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書くとき、話すとき。ことばと思考のリズム

先日、職場で商材の納品にこられた業者さんに対して、
"ありがとうございます。おおきに"とあいさつをしました。
その場にいた上司の方から、「夏樹さんは、もう立派な関西人やな」と声をかけられて、京都暮らしも7年目に入り、すっかり京都弁にも馴染んできたなぁ、と思ったのです。

大分県で生まれ育ち、子どものころは学校でも自宅でも大分弁で話していました。
ですが、母親は大阪出身で、暮らす場所が変わっても大阪弁で話していたため、関西のイントネーションが身近にある環境。(大阪と京都では微妙な違いがありますが)
その影響もあり、京都弁をすんなりと受容れることができたのだと思います。

初対面の方から京都の人だと思われることも多く、京都出身の方が聞いても、わたしのイントネーションに違和感をいだくことも無い様子。

"大分弁が出ることってもうないの?"と上司の方から聞かれたのですが、不思議とないのですよね。
心の中でひとりごとを言うときにも、京都弁のことが多いかもしれない。
でも、文章を書くときのわたしは、大分弁も京都弁も使わないのです。

noteを書きはじめたばかりのころ、今の自分が話すように書きたいな、という思いがあって、文章に京都弁をまじえることもあったのですが、それだとなんだかしっくりこない。
なんでだろう…、といくつもの記事を書きながら考えていたのですが、使うことばによって、思考のリズムがちがうのかもしれない、ということに思いあたりました。

京都弁で話したり考えたりするときは、アクセルを強く踏み込んでいるような感覚があるのです。
明るくて強気で、スピーディーなイメージ。

たとえばわたしには小さなことで思い悩んでしまうくせがありますが、京都弁で考えるとちょっとそのくせが弱まるのです。
"あかんわ。どないしよ"となっても、"まぁ、考えててもしゃあないし、どうにかなるか"と、わりとすぐに切り替えられるのですよね。
だから職場で働くときは、京都弁をフルに使って話すほうが、てきぱきと作業が進められる。
ことばに思考や行動が引っ張られる、と言えば良いのかな。ちょっとかけ足になるイメージです。

文章を書くときには、あえてゆっくりじっくりと考えを
進めたい。ひとつのものごとについて、自分がどう思うのか、時間をかけて観察して、その気持ちにあてはまることばを探す。
ゆるやかな足どりで、まわりの景色をしっかりと見ながら、歩いていくような感じです。

そのときに自分の心の中に浮かぶことばをかたちにするときは、"ですます調"でひらがなが多い文章のほうが、思考のリズムに歩調が合うなぁと、感じるのですよね。

無意識のうちに使い分けていたわけですが、こういうことかな?と結論に思いいたったとき、自分の新しい側面に出会えたようなおもしろさを覚えました。

人は日々変わりゆくものだから、今は書くのが心地よいと感じている文章のかたちやリズムも、次第に変わっていくのだろうなぁ、と思います。
そう思うと自分の文章も、さまざまなnoterさんの文章も、今しか無い一期一会のものなのだと、あらためて感じるのでした。








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