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上手く話すことはできない、けれど。

仕事がお休みの日に、noteで記事を書くことが習慣になってから、数ヶ月がたちました。

"書かなきゃ"という義務感をもつと、書くことが楽しくなくなるから、投稿する頻度は決めないでいようと思っていたのですが、お休みの日が近づくと"今度は何について書こうかな?"と、わくわくしながら考えている自分がいます。

自分が考えていることや好きなことについて語る文章を書きながら、いつも不思議な気持ちでいました。
わたしは、自分自身の気持ちを表現するのが苦手なのだと、これまでずっと思ってきたからです。

ですが、表現すること、それ自体が苦手なのではなくて、"自分の気持ちを話して伝えること"が苦手なのだと、noteで文章を書くことを通して気がつきました。

考えながら話す、ということがわたしにはスムーズにできないのです。
話すときは、文章をすべて頭の中で組み立ててからでないと、ことばを発することができなくて。

だから、質問に対して即答するのが難しいです。
考え込んで相手を待たせてしまうのが申し訳なくて、あたりさわりのないテンプレートのような答えを差し出してしまったり。

はたまた、相手のことばに対して違和感を抱いて、"それはちょっと違うんじゃないかな?"と思っても、その場でうまく説明できなかったり…。

相手の期待する返事を予想して、それに沿う発言をすることや、自分を否定されることが怖くて本心を隠す、なんてことも、過去にたくさん経験しました。
コミュニケーションが上手く取れず、傷つくのを恐れて、人と深く関わり合うのを避けてきた自分がいます。

思えば子どものころは、心の中で考えていることが多すぎて、その全てに適切なことばを見つけることができなかったのだなぁ、と思います。
見つけられないもどかしさ、なんとかそれをことばにしても相手には上手く伝わらないという寂しさ。
そんな気持ちも自分の中に仕舞い込んでいました。

特に学校では、話したい気持ちはあっても、声に出せないし、自分から人に話しかけることもなかなかできなかったのです。
やっとの思いで話し始めても、声が震えてしまって、
"どうしてみんなと同じように、ふつうに話すことができないのだろう"と長年の間、思っていました。

でも、文章を書く、というかたちでなら、自分のペースで、気持ちをかたちにすることができます。
実際に書いている時間よりも、気持ちのひとつひとつを見つめて、それにしっくりとなじむことばを探している時間のほうが長いです。
ことばの温度や手ざわり、色合いを確かめながら、手のひらで掬いとり、そして並べていく。
それは穏やかで、自分にとって大切な時間。

好きなことや、素敵だと思ったことを文章にするとき、自分が美しいと感じたものを、ただ美しいとことばにするだけのことが、こんなにもうれしいことだなんて、今まで知らなかった、と思います。

そうして書いたつたない記事に、丁寧に感想を述べてくださる方が存在する、ということに、何度でも新鮮な驚きを感じるのです。

自分の内側に眠っていたことばや、口に出した瞬間にこぼれおちて、そのまま降り積もっていた思い。
それらをひろいあつめては、外の光の下に置いて、ただひとりで眺めているのを、"こんなふうにも見えるし、あの部分も光っているよ"と、別の視点からわたしの文章を見た誰かが、そっと指し示してくれる。
noteで記事を公開していると、そんな瞬間にたびたび出会います。

つたなくて、ときにいびつなかたちになってしまっても、表現しても大丈夫なのだと知った今、"上手に話そうとする気負い"は、もう手放しても良いのかな、と思えるようになりました。

目の前にいる相手に、思ったことや感じたことを、素直にことばにして差し出すこと。
書くようには、きっと上手くできません。
それでも、すこしずつ、できることを積み重ねていった先にひらけていく光景を、見てみたいと思うのです。

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