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だから、今日も書いて生きていく

「細部に宿る」
新刊が読める、というだけでもうれしいのに、題名を見て、さらにうれしくなる。
そんな喜びを感じながら手に取ったのが、京都在住の文筆家、梶谷いこさんの本です。


カバー写真にも心を惹かれます。


梶谷いこさんの著作の中で、わたしがはじめて読んだのは、「『恥ずかしい料理』制作日記」です。
誠光社(京都市内にある独立系書店)で平台に並べられているのが目に留まり、全く未知の書き手であるにも関わらず、冒頭の数行を読んで"これは読まなければ"と思い、レジに向かったのでした。
(レジには、その本の後記を書かれた店主の堀部篤史さんが立たれていて、なんとなく緊張しながらお会計をしたのを覚えています。)

「『恥ずかしい料理』制作日記」で綴られたのは、いこさんの2020年3月から12月にかけての日々の記録です。
会社員として働きつつ、本の制作を進めていく日々のなか、コロナ禍で社会の情勢は刻一刻と変化していきます。
そんな日々を見つめるいこさんの目には曇りがなく、ときに率直すぎて読んでいるこちらが戸惑ってしまうほどヴィヴィッドな感情を織り交ぜながら綴られていく日記に、思わず引き込まれてしまいました。

手を触れたら血が滲んでしまうような、心の痛みさえもまっすぐに綴る文章。それなのにどこか明るさも漂うのは、いこさんの意志の強さが、ことばに光をもたらしているからなのでしょう。
また、いこさんの職場と、当時のわたしの職場が近かったようなので、きっとどこかで(八百一本館や、烏丸三条の大垣書店で)すれ違っていたのだろうな、なんて思いながら読み進めました。

「細部に宿る」には、2022年の年末から2024年の春までの間に書かれたエッセイが収録されています。
題名に記された通り、毎日の生活の中で、細部に目を凝らしながら紡がれていったエッセイの数々。

すこしづつ、ゆっくり読み進めようと思っていたのですが、気がつけばあっというまに読み終えてしまっていました。
本を読むとき、気になった文章のあるページの端を小さく折るのですが、「細部に宿る」で折り目をつけたのは、たとえばこんな箇所。

本は窓になる。背表紙の文字を端から目で追って手に取り、ページをめくると意識はもう窓の向こう側に移動している。体を動かさなくても、歩き回らなくても、本を開くだけで目の前の景色が変わる。それは体を動かすことより更に深い回復になり得る。

"昼休み"より

そこにあることも気づかなかった扉が、突然開いた。
今まで、「書く」ということについてほとんど何も知らなかったことにようやく気づいた。書くこと、それだけでなく見ること、感じること、息をすること。知らないうちにねじ伏せていた。禁じていた。それを発見した。

"文筆家"より
「細部に宿る」梶谷いこ

読むこと、そして書くこと。
結局のところ、わたしの興味はそこに収斂されていくのだなぁ、なんて苦笑いをしつつも、ここに書かれていることは、自分の身体感覚と照らし合わせて、とても腑に落ちる、と感じました。
特に書くことについての文章は、畳みかけるような表現に、新しい光景に出会った瞬間の心の喜びが強く感じられて、息を呑んだほど。
わたしなら、"抑制して"と表現するところを、"ねじ伏せて"ということばで表す、いこさんの踏み込み方に、圧倒されたのも事実です。

"いこさんも、書くことで救われたのかな"
書くことで救われるというと、大げさに聞こえるかもしれませんが、でも、そう感じられる瞬間は確かにあります。

書くことで心の存り方は変わる、と思うのです。
心の存り方が変わると、世界の視え方も変わる…というのか、解像度が高くなっていくように感じられるのですよね。
今までは、自分の目の前を見るのに精一杯だったのが、書くことで視界がひらけていって、心に余白も生まれたからか、呼吸が楽になっていく感じです。

だからこそ、書くという表現を選んでよかった、と思うのです。

いこさんもまた、以前よりも伸びやかに、そして深い呼吸をしながら文章を綴っているのを目にして、眩さを感じました。

生きていくのはいろいろと大変だけど、同じまちで、今日も台所のシンクを磨いたり、本を読んだり、文章を書いたりしながら、いこさんも生活をしているのだ。 
そう思うと、心強い味方を得たような気持ちになれるのです。

今回ご紹介した2冊は、どちらも私家版の本です。
「『恥ずかしい料理』制作日記」は、現在入手困難のようですが、「細部に宿る」は実店舗とオンライン書店で販売されています。
取り扱い書店一覧は、梶谷いこさんのホームページで確認できます。

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