あくびの隨に 11話
前回
「よもや、これまでか……」
蛇の猛追に槍が折られ、透非は膝をついていた。
何とか子供たちだけでも遠くに逃がしたが、己が身を引くだけの体力はもう残っていない。
観念してその場で動かない透非を、大蛇は打ち取れると確信したようだ。
透非との戦いでぼろぼろの総身を引きずり這う。
二先の舌を出し、獲物を値踏みするような眼差しで透非を見定めてから、土蛇は大口を開いた。
「無念」
死を覚悟した透非。
しかし――そこに、一縷の希望が舞い込んだ。
「――突きが駄目なら、他の技を」
少し離れた位置に、一本の長槍を携えた逸流がいた。
両手で持った槍を肩に担ぎ、それを振り上げようと必死に態勢を整えるが、重心が崩れて足元がおぼつかない。
透非は知らないことだが、誓約のかけられた逸流は移動に制限があった。
槍を前に向けて突き出すという動作をしようとすると、金縛りにあったように全身の動作が利かなくなる。
そのため、切っ先を正面に向けずに行動する必要に駆られていた。
「逸流殿……」
なぜ彼がそこにいる。
早く逃げろ――そう言いかけて、透非は目を見張った。
逸流が握っていた槍に、透非は見覚えがあったのだ。
それは先祖代々の槍術を治めた秘伝書に記載されていた、失われし奥義の欄で使用されていたものと非常に酷似している。
突きの禁じ手、季力の放出――などと得体の知れない内容が数々あったが、その全ては透非の頭に叩き込まれていた。
もしこれが運命の巡り合わせだとすれば、透非はあの槍に活路を見出す。
逸流に向けて、槍術の極意を進言した。
「突きならざるとき、光の薙ぎを置いて断てぬものは無し!」
「え――そうか」
逸流は透非の言葉の意味を、直感的に理解した。
構える姿勢は水平に、槍の中心を持って重心を整える。
殺気めいたものを感じたように、透非を食らうはずだった大蛇が、はたと逸流の方を見やりながら鋭く牙を剥いた。
その判断は、とても正しかった。
されど腐土の土塊に、定められた運命を覆す力はない。
「これで……どうだっ!」
逸流は勢いをつけて身をよじり、鶴首を鋭く薙ぎ払った。
遠心力に身を任せ、横薙ぎに振られた刃から光が灯る。
邪なる蛇の弱点が季力ならば、その末端である腐土の権現がこれに耐え得る道理はない。
季力を乗せた斬撃が、土くれの寄り集まった蛇をめがけて虚空を舞った。
疾風の如く、大蛇の身を切り裂く一撃。
斬、と断たれる土頭が胴体を零れ落ち、その全体をくまなく季力が巡る。
崩壊の始まった身体は、光の亀裂を迸らせて、眩いばかりの閃光とともに弾け飛んだ。
塵芥にもなれず、夜風に舞うことすら許されないまま、浄化の光によって腐土の権現はこの世から抹消されていく。
「はぁ、はぁ……ぜ、全身から、持ってかれた」
肩で息をしながら、逸流は堪らず尻餅をついていた。
槍を地面に置き、ぜえぜえと呼吸を乱して星空を見上げる。
満天の空にはやはり雲一つなく、それが逸流の守り通したちっぽけな、されど美しき一つの情景であった。
「藻美!」
透非は真っ先に、平野に倒れる娘の下に走った。
そこには、逃がした子供たちがすでに集まっており、藻美の様子を気にかけている。透非も混じって様子を窺うと、騒ぎに気付いた藻美はかぶりを振って起き上がった。
「い、てて……ちくしょう、あの野郎――って、おっ父! それにお前ら、腐土の権現はどうしたんだよ! こんなとこで、よっ溜まってる場合かっての!」
「この馬鹿娘が……」
透非は藻美の身体を固く抱き締めた。
半ば呆然とする藻美は、父の震える身体を感じて事の次第を悟る。そして己もきつく抱擁を返しながら、透非の耳元で呟いた。
「勝手な真似して、ごめんよ……おれは、おっ父の力になりたくて……」
「何も言うな。儂には全て分かっている」
親子の絆と言うべきか、二人の間にそれ以上の言葉は必要なかった。
町の方角からも歓声が上がり、逸流はほっと胸を撫で下ろす。ひとまず身体を起こしながら、周囲の状況を改めて確認しようと首を回した。
そのときだった。
「と――透非さんっ!」
逸流の呼びかけに、透非が素早く反応を示す。
とっさに子供たちを押し倒し、己が身を前に曝け出した。
鈍い音が響く。
「あ……あぁ……」
藻美が唇をわななかせ、無我夢中で手近にあった他の子供の槍でそれを突いた。
「死ね、死ね、死ね、死ね……っ!」
怨嗟を込めて、藻美が貫くは人型の頭部。
まだ残存していた腐土の権現が、草陰から現れたのだ。そしてその手に握られていたのは、地面に落ちていた誰かの折れた槍。
これが無常にも、透非の胸を貫いていた。
「おっ父!」
腐土の権現を土塊に還した藻美が、すぐさま透非の胸を抜ける槍に手をかける。
「抜くでない。出血多量で疾く死んでしまうぞ」
いつの間にか近くまで来ていた稲が、藻美の行動を制止した。
「だ、だけど……このままじゃ、おっ父が……」
藻美の腕に抱かれる透非は、口から血を流して虫の息だった。
けれど、涙ぐむ藻美の目元を指で拭いながら、逸流と稲に目を向ける。
「はは……どうやら、儂は……貴殿らの助けに、なれそうもない……」
「そ、そんなこと今はどうだって良いです。それより早く手当てを!」
逸流は反射的に訴えるが、もはや透非が助かる見込みはなかった。
「嫌だよ、おっ父! こんなの……こんなの嫌だ!」
藻美から溢れる大粒の涙は、透非の指では抑えきれないほどだ。
誰もが絶望を感じながら、稲だけは双眸を細めて透非を見つめ、静かな言葉をかける。
「……肉親を残し、一人旅立つ気分はどうだ?」
「これは、手痛いことを……しかし、そうさな……父は、母とは違うものよ……」
稲の台詞を最後の問いとするように、透非は微笑みながら言った。
「母は子のため、生き抜くだろうが……父は違う……愛した女と、子を天秤にかける……そんな軟弱な生き方しかできぬ……不器用な生き物なのだ……ぐっ」
喀血する透非は、力を振り絞って藻美の頭を撫でる。
「お前は、強い子だ……信じているぞ、藻美……」
「おっ父……」
「そして、逸流殿、稲殿……貴殿らに、平和を……託、す…………」
持てる全てをこの場に残し、透非は静かに息を引き取った。
あとから町の者たちが駆けつけてくるが、そこには癒されない悲しみを背負う藻美と、師匠を喪った子供たちの泣き声だけが取り残されていた。
逸流は稲に肩を支えられて、彼らから少し距離を置く。
先ほどから、異常なほどの眠気が逸流の身を支配していたのだ。
「まずい……眠り、そうだ……」
「季力を行使した影響だ。その負担に肉体が耐え切れず、休息を欲しておる。けれど一度でも眠ってしまえば、ぬしは贄として呼ばれ命を落とすであろう」
稲の台詞を、逸流はぼんやりした頭で聞いた。
もたらされる虚ろな感覚。
口をついて催されるものを覚えて、逸流はとっさにそれを阻害した。
あくびを噛み殺したのである。
すると、いつしか意識は夢現。
天地がひっくり返ったように己の居場所を見失い、逸流はじんわりと瞼を閉じて――
「さりとて、案ずるな。〝六道網羅〟の道程は、未だここに始まったばかりである」
最後に稲の穏やかな響きに誘われて、逸流の意識は完全に途絶えるのだった。
【続】
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