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【小説】連理の契りを君と知る episode3「夏の手紙」

←episode2「文字は口ほどに物を言う」

≪あらすじ≫
開国から半世紀ほど経ち、この国にもすっかり西洋の文化が染み渡り始めた頃のお話。

風邪で寝込む誠一郎のもとに、ファンを名乗る娘・琴子がお手伝い志望として押しかけてきた。
彼女のことで誤解されてしまい、椿月から「もう会いたくない」と言われてしまう。
どうしたら許してもらえるか思い悩む誠一郎。

そんな時、劇場ではある事件が起こり、椿月が追い詰められてしまう。
さらに、琴子には秘密にしていた過去があって――



――どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 誠一郎は朦朧(もうろう)とする意識の中で考える。

 心臓が鉛のように重い。ため息すら絞り出せない。すべてを呪いたくなるような沈んだ気持ち。

 椿月から投げつけられた、冷たい拒絶の言葉が頭をめぐる。

 時間を少しさかのぼる。

 季節は夏の盛り。強い日差しが大地を熱し、木々や建物が落とす影は一層色を濃くしている。至る所で蝉が鳴き、氷売りの後ろを子どもたちがついて歩く。人々のまとう着物の生地も薄くなり、民家の軒先では風鈴がよく目につく。

 そんな時期に、駆け出しの小説家・深沢誠一郎は、性質(たち)の悪い風邪にかかっていた。

 割れるような頭の痛みと、悪寒で真冬のように震える身体。それでも頭と顔は燃えるように熱い。

 物心ついた頃から、大抵の体調不良など放っておいても時間が経てば治っていた。こんなに具合が悪くなることなど、彼にとって恐らく人生で初めてのことだった。

 廊下をまっすぐ歩けなくなり、ついには支えなしで起きていることができなくなったとき。彼は仕事をすることを諦めた。

 それでもまだ、適当に横になっていれば治るだろうという、根拠のない自信があった。これまで体調を崩したことがほとんどないので、こういうときの判断や対処について知識も経験も乏しいのだ。

 まだ風邪をひきはじめてすぐの頃。今のように寝込んでしまう前に、神矢が家にやってきた。

 スラリとした体躯に、垂れ目に吊り眉の整った顔。洒落た服装と、ふわりとした髪質を生かして決まっている髪形。見目麗しい彼・神矢辰巳は、今人気の美形舞台俳優だ。

 椿月を通じて知り合った彼は意外にも結構な読書家で、古いものを中心に大量の本が保管されている深沢家に、たびたび本を借りにきていた。

 誠一郎の家は、一人暮らしの借家としては非常に不似合いな広さを持つ平屋の木造一軒家で、本棚だけが無秩序に詰め込まれた本専用の部屋がいくつもあった。

 その広さの代わりと言うべきか、彼の借家は驚くほどに古く、様々なところにガタがきている。雨漏りは絶えないし、冬場の隙間風はふさぎきれたことがない。板張りの廊下は歩くたびにミシリミシリと不安になるような音を立て、大人の男二人で歩くなら十分に距離を空けようと思えるほどだった。

 借りていた本を返し、また新しい本を何冊か借りていく。深沢家を貸し本屋のように利用したあと、どう見てもフラフラして様子のおかしい誠一郎に対し、神矢は「医者にかからなくていいのか?」と当然の問いかけをした。

 誠一郎は「そこまでではないですから」と、熱を帯びた赤い顔で返した。

 神矢から見ると、もうその段階まで行っているように思えたのだが、本人がそう言うのなら外野がとやかく言っても仕方がない。肩をすくめて、「ま、夏風邪はこじらせると大変って言うからな。気をつけろよ」と忠告するに留めた。

 誠一郎の予想に反して、というべきか、神矢の予想通りというべきか。誠一郎の体調は一向に良くならなかった。

 熱で頭は熱いやら、身体は悪寒で寒いやら、それでも夏で暑いやらで、どうしたらいいのか、どうしたいのか自分でも分からない。

 もういよいよ医者の世話になった方がよいのではないかと、遅まきながら布団の中でぼんやり考えはじめた頃のことだった。

「ごめんくださーい!」

 誰かが訪ねてきたようだ。玄関の方から声がする。

 起き上がるのもしんどいくらいなので、悪いが無視をしようと思ったのだが。

「ごめんください! ごめんくださーーい!」

 声は止まない。むしろ激しさを増している。

「小説家・深沢誠一郎先生のお宅ですよねー? 深沢せんせーい!」

 家の前でこうまでわめかれたら、這(は)ってでも玄関に行くしかない。

 だるい身体に鞭打ち、今ばかりは借家の無駄な広さを呪いながら、壁づたいに玄関にたどり着く。

 なけなしの力を振り絞り、玄関の戸をガラガラと横に引いた。

「……どちらさまですか……」

 力なく尋ねる彼の前に立っていたのは、見覚えのない若い女性だった。

 背も低く幼げで、女性と言うより少女と言ったほうが近いかもしれない。きっと椿月と同い年くらいだろう、と誠一郎は思った。

 縦縞模様の入った朱色の着物。黒々しいおかっぱがスパッと肩の上で切られ、まっすぐな横線をえがいている。

 まず彼女は深く頭を下げた。

「突然の訪問をお許しください。わたくし、宮山 琴子(ミヤヤマ コトコ)と申します」

 続いて頭を上げると、まじめな顔をしてこんなことを切り出してきた。

「いきなりではございますが、わたくしを先生のお手伝いとして、ここに置いていただけませんでしょうか」

 壁に身を寄りかからせてなんとか立っている誠一郎には、彼女が一体何を言っているのかさっぱり分からなかった。

 とにかく断りの言葉を口にする。

「……そういうのは……必要ない、ので……」

 息も絶え絶えにそう言い戸を閉めようとするも、琴子はその手をパシッと制する。

「いいえ、そうは参りません。わたくし、先生の名著『恋情語り』を読み、これまでにない感銘を受けました。琴子はこんな素晴らしい作品を生み出される先生の創作活動をお助けしたい、お役に立ちたいのでございます!」

 誠一郎は、身体的にも精神的にもめまいがした。彼女の言っていることが断片的にしか分からない。

 外から差し込む夏の強い日差しは、彼のわずかな体力を容赦なく削り取る。

 どう断ろうか考えているうちに、気づくと身体は自然と壁づたいにしゃがみこんでいた。

「まぁ、フラフラではありませんか! 琴子は執筆などに関しては詳しくはありませんが、お料理にお掃除に、家事がとても得意なのです。なんでもお任せください!」

 何かを言おうと、誠一郎は口を開いたはずなのだが、声にならず言葉が消える。

「お話はあとで聞きます。今はお休みになってくださいね」

 もう追い返せるような気力も体力もなく、強引に家に上がられてしまった。そのまま気が遠くなる。

 次に誠一郎の意識がはっきりしたときには、いつの間にか布団の中にいた。最後の力を振り絞り寝室にたどりついたのだろうか。

 傍には水差し、頭には氷嚢がある。こんなものを用意した記憶はないのだが、と不思議に思ったとき、おいしそうな食べ物の匂いが漂ってきた。よく考えると、彼はここしばらくまともにものを食べていなかった。

 そして、ふと思う。あれ、なぜ食べ物の匂いがするのだろう。

 すぐに思い出した。ああそうだ、見知らぬ娘が勝手に上がりこんできたのだ。

 誰だか知らないがとにかく早く彼女を追い返さなければ、と思うのに、身体が動いてくれない。まるで自分の体重が倍になったかのように、頭も身体も重い。

 もうしばらくしてから、動こう。誠一郎は仕方なくそう諦めることにした。

 今はただ、この身体の苦痛に耐えるほかない。

 誠一郎がそう意思を固めた頃。

 彼の家を目指す、もう一人の人物がいた。

 夏を意識した涼しげな浅黄色の着物に紺の袴を合わせ、長い下ろし髪に桃色のリボンを飾った若い女性。少女と女のちょうど中間くらいであろう彼女の名は、椿月と言った。

 普通の娘のようでいて、近くをすれ違うと思わず振り返ってしまうような可憐さを持つ彼女は、神矢と同じ劇場で活躍する若手舞台女優である。劇場ではこの姿とは全く異なる大人びた衣装と化粧で身を飾る彼女だが、その美しさもまたもとの素質ゆえだ。

 頭の真上から降り注ぐ夏の日差しが、彼女の陶器のような白い肌に長いまつげの影を落としている。

 けれど、そんな強い日差しも気にならないほど、椿月は胸をドキドキさせていた。住宅の並ぶ細く入り組んだ道を、メモ書きを頼りに歩く。

 そのメモ書きを彼女に渡したのは、神矢だった。

 彼はこう言ってこのメモ書きを渡してきた。

『深沢センセーがさ、風邪ひいて寝込んでるみたいなんだわ。一人暮らしだし、体調悪くちゃ色々大変だろ。椿月が会いに行ってやったら、熱なんて吹っ飛ぶと思うけどな』

 からかうように薄い笑みを浮かべながら、そう言われた。

 誠一郎とはもう何度も一緒に外出しているし、よく話してはいるが、彼の家に行ったことは一度もない。

「私が会いに行ったら、熱なんて吹っ飛ぶ……か。本当かな」

 そうつぶやいてみてから、椿月は緊張を静めるようにそっと頬に指先を添えた。

 別に本気でそんな風にすぐ元気になるとは思っているわけではないけれど、そう言われたら会いに行きたくなる。

 それに、その体調不良ゆえ誠一郎はしばらく劇場に姿を見せていない。ということはすなわち、椿月は彼と全然会っていないのだ。

 久々に会うこと、初めて家に訪問すること、しかも事前に何の約束もしていないこと。それらが入り混じりドキドキしていた。

 それと、きっととても具合が悪いんだろうからしっかり看病してあげなくちゃと、椿月はそれに関しても緊張していた。

 正直、子どもの頃から演劇のことばかりで、料理など家事には自信がない。見栄も十分に込めた上で、なんとか人並みと言えるくらい。

 それでも彼のために頑張ってみようと、食材や看病の道具を用意し、洒落た萌黄色の風呂敷で被われた重そうな竹編みのかごを提げていた。

 これを仕組んだ神矢としてもきっと、いきなりの椿月の訪問に驚きと喜びで慌てふためく誠一郎が面白いだろうなとか、この手配で後々何か自分に有益になるようなことがあるんじゃないか、などと思っていたのだろう。

 だが、事態は思わぬ方向へ向かってしまう。

 椿月は神矢のメモ書きから家を見つけることができた。表札を確かめ、神矢の書いてくれた外観の特徴とも一致することが分かると、「ごめんください」と声をかけた。

 反応はない。それは想定のうちだった。具合が悪いなら奥の部屋で眠っているはず。椿月はガラガラと戸を引いて、遠慮がちに中に入った。

 奥の方に向かって声を投げかける。

「……誠一郎さん、聞こえる? 勝手に上がってごめんなさい。お邪魔していいかしら」

 返事はない。

 だが、そんなことよりも。強い違和感がする。

 寝込んでいる彼一人しかいないはずの家から、食事の用意をするいい匂いと、歩き回るような軽い足音がする。

 おうちを間違えたかしら、と不安になった椿月が、もう一度彼の名前を呼ぼうとしたとき。

「はーい! あっ、失礼いたしました。お客様でしたか」

 台所の方から姿を見せたのは、自分と同じくらいの年頃の割烹着姿の若い女性。

 椿月は目を丸くした。

「あっ、あの……こちらのお宅は、深沢、さんの家……ですよね?」

 パシパシと長いまつげを揺らし、戸惑いのまばたきを繰り返しながらそう尋ねる。

「はい、その通りでございます。わたくし、深沢先生のおそばで身の回りのお世話をさせていただいている、琴子と申します」

 当たり前のようにまじめな表情でそう語り、膝をついて深く頭を下げる彼女。

 椿月はあまりの衝撃に、言葉を返すことができなかった。様々な思考が一瞬で駆け巡る。

 衝撃と混乱の後には、悲しみを超える怒りがわいてきた。

 同時刻。

 床に臥(ふ)していた誠一郎の朦朧とした頭に、うっすら聞こえた声があった。

「誠一郎さん……」

 椿月の声だ。会いたい気持ちが彼女の幻聴までも生んだか、と思ったが、すぐに違うと気がついた。これは紛うことなき、現実に聞こえる彼女の声だ。

 彼女がここにいるわけがないのにどうしてだろう、とぼんやり思った次の瞬間に続いた声に、誠一郎の思考は凍りつく。

 「はーい!」と返事をする女の声。

 もう腕をあげることすら自分の意思ではままならなかったはずなのに、自分の限界を超える何かが働いて、誠一郎は跳ねるように飛び起きた。

 何度も壁にぶつかりそうになりながら、実際に何度かぶつかりながら、玄関に飛び込んだ。

 寝巻き姿のままフラフラで飛び出してきた彼の目に、間違いなく写る、椿月の姿。自分のぼろ屋には非常に不似合いな、花のように麗しい彼女。

 でも、いつもと決定的に違う点がある。

 いつも自分に笑いかけてくれる彼女の頬は冷たく凍りついていて、その優しいほほ笑みをもたらさない。

 琴子と相対していた視線を彼に移すと、椿月は軽蔑の眼差しとともに一言だけ告げた。

「さようなら」

 そのまま、ガラガラピシャン、と力任せに激しく戸が閉じられ、椿月は早足で出て行ってしまった。

 見たこともない彼女の冷たい目と、聞いたこともない彼女の冷たい言葉。誠一郎は自分の心臓が一気に温度を無くしたような気がした。

「待ってください!!」

 履物もはかずに、反射的に家から飛び出した。

 普段の彼ならともかく、今は高熱とめまいにさいなまれ、しばらくまともにものも食べていない状態だ。どれだけ本気で走っているつもりでも、全然彼女に追いつけない。

「椿月さん、話を聞いてください……!」

 必死に声を絞り出す。

 早足で進んでいた彼女は振り返ると、

「来ないで」

 と、冷たく言い放った。

 誠一郎は、本当にそうされたわけではないのに、まるで突き飛ばされたかのようにそれ以上前に進めなくなる。

 椿月はそのまま一度も振り返ることなく去って行った。

 夏の熱気のいたずらか、はたまた自分の体調不良ゆえか、かすむ彼女の後姿。誠一郎はフラフラとその場に座り込んだ。

 完全に誤解されてしまった。どうしよう、なんということを。朦朧とする彼の意識に渦巻く激しい後悔。

 でも、吐き気までしてきて、もう一歩も動けそうになかった。混濁する自分の思考が、セミの合唱の中に溶けていく感覚がする。

 しばらくすると、いきなり履物もはかず飛び出した誠一郎をあわてて追いかけて、琴子がやってきた。

「深沢先生、お履物をお持ちしましたけど……」

 そう声をかけるも、激しく落胆している彼の姿に琴子は戸惑いを隠せなかった。

「椿月さん……」

 琴子が来たことなど全く気づいていないのか、誠一郎はつぶやくように椿月の名を口にすると、そのまま意識が途切れた。

 琴子一人では気を失った彼を運ぶことなどとてもできず、近所の男手を借りてなんとか家に連れ帰った。

 その後、誠一郎の病状は更に悪化し、まともにものも食べられないほどの高熱で丸三日寝込んだ。

 琴子が慌てて呼んだ医者には、「こんなひどい風邪で、しかも空腹で栄養不足の時に、真夏の真昼間、全力疾走などすればこうもなる」とすっかり呆れられていた。


 誠一郎が再び劇場に向かうことができたのは、あれからいつの間にか居ついてしまった琴子の制止を振り切れるほど、体力が回復してからのことだった。

 その頃にはもう、あの日から一週間以上が経ってしまっていた。

 しばらくの療養生活ですっかり体力と筋力が落ち、いつも普通に歩いているはずの劇場までの道のりで息が上がってしまうほどだった。

 しかし、それより何よりもショックだったことは、椿月への取次ぎを拒否されてしまったことだった。

 以前の事件で面識を持った館長から、申し訳なさそうに、「すまないね。椿月が君に会いたくないと言うんだ……」と告げられた。

 ただの観客の一人に過ぎない彼がいつも関係者通路や楽屋まで立ち入らせてもらえるのは、椿月の客人であるからだ。

 「会いたくない」と言われても仕方がない事態なのだとは分かっているけれど、諦めがつかない。

 どうしようかと困っていつかのように廊下をさまよい歩いていると、神矢に声をかけられた。

「よぉ。来ると思ってたぜ。何があったのか教えてくれよ」

 いつもと変わらない薄く笑うような表情の下で、誠一郎と椿月の間に何かがあったことを察しているようだった。

 人気俳優として舞台に出ずっぱりの彼だが、昼公演と夜公演の間のわずかな休憩時間を割いてくれた。

 神矢ははじめ、劇場内にある関係者専用の食堂で話そうと誘ったのだが、誠一郎は「もし椿月さんが利用していたら、僕がいると迷惑になると思うので」と断った。

 神矢は誠一郎のきまじめさに呆れつつ、ならば適当に外を歩こうと、二人は街中に出た。

 広い劇場敷地を囲う、赤茶色のレンガを積み上げた塀の外に出ると、すぐに繁華街が広がっている。昼下がりともなればその賑わいは顕著で、食事に買い物に、沢山のめかし込んだ人々が行きかっている。

 着古した着物と袴。いつから使っているかも覚えていないつば付きの帽子。地味な印象を増長させる銀縁の丸眼鏡。そんな誠一郎と共に歩く神矢の、なんとも洗練された身なり。最新の意匠がこらされた、海外仕込の仕立て屋によるスラックスとベスト。センスのいい、磨かれた革靴。糊の利いた真っ白なシャツに、胸から覗くスカーフの色が映える。

 歩いているだけで、すれ違う女性たちから手を振られたり、きゃあきゃあと黄色い声が聞こえる。単純に目を引く容姿の彼を見て騒いでいるだけの若い娘たちもいれば、彼が俳優の神矢辰巳だと分かって驚きの声をあげる婦人もいる。

 そんな神矢のそばにいれば、あらゆる男がただの通行人Aと化す。というより、そばに誰かがいることを認識すらしていない人も多いのではないだろうか、と誠一郎は思う。

 考えてみると、椿月と二人で街中を歩いているとき、誠一郎はよく視線を感じることがあった。

 椿月は普段の姿では女優だということは全く分からないはずだから、きっと人々は純粋に見目の優れた女性だからつい見てしまうのだろう。それは分かる。しかしなぜ自分までもが視線を集めるのか不思議だった。

 今思うとあれは、「なぜこのように可愛らしい娘が、こんなパッとしない男と一緒に歩いているのか」という疑問の視線だったのだろう。今まで特に意識したことはなかったが、そうした疑問を持たれるのも当然のことだろうと誠一郎は思う。

 でも。そうやって彼女の隣を歩くことも、もう叶わないのかもしれない。

 心が深く沈みはじめたとき、神矢が「歩きながらだけど、話してくれよ」とうながしてきた。

 誠一郎は口を開く。

「実は……」

 琴子という娘が押しかけてきたこと。体調不良で強く追い返すことができなかったこと。そんな時に椿月がやってきてしまったこと。

 話を全て聞いた後。神矢は片眉を上げて芝居がかったため息をついた。

「はぁ。気を利かせたつもりだったんだが、俺が思うようにはいかなかったわけか」

 少し責任を感じているのか、神矢は自分の額に掌を重ねる。

 チラと横目に誠一郎を見やると、

「椿月が心配するほど、センセーはモテたりしないのにな」

 と、わざと茶化すように言ってみせた。

 誠一郎はうろたえることもなく真剣に答える。

「それはその通りですが。でもやはり、お付き合いをしているわけではないとはいえ、椿月さん以外の女性を勝手に家にあげるのは問題でした。反省しています」

 その言葉を聞いて、神矢は「んっ?」と眉根を寄せた。

「ちょっと待ってくれ。あんたら二人って、付き合ってないのか?」

 怪訝な表情でそう尋ねる神矢に、誠一郎はなぜそんなことを訊くのかとばかりに不思議そうに言葉を返す。

「僕の認識ではそうですが」

 神矢はそんな彼の顔をじっと見る。誠一郎は首をかしげた。

「うん、まあ……いいや。これ以上この話をしてると頭が痛くなりそうだ」

 そう言って神矢は指先で眉間を押さえた。

 心の中では、「いい年をした大人の男が、まるで子どものようなことを……」というセリフがめぐっていたのだが、神矢の善意で喉から下に押し込まれていた。

 しかし、神矢がそう思うのも仕方がないことなのである。

 誠一郎はもともと他人にほとんど興味がなかったということもあり、これまでの人生で女性に惹かれたことなど一度もなかった。彼が知っている女性の名前など、椿月以外では親族くらいしか挙げられないだろう。これが初めての、そしてかなり遅まきの恋愛感情だったのだ。

 神矢が自分の良心を総動員しているかたわらで、誠一郎はポツリとつぶやいた。

「……僕はもう、椿月さんに嫌われてしまったんでしょうか」

 誠一郎の思考をずっとめぐっているのは、椿月から告げられた「さようなら」と、「来ないで」という拒絶の言葉。

 当然執筆など手につくわけもなく。それでも作家としては書かなくてはならないのは分かっているのだけれど、「こんなことになっては、もう仕事などどうでもいい」という気持ちが頭をもたげているのも事実だった。

 今日、劇場に来てみて、取次ぎを拒否されてしまうともう会うことすらできない相手なのだということを、改めて思い知った。彼女との距離はあまりに遠く、こうなってしまうと二人はただの“舞台の上の人と客席の人”なのだ。

 目に見えて落ち込んでいる誠一郎に、神矢はこう言葉をかける。

「……どうでもいいやつのために、泣いたり怒ったり、女は心を動かしたりはしないぜ。怒るのは、椿月にとってあんたが重要な人物だからだよ」

 誠一郎は黙っていた。

 そう言われても、本当は怒らせたくなんか、悲しませたくなんかなかった。

 彼が深く考え込んでいると、神矢はふざけるように、

「センセーがそんなことなら、俺が本気で口説きにかかるけど?」

 といたずらっぽく口角を上げてみせる、が。

「……駄目だ、聞いてないな」

 誠一郎は深く思案していて、神矢の冷やかしなどまったく耳に入っていなかった。

 神矢は誠一郎の背を平手で打ち、意識をこの場に戻させる。

「で。その琴子って娘は一体何者なんだ?」

 誠一郎は咳払いで気持ちを切り替えて、説明する。

「彼女が言うには、いわゆるファンだそうです。上手いこと出版社の人間から住所を聞き出しでもしたのかと」

「ファンねぇ……」

 いぶかしむように片眉をあげる神矢。

「今はどうしてるんだ?」

「それが……」

 誠一郎が口ごもったことから全てを察し、神矢は目を見開いた。

「まだ家に通って来てるのか?!」

「……追い返したいのですが、言うことを聞いてくれなくて。強く言うと泣こうとするんです」

 困ったようにそうこぼす。

 それはまた面倒な女に捕まったな、と神矢は彼に同情する。

 誠一郎と神矢は街中をあてもなく歩いていたが、過ぎる時間は二人を自然と劇場の方へ戻す。

 神矢は誠一郎と会話しながらも、たまに手を振ってくる周りの女性たちにしっかり手を振り返し、どちらへの対応も完璧だった。誠一郎は神矢の器用さにただただ感心してしまう。

 劇場に戻り大きな正門をくぐると、建物正面口の混雑を避け、関係者専用口の方へ向かった。

 関係者通路に直結しているそこは、劇場に付属する出演者らの楽屋が並ぶ平屋に続いている。

 正面口より客の目につきづらく、付近には役者たちだけでなく舞台の裏方を務めるような人々の姿もちらほら見られる。

 誠一郎は椿月と会いたい気持ちはありながらも、向こうが「会いたくない」と言っている以上、会ってきまずい思いをするのは嫌だし相手にも申し訳なくて、遭遇を避けるべくぐるりと周りを見回した。

 すると、劇場裏手の方から駆け出してくる、いくつもの姿が目についた。

 それは細っこく身軽そうな少年たちで、手には色々な荷物を抱えている。竹ぼうきや雑巾などの掃除用具、ブリキのバケツに詰め込まれた縄梯子。劇場の備品を運んでいるのだと思われる。

 そんな中、最後尾を一生懸命走ってついていく、一人の少女の姿があった。

 お世辞にも走るのが早いとは言えない。そしてどう見ても、持っている荷物が一番多い。持っているというか、持たされているのだろう。

 誠一郎がそんな姿をふと目に留めたとき、少女は地面に足を取られて派手に転倒した。両腕にかけられていた沢山の荷物がぶちまけられる。

 少女は慌てて拾うが、なんだか妙にもたもたしていて、手際が悪い。

 誠一郎は見て見ぬ振りをすることができず、そばに寄ってその荷をまとめるのを手伝った。大きな二つのバケツの中に様々な荷物を詰め込む。

 荷物がまとまると、少女はそのバケツにそれぞれの腕を通し、重たそうに持ち上げた。

 最後に誠一郎をチラリと見上げ、ぺこりと頭を下げる。

「おい、早く来いよ! ノロマ!」

 少女は誠一郎に何かを言おうとしたようにも見えたのだが、先を行く少年たちの怒声によってその言葉は奪われた。もう一度頭を下げると、急いで駆け出した。

 いつの間にか黙って姿を消していた誠一郎を追いかけ、背後から神矢がやってくる。

 今の一部始終を見ていたようだ。

「あの子、知り合いなのか?」

 神矢が尋ねると、「いえ」と断った上で、

「でも、椿月さんにあの少女が話しかけてきていたのを覚えています」

 と説明を足した。

 以前に、椿月が熱心なファンの付きまといに困っていたときのこと。あの少女は椿月のことを心配してくれていた。誠一郎はそれを記憶していたこともあり、なんとなくあの子を放っておけなかったのかもしれない。

 なるほどね、と神矢が腕を組む。

「あの子、生まれつき片手の握力がかなり弱いらしいんだ。物の扱いが決め手になる芝居ってのは多いから、本当は舞台には不向きなんだが……役者になりたいっていう一心でここの手伝いをやってるらしい」

 まるで丸々人から聞いたような言い方だ、と誠一郎が思っていると、神矢は情報を付け足した。

「椿月があの子の熱意を買って、応援してるんだ」

 それを聞いて誠一郎は納得した。彼女自身もきっと苦労して女優になったのだろうから、共感する部分もあるのだろう。

 同時に、椿月とのことを思い出して、また心がぐっと重く感じられる。

「それにしても、あんな大荷物持たせることないだろうなぁ。ちょっと後であいつらに言っとかないとな……」

 神矢は苦々しい表情であごをさすり、あの少年たちへきつく注意することを決めたようだ。

「……あのくらいの年若い少年たちも、劇場では活躍しているんですね」

 誠一郎の言葉に、神矢は「ああ」とうなずいて話題を切り替える。

「この業界に興味があったり、単純に駄賃稼ぎだったり色々だけど。例えば、あの少年たちは特に縄梯子で作業するのが得意なんだ。子どもは細いし体重が軽いから、梯子が立てかけられないような狭いところでも軽々移動できて、役に立つんだよ」

 なるほど、と納得する誠一郎のそばで、神矢が懐かしそうに過去を振り返る。

「俺があのくらいの頃にはもう、近所のマダムたちから好かれていたな。よくお小遣いをもらっていたものさ」

 誠一郎は「マダム」という言葉を実際に使いこなす人を初めて見た。そして、昔から神矢はこのような感じだったのだな、と思った。

「センセーはどうだったんだ?」

 そう訊かれて思い出そうとするが、昔の具体的な記憶があまり出てこない。これまで読んだ本のことならよく思いだせるのだが。

「……暇さえあれば本とばかり過ごす子どもだったと思いますよ。おかげで、同級生だとか学校のことはほとんど覚えていません」

「なるほどね」

 そうやって過ごしていると口下手になるんだな、というセリフの後半部分を、神矢は口に出さなかった。

 人気俳優が自由になる時間は少ない。関係者口の前のところで、二人は別れることになった。

 誠一郎は神矢に、話を聞いてくれたことへの礼を言い、頭を下げた。

 神矢としては相談に乗るというより、単に興味本位で事情を聞いただけだったのだが、そう真摯に感謝されてしまうとなんとなくばつが悪い。

 今更ながら埋め合わせをするかのように、とりあえずの慰めの言葉を急ごしらえで用意する。

「あー……なんだ、まあ、今は、劇場の中も色々騒がしいから、会いに来られなくてもちょうどいいかもしれない。季節柄なのか、バカげた噂がまことしやかに飛び交ってるからな」

 神矢の間に合わせの理由に気になるところがあって、誠一郎は言葉を繰り返す。

「バカげた噂?」

 自分で口にしたことながら、神矢は仕方がなさそうに説明する。

「……言うのも恥ずかしいんだが、なんか、最近、劇場に悪霊だか座敷童だかがいるって噂になってるんだよ」

 その説明のあと、少し間が空いてから。

「……そうですか」

 なぜそのような意味の分からない噂がまかり通っているのだろう、とばかりに冷めた返事を返す。

 誠一郎は更に思う。悪霊と座敷童では、同じようでいて両極端ではないかと。

「その反応が正しいぜ、うん」

 神矢はその冷めた対応を肯定した。

 別れ際。最後に神矢は、いつもの薄い笑みを浮かべながらこう助言した。

「なあ。あんたはあんたのやれることで勝負するしかないんじゃないか? 俺はそう思うよ」

 自分のやれること。

 誠一郎はそのことについて深く考えながら、家路をたどった。


 琴子が自称“深沢先生のお手伝い”として毎日勝手に深沢家に押しかけるようになってからしばらく経ったが、彼女は一度も誠一郎が執筆作業に取り組んでいるところを見たことがなかった。

 彼女が見たことのある場面と言ったら、病気で寝込んでいるところか、縁側でため息をついているところ、一ページも進まない本を手に放心しているところくらい。

 あとは、琴子の姿を見つけるたび、「手伝いなどは必要ない。君にここにいられると困るので、帰ってくれないか」とは言われたが、彼女はそのたび上手いこと切り抜けていた。言葉巧みにその場を逃れてみたり、時には涙をうるませてみせたり。

 けれど。彼はある日外出から帰ってきたかと思うと、そのまま書斎にこもって机に向かいはじめた。

 頭を抱えながら何度も書いては、それを没にして、新たに書き直す。畳の上には、没になった紙たちが着実に領土を広げていた。

 本格的に創作に入った彼の生活は本当にひどいもので、ひたすら書き、書き疲れたらその場で横になって寝る。起きたらまたそのまま書く。その繰り返し。昼夜など関係ない。

 そんな日が数日続き、琴子がいつものように彼にお茶を出しに行ったときのことだった。

 彼女が部屋に入ると、いつもは「いい加減諦めてくれ」と言われるのだが、ここ最近は何も言われなくなった。というより、執筆に集中していて気がついていないのかもしれない。もしくは、もう言っても意味がないと悟ったのか。

 いずれにしても琴子にとっては、彼に馴染めたような気がして嬉しかった。このままなし崩し的にお手伝いとして正式に採用してもらえないか、そんなことを考えていた。

「先生、お茶を置いておきますね……」

 ほとんど飲んでもらえはしないのだが、いつものようにふすまからすぐのところに置いて去ろうとする。

 だが、室内は妙に静かで、琴子がこっそり中の様子をうかがうと、誠一郎が仮眠をとっていることに気がついた。

 琴子はファンとして彼の新作の小説に強い興味をいただいていた。好奇心が抑えられず、物音を立てないように書斎机に近づき、その上にある原稿らしきものを手に取った。

『――貴女の声が聞けない日々は何をしても味気なく、息をするだけでもつらい。思い出すのは貴女と交わした言葉の数々と、貴女のいる景色ばかり』

 また恋愛ものを描かれているんだ、と思い、琴子はワクワクしながら読み進める。

『――貴女を傷つけた僕の不誠実なふるまいを、どうか許してください。僕には貴女しかいません』

 あれ、と、夢中で文章を追う琴子の視線が止まった。その表情がだんだん神妙なものになっていく。

 これは原稿ではなく、彼の個人的な手紙だ。

 それにはっきり気がついたとき、琴子は自分でも知らないうちに唇を強く口の中に巻き込んでいた。

 琴子がひた隠しにしてきたある思いが、胸の中でうずき出す。

 神矢に言われて誠一郎が思い立ったこと。それは椿月に手紙を書くことだった。

 何事においても器用な方ではないと、彼は自分でも自覚している。神矢のように達者に、気の利いたことなど喋れない。

 でも、紙の上でだったら、普通の人よりも少しは自分の気持ちを饒舌に語ることができるはず。

 部屋にこもり、椿月への謝罪の手紙をひたすら必死に書き続けていたのだ。

 琴子が誠一郎の手紙を盗み見たその日を境に、彼女はパタリと深沢家に来なくなった。

 気づけば彼女がいつもお茶を置いておくところに、「お暇をいただきます」と書かれた書置きがあった。

 誠一郎としては暇も何も、そもそも雇ったつもりなどないのだが。

 あれだけしつこくやって来ていた彼女が急に諦めたことを不思議に思いつつも、とりあえずは良かった、と胸をなでおろした。

 その数日後、神矢がまた本を借りにやってきた。

「あれ。例の娘はいなくなったのか?」

 神矢は誠一郎だけが出迎えた玄関でそう尋ねる。

 誠一郎は琴子が書置きを残し、突然来なくなったことを簡潔に話した。

「ふーん……。よく分からないが、まあ、良かったな」

 話に聞いていただけではあったが、それだけ熱心に通いつめていたらしい娘がいきなりすっぱりと諦めたことについて、神矢も腑に落ちない様子だった。

 しかしそれに関して考えても、きっと答えは出ない。きっと彼女の気が突然変わったのだろう、という無難な想像に落ち着けておいた。

 神矢は勝手知ったる深沢家に上がると、いつものように本棚の置いてある部屋へ向かった。その後を誠一郎がついていく。まるでどちらが家主だか分からない。

 借りていた本を本棚に戻し、借りていく本を物色する。気になる作品を手に取り、パラパラと中身を見ては戻す。

 神矢が本を選んでいる間、誠一郎はその部屋からすぐの縁側に腰を下ろしていた。

 いまだに悩んでいる椿月への手紙のことを考えながら、先日面倒ながらも夏の猛攻に屈して草を刈った、殺風景な庭に視線をやっていた。

 庭を囲う塀は雨だれの染みや経年による変色、それにヒビなどでもうかなり古びているはずなのに、夏の強い日差しを浴びると真っ白に輝いて見える。

 それを不思議に思いながら眺めていると、本棚のある部屋の方から神矢の声が聞こえてきた。

「……そういやさ。昨日、劇場の楽屋が大変だったんだ」

 本を探しながら話しかけてきているようで、単語と単語の間が少し開く。

「簡単に言うと、楽屋泥棒ってやつがあって……」

「それは――」

「椿月に被害はない。……ついでに言うと俺も被害は受けてない」

 誠一郎の質問を予想して、神矢は回答を先取る。

 そしてぽつぽつと話を続けた。

「昨日の昼公演のとき、楽屋のある関係者通路はほぼ無人になっていたんだ。楽屋にはすべて鍵がかかるようになっていて、出番の間は、楽屋の通路のそばに控えてるいつもの担当の係のやつが、鍵をまとめて預かってるんだが……」

 誠一郎は、椿月を訪ねて何度か行ったことがある楽屋のことを思い出しながら聞いていた。

「でも、その時に限って、それを別の奴が預かってたんだ。……覚えてるか? この間、劇場で大荷物運んですっ転んでた女の子」

「……覚えています」

 片手の握力が弱いという不利を抱えながらも役者になる夢のため頑張っており、椿月が親身になって応援しているという少女だ。少女も椿月のことを慕っているように感じられた。

「事件があった時、ちょうど担当の係の奴が、急に外に出なきゃならない緊急の用事ができてしまったらしくて。楽屋前の通路の掃除をすることになっていたあの子に、一時的に預けていたそうだ」

 もし預かった鍵も一緒に持ってその場を離れていってしまったら、急ぎで出演者が戻ってきたりしたときに中に入れなくなってしまう。かといってそこに置いておくわけにはいかないし、楽屋前にいる少女にその時だけ預けておくというのは考えられる判断だろう。

「公演が終わって出演者たちが楽屋に戻ると……複数の楽屋の中が荒らされて、金目のものがなくなっていて、もう大騒ぎさ」

 神矢の言葉を待たずとも、一番に誰が容疑者になったのか想像がついた。

「……真っ先にあの少女が疑われた。鍵を預かっていたこともだし、何よりあの子自身が『公演中は、ずっとそこで掃除をしていた自分以外、誰も廊下に来ませんでした』と証言してる」

 濃い青の空を半分に切る、眩しく光る白い塀を見つめながら、耳は神矢の話を聞き、誠一郎は考えていた。

「昨日、事件が発覚してから、あの子は劇場でずっと質問攻めにされてるはずだ。あの子が盗みを働くようには見えないんだが……。疑われても仕方がない状況だし、弁護のしようもないんだよなぁ……」

 誠一郎は今の話を聞いて、ある可能性を察していた。

 それのために、誠一郎は考える。

 楽屋泥棒――。

 鍵を預かることになった少女――。

 誰も廊下に来なかった――。

 あごに指先を添えて考えながら、ふと思いついたことを神矢に尋ねる。

「……そういえば、前に、劇場に座敷童だか悪霊だかがいるのではという噂が流れていると言っていましたよね」

 唐突な問いに、神矢は「んっ?」と面食らったような声を上げてから、「ああ、確かそんなこと言ったな」と言葉を返す。

「それはもしかして、どこからか子どものヒソヒソ声や足音なんかがするのでは?」

「お……よく分かったな。構造的にその周りに他の部屋や階がないようなところからも聞こえてくるから、夏ってこともあって面白半分に不気味がられてたらしいんだよ」

 誠一郎は質問を続けた。

「それから、確か楽屋の天井は格子状の枠組みに、上から木の板をはめ込んだ造りになっていましたよね」

「多分そうだったと思うが……それがどうかしたのか?」

 いよいよ本格的に楽屋泥棒の話から逸れてきて、神矢は訝しげに問い返す。

「最後にもう一つ。泥棒に入られた楽屋は、床が黒くすすけて汚れていませんでしたか」

「ああ、被害にあったやつがそんなこと言ってたな……」

 言われてみれば確かに、と思い出すように神矢はつぶやく。

 そこまで確認すると、誠一郎はこう口にした。

「そうなると……色々なことから考えて、楽屋泥棒の犯人として疑わしいのは――――」

 その名を聞いた神矢は、すぐさま本棚の部屋から飛び出してくる。

「……それ、マジか?」

 目を丸くしている神矢に、誠一郎は言う。

「今の神矢さんの話を聞いて考えただけなので、断言は出来ませんが、恐らく」

 神矢は座っていた誠一郎の腕をぐいと引き上げた。

「センセー、一緒に来てくれ。今日警察が捜査に来るらしいんだ。あの少女が冤罪で連れて行かれるかもしれない!」

 劇場の関係者専用口のところでは、先ほどから必死の攻防が繰り返されていた。

「だから、何度も言うがね。状況的に、そのとき鍵を持っていたその子しか部屋に入ることは出来なかったんだ」

 くたびれたスーツに中折れ帽を合わせた、中年ほどの刑事と思われる男性が、いらだった様子で同じ言葉を繰り返している。

「この子はやっていないと言ってるわ」

 怖い顔をした刑事にただ一人たてついているのは、栗色の短い髪にタイトなドレスをまとった、舞台衣装姿の椿月だった。

 化粧や装飾品のおかげで、普段よりいくつも年上に見える彼女。それでもかなり年上の刑事が相手ともなると、流石に怯んでしまっているようだった。

 彼女の後ろには、涙をぬぐっている少女の姿がある。

 神矢から話を聞いて誠一郎が察していた可能性。それは、少女のことを椿月がかばっているのでは、ということだった。

 その予想はまさに的中していた。

「女優さんねぇ、犯人っていうのはみんな『やってない』って言うんだよ」

 わざとらしいため息をついて、呆れてみせる刑事。

 椿月は食い下がる。

「でも、この子は本当にそんなことをする子じゃないの……」

「だから、『そんなことする人じゃない』なんてみんなが思うんだ。いい加減にしないと、女優さんごと連れて行くことになるぞ」

 その脅しの言葉に、そばでオロオロしていた館長が椿月をなだめに入る。

「椿月。気持ちは分かるが……理解しておくれ」

 この子がやっているはずないのに、どうして彼女をかばう自分が分からず屋のようになだめられなければならないのだろう。いつもの余裕ある女優の姿の時には似つかわしくなく、椿月は悔しさと無力さにその美しい顔をゆがめた。

「館長、信じて。この子じゃないのよ……」

 椿月の訴えに館長も同意してあげたいのだが、状況はどう見ても少女に不利だ。警察だけでなく、劇場の人間たちもこの少女が疑わしいと思っている。

 どう説得しても信じてもらえない。椿月が視線を地面に落としたとき。

「……捕まえろ」

 刑事が部下たちに、少女を捕らえるよう指示を出す。

「だめ、連れて行かないで!」

 椿月は悲痛な声で訴え、少女を全身で覆うように抱きしめる。少女も震える手で椿月にしがみついた。

 誰か助けて。そう心の中で叫んでも、二人を守ってくれる人は誰もいない。

 混乱にざわついた一帯。騒動を見物する野次馬たちの勝手な声と、警察の怒声。少女の泣き声と、濡れ衣だと訴える椿月の声。そんな彼女を説得しようとする館長の声。

 もう誰にも収めることができない、どうにもならない騒ぎの中。

 ある人物の、よく通る声が響いた。

「やあやあ、皆様おそろいで。ご機嫌麗しゅう!」

 思わず誰もが声を止め、声のした方を見てしまう。

 そこに立っていたのは。

「当劇場で現在絶賛公演中・舞台『サウス湖畔の夕暮れ』の“主演”俳優、神矢辰巳です。どうぞよろしく」

 神矢はまるで舞台に立つときであるかのように優雅な立ち振る舞いで、人々の目を一気にひきつける。“主演”の部分はかなり強調されていた。

 神矢の圧倒的な存在感、発言は耳目を集める。先ほどまで各々が勝手にわめいていた状況が、今はすっかり静かになり、みなが神矢の方を見ている。

 椿月も、突然の神矢の登場に驚いて、少女を抱いたまま顔を上げた。

「この件に関して、ちょっと話を聞かないか? 損はさせないからさ」

 そう言って片目をつぶって見せる。こんなキザなふるまいも、神矢がやると驚くほど様になる。

 その提案に言葉を発したのは、怖い顔をした中年の刑事だった。

「……なら、貴様のその話とやらを聞いたら、問答無用でその少女を連れて行くぞ」

 神矢は「お好きにどうぞ」と、優雅に脚と腕の動きをつけて恭しく礼をしてみせる。

 椿月は思わず少女を抱く両腕に力を込めた。神矢はなんて勝手なことを約束してしまったのだろう。

「それじゃ……後はよろしくな」

 そのセリフと入れ替わるようにして、人々の注目を集めて時間を稼いだ神矢の背後から、現れる姿があった。

 療養生活ですっかり体力が低下してしまった誠一郎が、ようやく神矢に追いついたのだった。

 上がった息を整えるのと、神矢がとんでもない振りをしていたことを嘆く意味でも、膝に手をついて何度か深呼吸をした。

 弱々しげでパッとしないその姿に、刑事たちも周囲の野次馬たちも怪訝そうな視線を向ける。

 ここまで大風呂敷を広げておいて突然の選手交代をした神矢は、少し下がって様子を見守っている。

 誠一郎は顔を上げた。

 視線の先には、ずっと会いたかった人の姿があった。予想通り、あの少女を必死にかばっている。誠一郎の登場に驚いた彼女の、心細げな視線とぶつかる。

 あの少女を守り、椿月のことを守らなければ。

 誠一郎はすっと立ち位置を移動して、二人を背においた。

 そして、口を開く。

「……この少女を連れて行くという判断は、早計ではないでしょうか」


 誠一郎の言葉に、顔の怖い刑事はムッとした表情を隠さない。

「何度も言っているだろう。そのとき鍵を持っていたのはこの少女なんだ」

 誠一郎は臆することなく言葉を返す。

「普段はその役目ではない自分が、例外的に鍵を預かった日に、それを利用して盗みなど働くでしょうか。そんなことをすれば、すぐ自分に疑いがかかってしまう。しかも、一部屋からほんの一品二品盗むならまだしも、そんな複数の部屋から大量に盗んで回れば、発覚は免れません。普通に考えたらやらないでしょう」

「普通に考えられなかったんだろう。子どもは浅はかだ。目の前の欲にくらむことだってある」

 そう言い捨てる刑事。

 誠一郎からすると、逆にそんなに大人が賢く立派な存在だとは思わないのだが。

 誠一郎は切り返す。

「では、彼女のもとから、実際に盗まれた大量の金品は出てきたんですか?」

「まだ出てきてはないが……。どこかに隠しでもしたんだろう」

 歯切れの悪い発言をする刑事に、誠一郎が畳み掛ける。

「彼女は事件が発覚して容疑をかけられてから今まで、ずっと質問攻めにされていたそうです。一人になる時間などなかったはず。隠せるとしたら彼女が掃除していたという、関係者通路付近しかない。でも、そこはもう十分に調べられたんですよね?」

 この質問への回答はなかった。すなわち、よく調べたけれど見つからなかったということだ。

 誠一郎は別の切り口から迫った。

「この少女は『誰も通路には来なかった』と言っています。となると、犯人は扉から鍵を開けて入ったものではないと考えられます」

「窓は防犯のために、外出時は内側から鍵をかけることが徹底されているそうだ。しかも、壊された形跡はどこにもない」

「窓からではないでしょう。窓から入り込んだのでは、楽屋に人がおらずとも、外の人間たちの目に触れてしまうはずです」

 誠一郎は上部を指差した。

「恐らく、犯人はどこかの部屋から天井裏に入り込んだのでしょう。天井裏は部屋の隔たりに関係なく移動ができます。天井裏から板を外し、楽屋の部屋の中に下りる。劇場の性質上、ここには縄梯子が用意してあります。それを使ったのでしょう」

 天井という思いもよらない場所への着目に、周囲のみなが目を丸くする。

「被害に遭った楽屋の床はすすけたように黒く汚れていたそうですが、ホコリが積もった天井裏を移動したから、と考えれば説明がつきます」

 そこまで話した上で、誠一郎はあごに手を添え、視線を地面に落とす。思案しながら可能性を絞り始めた。

「あの天井の格子は、大人の男ではまず身体が通りません。細身の女性でも、相当な筋力がない限り、縄梯子を何度も上り下りし、狭い天井裏を這(は)って回るのは至難の業でしょう」

 そして誠一郎は視線を持ち上げた。

「そうやって消去法で考えていくと、ある少年たちが浮かび上がります。この劇場で、その身軽さを生かして縄梯子を扱う少年たちです。彼らはこの少女とも近しい存在だった。彼女が昨日、突然鍵を預かることになったのも知ることができたはず。彼らならその機を利用することで、今の状況のように少女に疑いが向くようにもできます」

 黙って話を聞いていた、というより何も口を挟むことができなかった刑事は、悔し紛れにこう反論する。

「な、縄梯子なら、この少女にもできたかもしれないだろう! この少女だって十分に小柄で身軽だ。裏の裏をかいて、その少年たちに容疑を着せようと思ってやったのでは……」

 刑事のとんでもない主張にも、誠一郎は冷静に言葉を返した。

「いえ。彼女は生まれつき片手の握力がとても弱いそうです。ただでさえ腕力と握力を使う縄梯子を、ましてや盗んだ金品を持って、何度も上り下りできるわけがありません」

 「ぐぐ……」と、刑事はうなる。悔しいが反論できる要素が何もない。

 誠一郎はまっすぐ刑事の目を見て言った。

「……すぐさま少年たちを疑えというわけでありません。ただ、こういう可能性もあるので、今この少女を連れて行くのはやめてもらえませんか」

 刑事はしばらく誠一郎と対峙した後、諦めたように息をついた。

 そして部下に指示を出す。

「……おい、その少年たちとやらに話を聞こう。連れて来い」

 その時、部下の一人が遠目であるものを目撃し、声を上げた。

「しょ、少年たちが逃げ出しました!」

「何だと!!」

 風のように走って劇場の門から飛び出て行く、数人の少年たち。恐らく今の誠一郎の話を聞いて、捕まえられるのは時間の問題だと思ったのだろう。

「追いかけろ! 絶対に逃がすな!」

 刑事の一喝を受け、部下たちが全力で走っていく。

 それからは事態があわただしく進んだ。

 館長らが急いで少年たちの使っていた控え室を調べてみると、そこから大量の盗まれた金品が出てきた。今回の楽屋泥棒だけでなく、以前より盗みを働いていたようだ。それが座敷童などの妙な噂につながっていたのだろう。

 やっと濡れ衣を晴らされた少女は、昨日からの疲労の蓄積と、緊張の糸が切れたことで、守るように抱かれていた椿月の腕の中で気絶するように眠ってしまった。

 それを「医務室で寝かせて来てやるよ」と、ひょいと抱えて行ってくれたのは神矢だった。

 騒動がひとしきり収まり、人の散っていった劇場敷地内の片隅にて。

 誠一郎は、ほぼはったりのような自分の即席の推理が間違っていなかったことに、深く胸をなでおろしていた。本当ならこの場で座り込んでしまいたいくらいだ。

 警察の人間相手にあれだけの威勢を張るのは、実はものすごく緊張していたし、もう二度とやりたくはない。

 汗でずり下がる眼鏡を指先で押し上げて、安堵の息をついた。

 でも、とにかく良かった。誠一郎は思う。

 椿月を悲しませずに済んだ。それだけでもう十分だった。

 視線の先、館長と話し込んでいる椿月の姿が見える。

 本当は近寄って話しかけたいけれど、早くここを立ち去らなければならない。彼女は「会いたくない」と言っているのだ。

 誠一郎は二人に背を向け、黙って去っていく。

 もしかしたら、彼女の姿を見られるのはこれで最後かもしれない。

 そう考えて、締め付けられるような胸の痛みを感じたとき。

「誠一郎さん……!」

 久々に聞く、自分の名を呼ぶ椿月の声。誠一郎はすぐさま振り返った。

 走りにくいハイヒールでよたよたと駆けてくる彼女は、自分の少し前に来て足を止めた。

 こんなに近くで彼女を見るのは、彼女の言葉を聞くのは、どれくらいぶりだろう。

 舞台のために妖艶に着飾っている彼女だが、昨日からの疲れがにじんでいるように見えた。

「……ありがとう。あの子を守ってくれて」

 椿月はまず、お礼の言葉を口にした。

 この舞台での姿の時に似つかわしくなく、椿月は遠慮がちに視線を地面にさまよわせている。

 誠一郎は緊張を覚えながらも、なるべく落ち着いて返事をした。

「いえ……。間違いが起こらなくて、良かったです」

 そうして会話が終わると、双方が黙ってしまい、二人の間を気まずい空気が流れる。

 誠一郎は今しかないと、勇気を出して口を開いた。

「あの……この間は本当に、すみませんでした。あの時家にいた人は、ファンだといい、手伝いがしたいと勝手に押しかけてこられたのです……。僕も具合が悪く、強く追い返すことができませんでした……。本当に、何の関係もない方なんです。もう今はいませんので……」

 先ほどの堂々としたふるまいがまるで嘘であるかのような、たどたどしく尻すぼみな説明。

 彼女の反応を待ったが、椿月はうつむいたまま、言葉を返さない。

 沈黙が流れる。

 誠一郎は自分の口下手さ、不器用さを呪いたくなった。

「……言い訳がましいことを、すみません。では……」

 そう言って頭を下げると、椿月に背を向けた。

 だが。足を一歩踏み出すと、後ろにに引っ張られる力を感じた。

 振り返ると、椿月が彼の着物の袖をつまんでいる。

 椿月は顔を上げた。

「誠一郎さん……。私もごめんなさい。あなたの話を聞こうともしないで……」

 てっきり怒りと悲しみで言葉も出ないのだと思っていた彼女の口から出た、思わぬ謝罪の言葉に、誠一郎は面食らった。

 椿月は彼を遠慮がちに見上げる。恥じらいを帯びた上目づかいの目は、まばたきを繰り返す。

「あなたの家から女の子が出てきて、思わずカッてなっちゃったの……。許して」

 いつも堂々とふるまっているように見えるはずの舞台姿の椿月の頬が、ほんのり赤く染まっている。

 大人びた赤い唇が紡いだ可愛らしい言葉に、誠一郎は胸にあふれた色々な思いをまとめて、

「はい」

 と答えた。

 そして、

「……また、貴女に会いに来てもいいですか?」

 と尋ねる。

 椿月は優しく目を細めて、うなずいた。

「うん。たくさん会いに来て」

 久しぶりに見る椿月の柔らかい表情に、誠一郎は自分の心がとけていくような感覚がした。

「あなたと会えない間、すごく寂しかったわ……」

 そう言うと、椿月はふいに彼の胸に額を寄せ、顔の横でぎゅっと彼の服を握った。

 この姿の時なら、いつももっと派手にくっついてくることだってあるというのに、彼から見える彼女の耳の端は赤みを帯びている。

 誠一郎は緊張で身体がこわばりながらも、彼女の肩にそっと手を添えた。

 彼女の温かさを身体に感じながら、

「僕もです」

 と、彼女の寂しさの隣に、自分の会いたかった気持ちを並べた。

 その後。

 誠一郎が家に戻ると、思わぬ人物と遭遇した。

「あっ。申し訳ございません……。忘れ物を取りに来ておりました……」

 家の前ですまなそうに眉をハの字にするのは、ある日からピタリと来なくなった琴子だった。

 深沢家に残して行ってしまったのであろう自分の荷物を、風呂敷で包んで胸に抱えている。

「もう、この家には二度と勝手に立ち入りませんので……。鍵も、お返しいたします」

 いつの間に鍵を持って行っていたのかと驚きつつ、誠一郎は黙ってそれを受け取った。

 琴子はしばらくもじもじしていたかと思うと、思わぬ謝罪の言葉を口にした。

「あの……申し訳ございません! わたくし……勝手に見てしまいました、先生の書かれたお手紙。あれは、先日来られた女の方へ宛てたものですよね……。わたくしのせいで誤解を与えてしまい、お二人の関係が悪くなってしまったのなら、謝ります」

 そう言って琴子は深く頭を下げる。

 誠一郎は彼女が自分の手紙を読んでいたことなど、今こうして言われるまで全く気がつかなかった。

 琴子の思わぬ告白は続く。

「……本当のことを申し上げますと、琴子と先生は初対面ではございません。記憶にはないかもしれませんが、わたくしは先生の同級生だった宮山実継の妹でございます。兄とのつながりでふとお見かけしたあなた様を、当時、陰ながらお慕い申し上げておりました……」

 今ならまだしも、当時の誠一郎の他人への興味関心のなさは筋金入りのものだ。こうして名前をあげられても、宮山という知り合いに心当たりは全くなかった。

 それでも、彼女がここまで真剣にそう言うのだから、それは事実なのだろう。

「けれど、春に色めく周りの方々と違い、いつもずっとご本と過ごされていたあなた様は、きっと女性や恋愛ごとなどに興味がないお方なのだと、そう思うようにして、琴子は諦めるよう努力いたしました」

 恐らく琴子は何がしかの方法で、誠一郎に近づいてみていたのだろう。

 しかしその結果は、誠一郎が全く彼女を覚えていないという地点で明白だった。

「……あなた様が小説家としてデビューなさったということを風の噂で聞き、興味がわいて著作を拝読いたしました。その作品の中で、あなた様は恋の苦しみや喜びについて、よく洞察された内容を書かれていて……。あなた様はそういう恋愛ごとになど興味がないのだと思って諦めたはずのわたくしは、たまらなくなりました……」

 琴子が家に押しかけてきたとき、彼女は誠一郎の「恋情語り」を読んだと言った。確かにあの小説ではそういったことを扱っており、恋に苦悩する男性の心理をえがいていた。

 琴子はうつむかせていた顔を上げた。

「……先生。わたくし、もしかしたら琴子を一目見た瞬間に、あなた様が『君か』と思い出してくれるかと思ったんですよ」

 そう吐露する琴子の目が、涙でうるんでいる。

 大粒のそれを、琴子は着物の裾でぬぐう。

「でも本当に、あなた様はあの当時、ご本しか見てらっしゃらなかったのですね……」

 誠一郎はその言葉のあとに、「私を見てはいなかったのですね」という言葉が聞こえたような気がした。

 琴子は涙をぬぐうと、努めて明るい表情を作る。

「琴子はとっくに分かっておりました。それと、あの『恋情語り』は、あの女の方がいたからこそ書き上げることができたものだということも、よく分かりました」

 もう一度深く頭を下げると、

「勝手にお邪魔をして、申し訳ありませんでした。今後の執筆活動も、どうか頑張ってくださいませ」

 と伝え、はかなげにほほ笑んだ。

 誠一郎は最後に一言、彼女にこう言った。

「……君のことを覚えておらず、申し訳ない。看病をありがとう」

 その言葉に琴子は黙って頭を下げ、去っていった。


 楽屋泥棒の一件から一週間ほど経った頃。あの少女がこの町を離れることになったと、誠一郎は椿月から聞いた。

 役者を諦めるとか、劇場に悪い印象を持ったとかいうわけでは決してない。

 実は、以前から勧められていた、弱い握力を治すための手術を受けるそうだ。

 手術は大変なものだそうだし、術後の回復や訓練もかなり根気よく時間を要するものだという。

 単に手術が怖かったということもあり、少女はこれまでは手術を受けるつもりはなかったのだが。

 今回の事件で、自分が逮捕されるかもしれない、夢が絶たれるかもしれないというとき、「こんなことなら手術をしていれば、役者になるために全力を尽くしていればよかった!」と強く思ったそうだ。

 悔いを残したくはないと、今回ようやく心を決められたらしい。

 役者になるために必ず戻ってきます、と少女は椿月に約束した。

 劇場からの見送りには、誠一郎も同席した。椿月は彼に、「少し寂しいけど、きっとこれが一番いいのよ」と笑ってみせた。

 そして。

 まだまだ残暑厳しい、ある日。

 今日は、椿月が改めて深沢家にやってくることになっていた。

 彼女が「今度また、ちゃんとあなたのおうちに行ってみたいわ」と言うので、誠一郎はすぐに快諾した。

 しかし、家に帰ってみて、この汚くておんぼろの家に椿月を呼ぶなどなんということを引き受けてしまったのだろう、と激しい後悔の念にさいなまれた。

 最後にいつ掃除をしたかも思い出せない我が家を、出来る範囲で整える。

 物の片付けや掃除でどうにかなる部分はまだいいのだが、そもそもこの家はもとから古くてボロボロだ。床が抜けかけている場所だとか、雨漏りしている箇所だとか、隙間風を板きれでふさいでいる場所だとかはどうにもならない。

 やるだけのことはやって、もうこれ以上は仕方がない、と半ば開き直るようにして諦めた。

 彼女が来る日、近くまで迎えに行くと申し出たのだが、一人で行きたいの、と言われてしまった。

 なので仕方なく、誠一郎は家の前で彼女を待っていた。

 この暑さと、家ということもあり、いつもの袴姿をする気にはなれなくて、引っ張り出してきた薄手の布地の着物に身を包んでいる。

 残暑とは名ばかりの、強い夏の日差しを受けながら道の向こうをながめていると。

 奥の方からこちらにやってくる女性の姿が見えた。

 薄物の着物は白地に涼しげな薄い青で植物の柄が描かれていて、帯は深い瑠璃色。淡い水色の風呂敷包みを抱えている。

 袴姿が多い普段の椿月からすると、ずいぶん雰囲気が違って見える。何より一番異なっていたのは髪形だった。

 椿月は視界に誠一郎の姿を認めると、手を振って足を早めた。

 目の前までやってくると、誠一郎は挨拶よりも先にまずこう言った。

「……今日は髪を上げているんですね」

 いつも下ろされている長い髪が、まとめて頭に持ち上げられている。首もとがすっきりして、首筋の白さがよく分かる。

「暑かったから……。どうかしら?」

 椿月が尋ねてきたので、誠一郎は「似合ってると思います」と簡潔に答えた。

 実際は、脳内で小説を一作完成させられるほどの感想が繰り広げられていたのだが。

 非常に勝手な考えだが、誠一郎は、その特別な姿を自分以外には見せてほしくない、なんて思ってしまう。

 玄関に入ると、椿月は風呂敷包みを開き、彼に手土産を手渡した。木箱に入った水ようかんだった。

「あとで一緒に食べましょう」

 そう言ってほほ笑む椿月。

 人の家にあがるときは手土産を持参する、という礼儀を誠一郎は久々に思いだした。

 廊下に差し掛かったとき、椿月は「わっ」と声をあげた。

「辰巳が言ってた通り、すごい音がする床ね」

 ギシと音が鳴る板張りの床を、好奇心から恐々何度か踏んでみる。

 誠一郎は、自分が普段から思っていることを、椿月も同じ場所で同じように感じていることをなんだかおかしく、面白く思った。

「僕が歩いて大丈夫ですから、椿月さんなら跳ねても平気ですよ」

 彼はそう言うが、椿月はそんなことを試す勇気はわいてこなかった。

 「いつもどこでどうやって過ごしているの?」と質問されたので、大したところではないが誠一郎は家の中を案内することにした。

 書斎机があるだけの、殺風景な原稿を書く部屋。椿月が来る前に、大量に散らばった原稿用紙と資料用の本はふすまの奥にしまい込んだ。

 寝室の万年床は、久々に片付けたらその部分だけ畳が変色していた。

「お布団、いつもは敷きっぱなしなのね」

 椿月にクスクス笑いながら指摘されて、すぐ見抜かれた。

 神矢がいつも本を借りに来る、ただ本棚が無秩序に置いてあるだけの部屋。そこも椿月は見たがったのだが、あそこは手が回らなくて、というかどこから手をつけていいのかすら分からなくて、一切掃除をしていなかった。

 かなり散らかっていてホコリっぽいことを事前に断った上で案内する。

 彼女は部屋の汚さよりも、その本の量に驚いていた。

「ここにある本、全部読んだことあるの?」

「……多分、九割くらいは読んでると思いますよ」

 彼女は目をパチパチさせて「すごいわね」と感心していたが、彼からすると昔からまるで水を飲むように本を読むので、逆に、こんなことで感心してもらえるのかということに驚いた。

 部屋をある程度まわりきると、二人は居間に腰を落ち着けた。

 居間の脇の障子が引かれ、縁側から殺風景な庭が見える。真上から降り注ぐ強い日差しで庭は光るようにまぶしく、対照的に部屋の中がやけに暗く感じられる。軒からは古びたすだれが無気力にぶら下がっていた。

 汗ばんだ肌をうちわでを扇ぎながら、椿月が家の感想を言う。

「ずいぶん広いのね」

「僕が住む前は空き家だったんですが、その前は大家族が住んでいたみたいですよ」

 どうしてこんな広い借家に住んでいるのか、祖父母と大家とのつながりなど、椿月に訊かれたことに答える形で、あらかたのこの家のことを話した。

 会話がひと段落し、沈黙が訪れると、誠一郎はこの風景をとても奇妙なものだと思った。

 いつも自分が一人で過ごしている場所に、椿月の姿がある。起きながらにして夢をみているかのように、なんとなく現実味が感じられなかった。

 それから。

 会話が途切れたのを利用して、誠一郎はまたあのことを口にした。

「あの……。あの時は、本当にすみませんでした」

 彼の謝罪の言葉に、椿月は彼の顔をじっと見つめる。

 あれ以来、誠一郎は会うたびに必ずそのことを詫びる。

 そのたび、「気にしてないから、もういいわよ」と椿月は言うのだが、いつも彼は深刻そうな顔をする。

 なので。

 椿月は四つんばいで彼の方ににじり寄っていくと、おもむろに手を伸ばした。

「んわっ……?!」

 椿月が聞いたこともない、誠一郎としても自分がこれまで上げたこともない、気の抜けた悲鳴のような声。

 椿月が彼の脇腹をくすぐったのだ。

「ふふっ、変な声」

 楽しそうにクスクス笑う椿月。

 そして彼にこう伝えた。

「ねえ。お互い様だから、もう謝るのはやめましょう。今日は久々に、あなたと楽しくお喋りがしたいわ」

 優しくほほ笑む椿月に、誠一郎は夏の暑さのためか、はたまた恥ずかしさのためか、頬を少し赤く染めながら「はい」と返事した。

 それから、椿月が手土産で持ってきた水ようかんを二人で食べようとしたのだが。

 椿月が何の気なしに「冷やしたほうがもっと美味しいんだけどね」とこぼしたので、誠一郎は「買ってありますよ、氷」と答えた。

 今日は朝からとても暑くなりそうだったので、氷売りが来た時に多めに買っていたのだ。

 氷を詰め込んでおいた木製の冷蔵庫の中に、水ようかんの木箱を押し込む。

 食料を冷やす以外にも、自分で使うものも考慮して多く買っていたので、水ようかんの木箱に押し出される形で氷がはみ出た。

 それを見て、椿月がこう提案する。

「ねえ、たらいか何かないかしら? 氷水を作って足を浸けるの」

 ピンときた誠一郎は、庭の片隅にある物置に向かった。

 ここには大家が色々なものを詰め込んだままにしていて、自由に使っていいと言われていたのだが、これまでほとんど開く機会がなかった。

 中を調べてみると、予想通りそこには大きなたらいがしまってあった。古びてはいるが、水を溜めてみても漏れなどはない。

 椿月の期待に応えて、行き場のなくなった氷をそこに浮かべた。

 軒が日差しをさえぎり日陰になった縁側に腰掛けて、彼の作業を見ていた椿月が、用意された足元のたらいに足を浸けてみる。

「あっ、冷たい!」

 そう声を上げて、楽しそうにはしゃぐ。

 彼女が足を動かすたび、パシャパシャと涼しげな音がする。

 作業を終えて同じく縁側に腰掛けた誠一郎が、そんな彼女をながめていると。

 椿月が、

「ねえ、誠一郎さんも一緒に」

 と誘う。

 彼女は自分の片足をたらいの外に出して、彼の片足を入れるための空間を作った。

 誠一郎は彼女のそばに座りなおして、遠慮がちに片足を浸す。

 同じ人間のそれとは思えないほど、大きさの全然違う二つの足が、隣に並ぶ。

「……冷たいですね」

 「でしょう?」と、椿月はふふっと笑う。

 普通に浸していることに飽きてくると、椿月はふざけて足先で水滴を飛ばしたり、誠一郎の足をいたずらに踏んでみたり、ちょっかいを出しはじめた。

「ほら、誠一郎さんもやってもいいわよ」

 笑いながらそう言って、自分の足を彼の方に差し出す椿月。

「できませんよ」

 夏の日差しのいたずらか、誠一郎は柔らかな表情で目を細めた。

 あっという間に氷は溶けてなくなり、水の冷たさも感じられなくなってきた。

 それでも二人は静かにそこに腰掛けていた。

 椿月はおもむろににじり寄って、彼との距離を詰める。

 そして、そっと静かに彼の方に身を寄せた。

 女優としての姿の時でならともかく、普段の姿の時にこんなに接近されるのは初めてのことで、誠一郎は反射的に緊張した。でも、その緊張感は決して不快なものではない。

 水を感じる足と、彼女の熱を感じる腕と肩。

 残暑の熱気の中、彼女の身体の熱を愛しく思いながら、どこからか聞こえる風鈴の音に耳を澄ませる。

 結局渡されることはなかった、椿月への想いを綴った手紙が、引き出しの中から二人を優しく見守っていた。


「夏の手紙」<終>


【作品情報】
・2017年執筆
・短編連作 全7エピソード
・本作のショートボイスドラマを制作いたしました。 リンク先にてご視聴いただけます。

⇒episode4「思いは時を越えて」

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