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別れても好きな人? [短編小説]

 またLINEの着信音が鳴った。注文したランチがテーブルに届いたタイミングでだ。送ってきた相手が誰かはわかっている。丸顔で、見るからに人がよさそうな平山輝夫の顔が頭に浮かんだ。こういう勘ははずれたことがない。だから茉優はスマートフォンを見ないで、まずはしっかり昼食を食べることにした。
(昼の休憩時間を狙っているなら、いっそ電話してくればいいのに)
 そう思いながらタルタルソースをたっぷりからめた鶏南蛮を頬張る。なぜか夏の終わり頃になると、無性に鶏南蛮が食べたくなった。食欲の秋の気配でも感じるのだろうか。だが大好物のはずなのに、今日はあまり美味しく感じない。茉優はそれがなんとなく悔しかった。

 婚活にとってLINEのやり取りは重要だ。先に結婚していった友人たちからも耳にタコが出来るほど聞かされている。もっぱら家族や友人たちとの連絡ツールであるものを、出会った男とのコミュニケーションに使う。はじめは抵抗もあったが、出会いの数をこなす上ではやはり便利なものだと実感するのにあまり時間はかからなかった。
 LINEでやり取りを続けていくと、相手の性格も短期間のうちにはっきり見えてくる。せっかちなタイプや、言っている事と行動がちぐはぐな人。やはり自己中心的な男は苦手だ。だから自分とは合わない相手とは距離を置き、理想的なタイプに出会うためのふるいとして活用してきた。
 今、メッセージを送ってきた平山輝夫とは婚活アプリで出会い、三ヶ月ほどつき合いが続いている。第一印象からとても良かった。見た目もタイプだったし、話も面白い。映像関係の会社に勤めていて、バリバリ仕事をしている二歳年上のクリエーターだ。忙しいのに、まめにLINEを送ってくる。結婚相手としては合格ラインにいたし、密かに期待もしていた。
 だが、LINEでのやり取りは頻繁でも、ここ一ヶ月程はまったく会えていない。単に忙しいからだというが、疑念は湧いてくる。会えなくなったのは男女の関係を渋っていたからかもしれない。一ヶ月前、輝夫からの誘いをやんわりと断った。茉優には嫌な経験があったからだ。

 記憶は、さらに一年ほど前のことへとさかのぼる。やはり婚活アプリで出会った男がいた。大学病院に勤める医者だが、すでに何科の医者かも覚えていない。何度か続けてランチデートをした後、最初の夜のデートでホテルに行った。誘われるままに、何となく受け入れてしまったのだ。
 ぎこちない動きで快感など全く感じなかったが、それでも行為に没頭している男の様子に、ある種の母性が働いていたのかもしれない。嫌な気持ちはしなかった。ところが、直後でまだ気持ちが高揚していた茉優に、その男は残酷な言葉を投げつけたのだ。
「一度、君みたいな猫顔の女とやってみたかったんだよ」
 その言葉を聞いて、男ははじめから遊びだったことがわかった。
「君も満足したんだろ。これからはこういう関係でいこうよ」
 途端に男のにやけた顔が憎くなって頬を殴ってしまった。男は豹変して、倍以上も殴り返された。最悪だ。自分に見る目がなかったと諦めるには、かなりの努力が必要だった。
 茉優にとって完全な黒歴史となったその出来事の後、半年ほどは婚活に身が入らない。そのまま時間だけが過ぎて行った。その間も、昔からの友人たちは次々に結婚していく。一生独身でもその時は二人で一緒に暮らせば寂しくないよね。そう語り合っていた学生時代からの親友が嫁いでしまった時、茉優はもう一度婚活アプリに手を伸ばした。

 茉優は今を婚活のセカンドシーズンと名づけている。ドラマの主人公にでもなった気持ちでいないと、婚活などという非日常的な行動は続けにくい。何気ない日常生活の中で、ある日ふと運命的な出会いがあって、熱く燃える恋愛をしたうえでゴールインする。茉優にとって結婚とは、何となくそうあるべきものだったのだ。
 実際、二十代までの茉優はもてなかった時期がない。自分でもルックスには自信があったし、街中で芸能プロダクションにスカウトされることも多かった。25歳の秋に、たまたま友人に誘われて飲みに行ったバーで、店長だった木下雄二と出会う。10歳年上のバツイチで、ほとんど茉優の一目惚れだったと言っていい。それから一人でも店に行くようになり、ほどなく恋人として付き合うようになった。
 雄二には同い年の男とは違った大人の魅力があったし、客商売をしているから女性の扱いもスマートだったのだろう。やがてお決まりのように男女の関係になり、茉優は更に雄二にひかれていった。
 今考えれば未熟で愚かだったと思う。だが、まだ二十代半ばの茉優には、今のような結婚への焦りはなかった。だから雄二とのことも、はじめは若い頃の恋愛経験のひとつぐらいの軽い気持ちだったのだ。だが茉優は思いのほか雄二にハマってしまった。結局、彼とは29歳の秋まで濃密な男と女の関係を続けてしまう。四年間という大学生時代と同じ年月だった。
 途中、何度か雄二との結婚を意識した時期もある。だが彼の店は経営が安定しているとはお世辞にも言い難かった。再婚する余裕など微塵もなかっただろう。そして何より、彼自身の心に離婚した妻への未練があると気づいた時、茉優の心には「このままでいいのか」と問いかける自分がいた。30歳という年齢がリアルに見えてきた時に、その問いかけは雄二に直接向けられる。蜜月はそこまでだった。
「俺には君と家庭を持つ自信が全くないんだ」
 はじめは冗談のように答えていた彼だったが、いつになく真剣な茉優の顔つきに、ちゃんと答えようと思い直したらしい。結婚できない理由を幾つも挙げ始めた。
「俺は昼と夜が逆転してるだろ? 君はまだ若いけど、いずれは子どもを欲しがるはずだよね。でも俺は夫や父親という役割を満足に果たせないと思うんだ」
 感情ではなく、論理的に説明する彼を狡いと思った。出来ない理由を挙げ始めたらきりがない。そんなことは茉優にもわかっていた。出来ない理由が例え何百、何千とあったとしても、たったひとつの思いがあれば乗り越えられるはずなのに、彼はその思いを決して言葉にしない。やはり結婚には踏み出せないのだと茉優は悟った。
 それまでは翌日会社が休みの夜には茉優が店を訪れ、閉店した深夜に雄二と一緒に彼の家へ帰って泊まっていた。まるで通い妻だ。だが、その日を境に店へ行くのをやめた。追われればまた戻ったかもしれない。だが雄二は茉優を追わなかった。彼も潮時だと思ったのだろう。結局、二人の関係はフェードアウトで終わりになった。
 その後、雄二には知り合いを介して二度ほど会う機会もあったが、もう元には戻れなかった。ずるずると引きずらずにいてくれたことは有り難くもあったが、その程度の繋がりだったのかと思い知らされた気がする夜もある。とにかく茉優は忘れようと努力した。婚活を本格的に始めたのは、その頃からだった。

◇ ◇ ◇

 ランチを食べ終え、茉優は苦めのコーヒーを飲んでいる。久しぶりにちゃんと意識して過去の思い出にふけっていた。昼時に思い出すにはかなりヘビーな記憶だが、それでも大分美化されているという自覚がある。結局どんな男と付き合ってみても、あの25歳からの四年間を過ごした雄二と比べてしまっているのだと改めて思った。そして何歳になっても、雄二より好きになれる素敵な男と結婚したい思いを消すことが出来ない。
 合コンには三桁に届くほど行った。婚活パーティといった類の企画にも積極的に参加している。出かければ、何かしらの出会いは必ずあった。誘われれば食事に行ったりもする。だが、どんなに抑制しても別れた雄二と目の前の男を比べてしまう。そして誰もがどこか物足りなく感じてしまった。

 始めた頃の茉優の婚活は、友人や会社の上司といった周囲の人たちに紹介してほしいと触れ回る所からだった。知り合いからの紹介ならば、ある程度は素性がわかるという安心感もある。だが、案外早く壁にぶち当たった。人の紹介は当てにならない。それを嫌というほど思い知らされた。そして何といっても出会いの数が少ない。一人が何人も紹介してくれるわけではないからだ。
 知り合いが企画する合コンにも期待してみたが、ただの飲み会になってしまうことが多かった。中には既婚者で参加する男もいたので、やはり良い出会いにはならない。まじめに結婚相手を探そうという気持ちのある相手と出会える場を見つけようと焦るうちに、気がつけば32歳になっていた。
 この年齢辺りから、急激に既婚者からの誘いが増えてくる。茉優は恋愛の景色が明らかに変わった気がした。二十代の頃は独身の男性が声をかけてくるのが大多数だったのに、30歳を過ぎた頃からは既婚者からの誘惑が急増する。明らかに上回ったのが32歳の頃からだ。茉優にとって既婚者の男との間に友情は存在しない。必ず最後はホテルに誘われる。結婚対象ではなく、明らかに遊び目的なのは相手の心を探るまでもなかった。
 既婚者たちのあからさまな欲望を向けられる度に、はたして婚活してまで結婚する意味があるのかと茉優は何度も考えさせられた。結婚した相手が浮気をしないとは言い切れないのではないか。幻想かもしれない家庭のために、中途半端な出会いと別れを繰り返し、何度も惨めな気分を味わう必要がどこにあるというのだろう。
 だが、それでも茉優は結婚自体を投げ出すのは、どこかで間違っている気がした。人間として成長出来ない気がするのだ。それはある種の強迫観念かもしれない。結婚してこそ一人前だというような考えは、もうひと昔前のものだろう。それでも、まだそう考えている人は多いと茉優は思っていた。田舎で暮らしている茉優の両親たちは郷里での見合いを勧めてくる。でも出来ればそれは避けたかった。
 そんな悪戦苦闘の末にたどり着いたのが、婚活アプリだ。男性は有料だし、身元を提示しなければ入会できない。婚活パーティなどを企画する結婚相談の会社に登録するにはかなりの費用がかかった。そのうえ、良さげに見える男性はその場での競争率が高い。出来ればじっくりと相手を知りたいし、出会える数も増やしたかった茉優にとって、婚活アプリは手軽で効率の良いものに見えたのである。
 しかし、出会いが簡単になれば、関係を築くことへの真剣さが欠けていくということも茉優は思い知らされた。あの黒歴史になった医者の男との出来事は、やはり忘れられない。あの男のように身体の関係だけを目的に出会いを求めている輩も多いのだ。

 せっかくの昼の休憩中に嫌なことを思い出したと、茉優は少し暗い気持ちになった。そろそろ平山輝夫から届いたLINEを見てもいい頃かもしれない。この一ヶ月の間、会えなくてもメッセージを欠かしたことはない男。これ以上、無駄な時間を過ごしたくないと思いながらも、輝夫に出会ってからは他の男へのアプローチを断っていた。
 また無駄に振り回されてしまうかもしれない。そう思いながらも、特別な人であって欲しいという祈るような気持ちに嘘はつけなかった。
《君に会えることを楽しみに、不毛な仕事を頑張っています》
 輝夫からのLINEには絵文字はない。文字ばかりが並んでいる。ハートマークのひとつぐらいあっても変ではないのに、どんな長いメッセージでも文字ばかりだ。
《会えない時間も、茉優のことばかり考えています》
 言葉だけならば調子のいいことはいくらでも書ける。五年間つき合った木下雄二は、同種の言葉をいつも耳元で囁いてくれた。それでも結局は別れたのだ。
(LINEする暇があるなら、いっそ電話にすればいいのに)
 茉優の胸にランチを食べ始める前に思ったことが再びこみ上げる。その瞬間、茉優は輝夫のことが好きになっているのだと改めて気づいた。何人かとLINEをやり取りしても、こんな気持ちになったのは初めてだったからかもしれない。
 その男のことが好きだと、例えLINEの言葉であったとしても無条件で嬉しい。茉優は毎日送られてくる輝夫のLINEが確かに嬉しかったのだ。本当は、自分から電話をかければいい。それは分かっている。声を聞きながら、自分の思いを伝えるべきなのだ。いや、電話よりも直接会いに行った方が良いだろう。輝夫が勤める会社の場所は知っている。偶然近くまで来たからと伝えたら、彼はどうするだろう。そんな思いが、昼下がりのひと時に一気に交錯した。それなのに、画面の下に見える電話マークを押すことが出来ずにいる。
 二十代の頃、女の扱いに手慣れた男と付き合ってしまったことは、決してなかったことには出来ない。三十代になって婚活がこじれてしまったのは、きっとあの頃と同じ恋愛模様を無意識に求めてしまっているからなのだろう。
(ちゃんと終わらせていなかったからかもしれない…)
 そんな思いが茉優の胸にこみ上げてきた。ちゃんと終止符を打たないまま、成り行きで過ごしてしまった月日が、見えない呪縛となって自分を動けなくしている。
 考えてみれば、いつも相手に任せていた。それがいつからかを辿ってみると、必ず木下雄二に行き着く。彼が離婚した妻に未練を残していたように、自分もまだ彼に未練があるのだろうか。よく雄二と二人で歌った、「別れても好きな人」という歌が頭に浮かんだ。
 無意識に繰り返す言葉の呪縛は恐ろしい。今でもこの歌を聞くと、雄二のことを思い出した。馬鹿な事だと笑い飛ばしたいが、そうできない自分が茉優は情けなかった。
 まだあの店は残っているのだろうか。そう思いながら、今日がちょうど金曜日だということを思い出す。今夜、あの店に行ってみよう。そんな考えが茉優の中で実体化した。スマートフォンをバッグにしまった茉優は、駅へと歩き始める。LINEへの返事は書けない。既読のままスルーすることに、わずかな罪悪感がある。それを解消しないままで向かうことが今は必要なのだと茉優は思っていた。

◇ ◇◇ ◇ ◇◇ ◇

 最寄りの駅に着いたのは、ちょうど午後七時を過ぎた頃だった。どちらかといえば住宅地の方が多い地域だ。駅前の商店街はこじんまりとしている。だが、裏道には多くの飲み屋があって、今でも案外賑わっていた。四年ぶりの街はずいぶんと様変わりしていたが、変わっていない所も多くて、その一つひとつが茉優の記憶を刺激した。
 目的の店はあった。看板は変わっていたが、名前は昔のままだ。そっと重いドアを引くと、聞き覚えのあるジャズが外へ流れだしてきた。まだ客はいない。カウンターから男が身を乗り出して入口を見た。店長の木下雄二だった。
「いらっしゃい…」
 一目で茉優だと分かったのか、その後の言葉が曖昧に消えた。雄二の様子は昔と全く変わっていない。茉優は、まるでタイムスリップしたような気持ちになった。
「お久しぶりです」
 茉優はカウンターに歩み寄り、立ったままそう言った。雄二がグラスを拭く手を止める。しっかりと視線が合った。
「三年…いや、四年ぶりかな?」
 そう言うと雄二は、座ってとカウンターの席を茉優に勧めた。茉優はジャケットを脱いで奥のハンガーラックに掛ける。四年前に最後に訪れた時もそうだったと思い出した。あの日をもう一度やり直すのだ。そう茉優は改めて自分に言い聞かせた。
「何を飲みますか?」
 カウンター席に座った茉優に雄二が訊く。酔いたくはないが、水という訳にもいかないと思い、茉優はマティーニを注文した。雄二はちょっと意外だという表情をしたが、すぐにジンのボトルとシェーカーを手に取った。
「今日は挨拶に来たんですよ」
 カクテルを作る雄二の姿を見つめながら茉優が言う。特別な何かがあると予測はしていたのだろう。雄二は黙ったままシェーカーの中身をグラスに注いだ。
「君にマティーニを作るのは初めてだね」
 最後にオリーブの実を載せたグラスを茉優の目の前に置いて、やっと雄二は言葉を吐いた。
「結婚でもするのかな?」
 その言葉に、茉優は飲みかけたマティーニをこぼしそうになってしまった。なぜ、そう思ったのだろう。そんな疑念がそのまま口からこぼれた。
「だって、急に昔の男を訪ねて来るっていうのは、そういうことだろう?」
 過去にそんな経験があるのか、雄二はやけに自信ありげにそう言った。
「残念ながら、まだ結婚はずっと先だと思います」
 できるだけさり気なく見えるように注意しながら、茉優はそう答えた。
「そう…」
 雄二はシェーカーを洗いながら、一言そうつぶやく。しばらく互いに無言の時間が流れた。改めて店の中を見回すと、ボトルキープされた酒の数が増えていると感じた。以前は壁だった場所にも新たに棚が出来ている。
「お店、繁盛してるみたいですね」
 沈黙を破って茉優が話しかけると、雄二は苦笑いをしながら、それほどでもないさと答えた。不思議なもので、四年も月日が流れている気がしない。もしこのまま閉店時間までいたら、以前のように二人で家路を歩いているのではないかとさえ思える程だった。だが、そんなことはあり得ない。茉優はもう一度雄二を見た。少しだけ髪に白いものが混じっているように感じた。
「今日は、ちゃんと終わらせに来ました」
 まず曖昧にフェードアウトしたことを詫びる。茉優は電車の中で考えてきた順に、言葉を伝えた。雄二は途中では何も口をはさまず、視線を手元に向けたまま静かに聞いている。用意してきた別れの言葉を茉優が言い終えた時、やっと雄二は顔をあげた。
「別れてからも、ずっと茉優のことを考えていた」
 ふいに、雄二は茉優が全く予想もしていなかった言葉を吐いた。一瞬、言葉の意味が理解できない。茉優はぽかんとした無防備な顔で雄二を見つめ返していた。
「ずっと願掛けしていたんだ。もしもう一度茉優が店に来たら、まず結婚するのかと訊いてみる。それから…」
 まるで魔法の呪文でも唱えるように、雄二は静かに語っていく。どれだけ茉優が大事な存在だったのか、この四年間で痛いほど思い知らされたと雄二は言う。はじめは理解できなかった言葉が、徐々に茉優の心を侵食していくように感じた。
「もし茉優が結婚していなければ、もう一度俺にチャンスをもらいたい」
 雄二はそう言ってじっと茉優の瞳を見つめた。時間が止まってしまったようだった。ちゃんと別れるつもりで訪れたのに、この状況は何なのだろう。もし、これが映画の一場面だとしたら、観客である自分はどう思うのだろうか。そんな思いが、茉優の心に浮かんだ。ハッピーエンドなのか、それともバッドエンドなのか。やがて厨房からカウンターの外へ出てきた雄二は、入口のドアの鍵をかけた。茉優の隣に座る。
「もう一度、俺とやり直してほしい」
 太い腕が茉優の肩を抱き寄せた。無抵抗なのをいいことに、そのままくちびるが近づいてくる。その時、バッグの中からLINEの着信音が聞こえた。
 咄嗟に茉優は雄二の腕を振り払い、席から飛び降りていた。怒りがこみ上げてくる。身勝手な男のエゴを目の当たりにした思いがした。
「そんなこと、今さら言うんじゃないわよ」
 腹の底から声が出た。この四年間にため込まれた負の感情が、すべて外に出てこようとして喉を押し上げているようだった。吐き出せば吐き出すほどに、意識が清んでいく気がする。罵詈雑言を雄二にぶつけながら、その全てが自分のことなのだと茉優は気づいていた。
 雄二と自分は似ている。茉優はそう思った。あの四年間は、似た者同士の共依存の関係にしか過ぎなかったのだ。この店を訪ねたのは正解なのだろう。自分自身を見直せないまま続けてきた婚活が、上手くいくはずなどないのだと茉優は思い至っていた。
「それでも俺は…」
 さんざん茉優が喚き散らした後、長い沈黙の後で雄二は何かを言いかけた。だが、その言葉はドアを激しく叩く音で打ち消されてしまう。
「おい、営業中なんだろ」
 店の常連が入口のドアを叩く音だった。看板の電気はついているのだから当り前だろう。雄二は暗い顔でドアの鍵を開けた。三人の中年男が雪崩のように店の中へ入ってくる。
「何だよ、客もいるんじゃねぇか」
 茉優を見た酔っ払いのだみ声男は、早速入れなかったイライラを雄二にぶつける。連れの好色そうな痩せた男は、茉優を物欲しげな目で撫でまわすように見ながら下卑た笑い方をした。
「何だよマスター、あんたのこれかい?」
「鍵なんか閉めて、二人でスケベなことしてたんだろう」
 これ見よがしに小指を立てて突き出した中年男の厭らしさが、一気に店の中に充満した。空気がベトベトとまとわりついてくる。これ以上、この店にいても仕方がないと茉優は思った。もう二度と雄二に会うこともない。これでしっかり終わりに出来たのだと、とてもサバサバした思いが胸の中を満たしていた。
「じゃあ、私はこれで」
 財布からマティーニの代金として千円札をカウンターに置き、茉優は足早にドアに向かった。もう帰っちゃうのと笑い声の混じっただみ声が背後から聞こえる。そんな雑音は無視したまま、茉優はさっさと店の外に出た。誰かが追ってくるような気配はしなかったが、とにかく地下鉄の駅まで必死に歩く。改札を抜けホームに辿りつくと、ちょうど上りの電車が滑り込んできたところだった。
 正確な行き先も確かめないままで車両に乗ると、やっとこわばっていた感情が動き始める。もうこの駅で降りることもないのだろうという感傷に、少し目頭が熱くなった。やっと何かから卒業できた気がした。
 その時、またLINEの着信音が響く。バッグからスマートフォンを取り出し、アプリを開いた。分かっていたことだが、平山輝夫からのメッセージを確認した瞬間、嬉しさがこみあげてくる。
 いつものように、輝夫は茉優への思いを綴っていた。だがその最後に、いつもと違う一文があったからだ。
《今夜、電話で話したいんだけど、夜中に通話してもいい?》
 茉優は輝夫からのメッセージにもちろんと返事して、今どこにいるのかとスタンプで訊ねた。すぐに、まだ会社だと返事がくる。輝夫の会社は今乗っている地下鉄線の五駅先だった。
《これから会おうよ! 駅に着いたら電話する》
 茉優はそう手早く打ち込んで画面を閉じた。本当に好きな気持ちがあるなら、ほんの一瞬でも会う時間を作れない訳がない。茉優は輝夫の返事がどんなものでも、今夜は彼を訪ねて行こうと心に決めた。
 バッグの中では着信音が続いている。何となくだが、茉優の耳にはその音が喜んでいるように聞こえた。


※生きているだけで色々な出来事があります。選択肢が無数にある毎日。
ある程度時間がすぎないと、その意味すら分からないこともたくさんありますね。
そんな気持ちで書いた物語です。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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