて、私は果報者だ」
「ああ。みんなのおかげで、この平和は訪れるんだ。だから――ありがとう」
『応っ!』
団結せし輝きが、極光に変わった。
色彩鮮やかな閃光は、赫き瘴気を完全に討ち破り、邪なる蛇を貫いた。
生命の息吹を受けた負は崩壊を始め、風化しながら朽ち堕ちるように霧散していく。
さらに光の輝きは漆黒の肉体を滅ぼすに留まらず、天空を覆う常闇の雲を振り払った。
包み隠されていた闇の向こうに、迎えいずるは澄み渡る青空。
絶望に覆われていた人々の心まで晴らすように、陽の下の光明が下界を映す。そして季力の余波によって、枯れ果て死の大地と化していた封節の森に、深緑の新しい芽吹きが見え始めたのだ。
これが邪なる蛇との完全なる決着であることを知る者は、留包国にはまだいない。
しかし、その空を見た者たちは、希望という光の彼方を、たしかに見届けただろう。
これを成し遂げた六人の勇士たちは――
「さあ、還ろうぞ。私たちのあるべき場所へと」
光の柱に包まれながら、それぞれの居場所へと還っていくのだった。
【続】
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