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愛しき人 [短編小説]

 また誰かと勘違いしているのだろう。佐々木希美はお湯に濡らしたタオルで男性利用者の身体を拭きながら、そんなことを考えていた。短い昼寝の間に失禁したのだが、自らパットを引き出してしまったためか、上着までぐっしょりと尿で濡れている。とにかく早く着替えさせて、ラバーもシーツもすべて取り替える必要があった。老人の言葉にしっかりと受け答えしている暇はない。適当に相槌を打ちながら、手の動きを速めた。
 今年で八十七歳になるその加藤という老人は脚が思うように動かせない。認知症もかなり進んでいて、いつも同じ事ばかり話している。今も全裸でベッドに腰かけたままダンスの話をしていた。昔、ソーシャルダンスの講師をしていたのだそうだ。もうステップを踏むことも出来ない身体なのに、この瞬間はそれを自覚できない。今夜は一緒に踊りに行こうと希美を誘う。
「ワイフには仕事だと言っておかないといけないな」
 加藤老人は妻の事をワイフと呼んだ。すでに妻は他界しているが、その認識は全くない。まるで時間が過去のどこかで止まってしまったかのように、老人は人生のある季節の中を繰り返し生きている。
 加藤老人が希美を旧知の誰かだと思い込んでいると感じ始めたのは最近の事だ。気分のむらが激しいため、加藤は他の介護士たちから苦手だと思われている。食事がまずいと怒鳴ったり、入浴を拒絶したり、夕方には決まって家に帰ると言っては暴れるからだ。そして時に認知症からくる混乱のためか、手当たり次第に物を壊した。入って来たばかりの若い介護士が自信を失くして辞めていくきっかけになったことも一度や二度ではない。
 だから希美は、加藤老人の世話を自分が引き受けることにした。施設の管理者でもあるし、介護の経験もスタッフの中で一番長い。だがそういった責任感だけではなく、家族からも見放され、帰る家のない加藤老人への同情もあった。亡くなった自分の父親と同い年であるというのも理由のひとつだったかもしれない。
 昼間はデイサービスに通い、夜は高齢者向けのシェアハウスへと帰っていくだけの余生。それも介護士が常駐している特別養護老人ホームやグループホームではなく、家賃の安いシェアハウスにしか入れない。
 昔から仲の良かった榊原というケアマネージャーに相談されたのが加藤老人と出会うきっかけだった。家族は極力老人と関わりたくないらしく、全てを彼女に一任してきたらしい。
 はじめて見学に行った時、その高齢者向けシェアハウスの状況に希美は呆然とした。動ける住人たちは勝手に違う部屋に潜り込み、寝床を占領していたりする。シェアハウスというよりもたこ部屋のような有様だ。また介護士の手も足りないらしく、何週間も風呂に入っていない利用者が何人もいた。加藤老人もその中の一人だった。
 施設にも言い分はあるのだろう。入浴を拒否する利用者は多い。ましてや男性の場合は、暴れられると女性の介護士ではどうにも手がつけられないものだ。だが、希美には単純に許せないという気持ちが湧いた。ケアマネージャーの榊原もきっと同じ気持ちだったのだろう。彼女は昼の間、加藤老人をデイサービスで引き受けられないかと提案してきた。
 希美も異存はなかったし、他の利用者で似たケースもある。一応持ち帰って社長にはかったが、よくやったと褒められた。根っから商売人の社長は、その施設の利用者をもっと獲得できないかと言い出したほどだ。
 高齢化が叫ばれ続ける中で、狭い地域の中にデイサービスやグループホームが乱立していく。希美が介護の仕事をするようになった頃より何倍も増えているだろう。そして増えた分だけ、利用者を取り合っている。今のデイサービスも当初は定員いっぱいまで利用者がいたらしい。だが今の稼働率は五割程度にまで落ち込んでいる。社長が諸手をあげて喜んだのもうなずけた。
 しかし、加藤老人を受け入れる事にはリスクもあったのだ。経験の浅い介護士では歯が立たない。辞めた人間たちはもちろんだが、残っていた介護士たちも大なり小なり加藤老人への不満を口にした。
 福祉大学に通う大学生のアルバイトが辞めたいと言い出したのを機に希美は決断を迫られた。子育てを終えた主婦のベテラン介護士がパートで来る日を自分の休みに当て、それ以外の日は希美が加藤老人を受け持つシフトにしたのだ。

「加藤さんって、希美さんに惚れてますよね」
 介護士の本田弘美にそう言われた時、希美は何となく感じていた違和感の正体を突きつけられた気がした。他の介護士の名前は全く憶えない加藤老人が、希美だけは名前で呼ぶからだ。認知症になってからも新たに記憶が定着することもあるのだと、はじめは喜んでもいた。しかし、ずっと一緒にいるとやはりそうではないと思えてくる。
「違うのよ。加藤さんには私と同じ名前の恋人がいたんだと思う」
 先日、珍しく帰り道でラーメン屋に寄った時、希美はそのことを弘美に話した。
「えっ、それって不倫してたってことですか?」
「そうなのかな? でも奥さんには内緒の関係だったみたい」
「それが不倫ですよ。えーっ、ショックだなぁ」
「どうして?」
「ワイフが可哀想じゃないですか」
 弘美は加藤老人のように、あえて妻の事をワイフと言った。最初にワイフと訊いた時は、加藤老人を愛妻家だと思ったし、それは弘美も同様だったらしい。実際、老人の話には数多くワイフが登場した。
「あんなお爺ちゃんにも不倫の経験があるんだなぁ」
 最後まで大事にとっておいたチャーシューを噛みしめながら弘美がしみじみと言った。
 その時は「人に歴史ありってことね」と軽く流したものの、弘美に話してしまった事で、加藤老人のことを変に意識するようになっていた。何気なく腰に触れてきた手を払ってしまったこともある。それまでは聞き流してきたが、意識して聞くと、言葉の端々に特別なものが潜んでいた。
 入浴時の介助でも、言動や態度に男と女の関係が見え隠れする。何より老人の身体が反応していた。自分に対して性欲を向けられていると感じた時、はじめは驚きしかなかった。
 認知症の高齢者にも人としての欲求はもちろんある。特に一次欲求が激しくなる人もいた。だが男性の屹立した陰部を目の当たりにするのは、やはり抵抗がある。さり気なく他の介護士に訊ねてみたが、加藤老人がそんな反応を見せるのは、希美だけだとわかった。過去の特別な何かと関連している。他の利用者と違って、加藤老人から自分への性的なものを感じてしまうようになったのはそれからだった。
 もちろん、そのことは弘美にも他の介護士にも話していない。入浴の介助は単独の作業だ。狭い浴室で利用者と二人きりになる。浴室に入る度に反応してしまう加藤老人の身体を前に、いつも希美は目のやり場に困った。
 椅子を他の利用者と逆向きにしたのも、少しでも身体を見ないようにする工夫だ。脚が思うように動かない加藤老人を座らせるのには手間取るが、座らせてしまえば背中ごしに介助が出来る。頭も背中も後ろから洗い、最後に石鹸のついたタオルを渡す。
「前はご自分で洗ってくださいね」
 いつもそう言ってから、脚も後ろから洗うようにした。とにかく陰部を見ないで済むようにと考えての事だ。あとはシャワーで身体の泡を流し、目の前にある手すりにつかまらせながら湯船に移動させる。全てが背中ごしで済むようになった。
 入浴をクリアできて、希美は油断していたのかもしれない。それが、ここ数日起きている失禁問題に関係していると気づいたのが今の状況だった。
 まだ排尿時の意思表示だけは出来ていた加藤老人が、失禁や所かまわず小便をするようになったのは希美が入浴のやり方を変えてから始まったことだと気づいた。
 そして今、カーテンで周囲から隔絶されたベッドに腰かけている加藤老人は全裸で希美に微笑みかけている。前は自分でとタオルを差し出す手を掴まれ引っ張られた。つま先立ちだったのでバランスを崩した希美は、そのまま前に倒れ込んでしまう。その目の前に、加藤老人の屹立した陰部があった。
「もう我慢できないんだ」
 まるで正気のような口ぶりで、加藤老人は異常な事を言った。不倫の相手との間に、こんな過去の場面があったのだろうか。食べた物のことを五分後には忘れてしまうのに、遠い過去の場面をこうして思い出すのだとしたら、とても不幸な病気だと希美には改めて思えた。
「ダメよ。奥さんがいるでしょう」
 とっさにそう言ってしまって希美は驚く。加藤老人に引きづられて、自分の過去が曝された気がした。思わず老人の顔を見てしまう。加藤老人は切なげな顔をして、希美を見つめていた。その表情が、かつて見知った若い男のものと重なる。似ていたのだと初めて気づいた。周囲の誰からも見えない狭い空間の中で、希美の心臓の鼓動が速くなった。
 
◇◇◇ ◇ ◇◇◇
 
「それで、どうしたんですか」
 その日の夜、また帰りが一緒になった弘美とラーメン屋に寄った。弘美は常連らしく、一緒だとサービスが良い。希美のラーメンにはシナチクとウズラの卵が多めに盛られていた。
「どうって、特に何もしないわよ」
 食べながら加藤老人のことを話した。スタッフ間の業務的な申し送りでは話しずらい。ケアカンファレンスでは話そうと思っていたが、その際にどう伝えようかも迷っていた。だから少し経緯を知っている弘美に投げかけてみたのだ。
 もちろん詳細にではない。自分に過去の不倫相手を重ねているのか、性欲を向けてくるのだということをかいつまんで話しただけだ。最近の失禁も所かまわず小便をしてしまう行動も、希美に見せたいという衝動によるものかもしれないとも話した。
「あんなお爺ちゃんになっても性欲があるなんて哀しいですね」
 いつものように麺をすする弘美の声が、一瞬泣いているように聞こえる。哀しいという言葉がことさら胸に刺さった。
 男と女の関係は、なぜこんなにも哀しいのだろう。そんな疑問が胸の奥から浮かび上がってくる。希美が別れた恋人こそ、男女の関係になったずいぶん後で結婚していると告白した最悪の男だった。知らないうちに不倫の片棒を担がされていたのだ。
 一気に心が冷えた。だが別れを切り出した希美を男は手放そうとしない。しつこく付きまとわれた。慰謝料を請求されても構わない。その覚悟を決めて、男の妻に全てを話すと脅したことで、やっと関係を切ることが出来た。
 それでも自分らしくないことをしたという後悔が今でも残っていた。普通の別れ以上に傷ついたといえる。ずっと互いに束縛しない関係でいられたのに、最後は泥沼だった。新しい恋をすることが出来なくなった。だが、そんな相手の顔が加藤老人と重なった時、あんなにも鼓動が激しくなったのだ。希美は自分の気持ちがわからなくなっていた。
「希美さんって恋人はいるんですか?」
 弘子の声で我に返る。急に突っ込んだ質問をされたので、一瞬きょとんとしてしまう。年が離れているので、あまりプライベートな話をしてこなかったが、今日は希美のまとった雰囲気がそんな質問をさせやすくしたのかもしれない。
「今はいないのよ。ちょっと嫌な別れ方をしてね」
「希美さんって美人だから、しつこく付きまとわれたんじゃないですか」
 弘美はそう訊きながら、また麺をすする。同じ言葉を返してやろうかと思ったが、希美はそれを飲み込んだ。話しだすと全部話してしまいそうだった。無言は肯定に他ならないと感じつつ、弘美にならそう受け取られていても嫌ではないと思えた。
「きっと男って何歳になっても男って生き物なんですよね」
 弘美は最後にチャーシューを頬張りながらそう言った。
「女だって何歳になっても女だよ、きっと」
 なぜか反論したくなって、希美はそう返した。若い男の介護士が来れば、老いた女性たちの間にもとたんに華やいだ空気が漂う。希美はそう感じていたことを話した。
「そりゃ確かにそうですけど、それって性欲とは違いますよね」
 弘美は主張を曲げない。彼女がとんでもない暴力男から逃れてこの街に来たことは、当初に聞いていた。それ以前にもつき合った男には苦汁を舐めさせられていたそうだ。だから男について語るその言葉には重みがある。
「結局、男ってのは幾つになっても獣なんですよ。女はちゃんと人間になるんです」
「じゃあ、弘美ちゃんは誰とも結婚しないの?」
 希美は思わずそう訊き返した。それが出口のない自分の答えにも繋がるかもしれないと思えたからかもしれない。
「たまに獣の度合いが低い男っているじゃないですか」
「植物系って意味?」
「ああいうのじゃなくて、男なんだけど獣の度合いが低い人ですよ」
 弘美の中には誰か明確なイメージの重なる人がいるようだ。ちょっとだけ思い浮かんだ人がいた。前任の管理者の大野だった。離婚してずっとひとりで娘を育てていたが、昨年の夏に別れた妻と復縁している。今は横浜にある系列のデイサービスで管理者を務めていた。
「なんか大野さんみたいね」
 弘美の自論が白熱しそうだったので、希美は何となくそう言ってみた。弘美の表情が変わった。そういうことだったのかと勘づいて、思わず笑いがこみ上げてくる。
 初対面の時に青白い顔で倒れてしまった弘美が、今はバリバリと介護士の仕事をこなしている。そのバイタリティはまぶしいほどだった。その活力の根源に、大野という男性がいるなら、それはそれで悪い事ではない。男と女として結ばれることはないにしても、人としての繋がりは一生続けられるからだ。
 弘美は懸命に胡麻化そうとして話題を変えた。恋しい人がいるということは良いことだなと改めて希美は思う。いつまでも過去に捕らわれていてはいけないのだと、素直に思えた。加藤老人との出会いも、そういう意味があるのかもしれない。急に心の中を覆った闇が消えた気がした。
 デイサービスに来る利用者は過去の中に生きている。枯れた身体をもてあましながら残りの人生を無駄遣いさせてはいけないと思えた。過去に生きているなら、その過去をもっと陽の光のもとに引き出してあげたい。希美はずっと心のどこかでくすぶっていたものを、思いきり実行してみようと思った。
「ねえ弘美、利用者の人に過去の恋愛を訊いてみない?」
「えー、加藤さんみたいに不倫の話が出てくるかもしれないですよ」
「それでもいいのよ。愛する人を思う気持ちが何かを変えるかもしれない」
 加藤老人の場合は、まだ希美に覚悟がなかった分、悪い方に進んでしまった。考えてみると、別れた男を追い詰めたのも、逃げる事ばかりを考えた自分にあったのかもしれない。そう希美は思った。
「初恋の人かもしれないし、不倫の相手かもしれない。でも案外、奥さんや旦那さんが多いかもしれないよ」
 相手は誰であっても良いのだ。濃密な時間が記憶を刻み込むのだとしたら、その記憶を生きた証として残すべきだと希美には思えた。ありふれた日々の記録を連絡帳で家族に渡すより、利用者一人ひとりのオーラルヒストリーを残してあげることにこそ意味がある。
 珍しく熱く語りはじめた希美を、弘美はまぶしそうに見つめた。
「それ、いいですね」
 弘美の反応に、話していた希美もやる気が増した様子だった。
「明日、一人ひとりのノートを買っていくね」
「でも、加藤さんはどうします? 不倫の思い出は家族も喜ばない気がするなぁ」
 弘美はそう言って顔をしかめた。「その心配はないんじゃないかな」と希美が答える。妙に確信めいて聞こえた。
 弘美が興味をひかれた顔で希美を見つめる。希美の確信には、今日の出来事が深く関係しているから、詳しく理由を話す訳にもいかない。だが、そのまま言葉を濁して終わらせることも出来そうになかった。
「結局ね、加藤さん、紀子って言ったのよ」
「えっ、紀子って亡くなった奥さんの名前じゃないですか」
「そうなの。いろんな思い出が、きっとワイフと重なってるのね」
 認知症の加藤老人から真実を聞き出すことはもはや出来ない。だが、はじめは「ワイフには仕事だと言っておかないといけない」と言って別の女性の存在を匂わせていた老人が、切実な表情で求めていたのは、結局六十年以上連れ添った妻の名前だった。
 人の人生は、最後の最後にはフィクションになるのかもしれない。そう希美は思った。人の脳は勝手に記憶の糸を繋ぎ直して、新たな物語を作りあげていく。老いない人は誰もいない。誰もが必ず通る道なら、それを残された者たちに手渡すことは大事な事だと思える。
 希美はカウンターに置かれていた紙ナフキンを一枚手に取ると、ボールペンで文字を書いた。
「愛しき人?」
 横から覗き込んだ弘美が文字を声に出して読む。
「いいタイトルでしょう? ノートの表紙に書くのよ」
 そう言いながら、希美はナフキンを店の照明に重ねてみた。くっきりと浮かんだ文字の向こうに、まだ見ぬ誰かのシルエットが浮かんでいた。


※最後まで読んでくださり、ありがとうございました。この作品は『紫陽花の咲く庭』の連作短編です。ぜひ、こちらも読んでみてください。


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