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なごり雪 [短編小説]

 雪が降ると、初めて恋人として深くつき合った加藤俊輔のことを思い出してしまう。彼がよく連れて行ってくれた都心のビルの36階のレストランから、一緒に雪景色を眺めた日。雪が下へと落ちていく光景を二人で見つめながら、初めて人の目を気にせずにキスをした。
 ずっと年上の男だった。私は大学を卒業したばかり。4月になれば社会人として働かなければならない。そんな、学生として最後の春休みを俊輔と過ごしていた最中に、あのなごり雪が降った。
「これからは会いにくくなるね」
 長いキスの後で、彼は私の髪に頬を押しつけながらそう言った。私の手は彼のコートのポケットの中でぎゅっと握りしめられている。ふいに「今夜は帰らなくていいんだろ?」と問いかけた俊輔の熱い吐息が、今だにはっきりと記憶の底に残っていた。
 そのままレストランで高級なディナーをご馳走になり、最上階のバーで雪景色の夜景を眺めながらお酒を飲む。ほろ酔いになった私は、そのまま予約されていたホテルの部屋に連れていかれ、全てを彼に与えた。
 彼を身体の中に迎え入れた時、痛みとともにそれ以上の心地良さがあった。初めてでありながら、私はその快感に溺れた。何度も繰り返される動きの中で、やがて頭の中まで外の雪景色のように白くなっていく。それまで経験のなかった私と違い、彼は女の身体を抱くことに慣れていた。当然と言えば当然だが、水の流れのようにスムーズな動きの中で、私はただただ翻弄される枯葉のようだった。

 なぜ俊輔と別れたのだろう。今でも理由ははっきりしない。別れを切り出したのは、確かに私自身だった。だが、本気で別れたいと思っていたのかと訊かれれば自信がない。彼が引きとめてくれさえしたら、簡単に撤回したであろう程度の覚悟だったように思う。だが、彼はすんなりと受け入れた。
「きっと靖子には、もっと若くて、君に似合いの男が現れるさ」
 最後に俊輔はそう言った。私は社会人になって一年が過ぎた頃だ。仕事でもプライベートでも、彼に教えてもらったことがたくさんあった。どこを探っても、嫌な思い出はひとつもない。それでも別れたのだ。
 あれからもう7年になる。営業職ということもあって出会いは多い。言い寄ってきた男はたくさんいた。実際、その中の何人かとつき合ったが、誰とも長続きしない。振り返ってみれば、全員が俊輔とどこか似ていた。まず5歳以上は年上であること。体育会系ではなく基本的にインドア志向であることも、好きな食べ物や酒の好みまでもほとんど同じだ。
 デートの行き先も似ている。映画館、劇場、美術館にプラネタリウム。そして、何度目かのデートの後には都心の洒落たホテルで身体の関係を持った。それから一年ほどでお決まりのように別れ話になる。まるで賞味期限が切れるように、男たちは私を手放していった。

 そんなことを繰り返しながら、もうすぐ私も三十歳になる。とうとう故郷から見合いの話が届いた。親戚の中に「松子おばちゃん」と呼ばれている、やたらと世話好きな叔母が一人いる。これまでは父や母が防波堤になってくれていたようだが、さすがに結婚の兆しもないまま三十路に足を踏み入れようとしている娘に危機感を感じたようだ。今度ばかりは、むしろ叔母に協力しているらしい。
「靖子ちゃんが帰省できないなら、東京でお見合いの席を設けるから」
 見合いが嫌で年末年始も帰省しないことにしたのだが、叔母は強硬策に出てきた。年始早々に、都内のホテルで食事の席を企画するから来いというのだ。母に泣きついてみたが、もう叔母が段取りをつけてしまったらしい。
「相手様もあることだから、今回だけは承諾してちょうだい」
 むしろ逆に母から泣きつかれてしまった。狭い田舎街の人間関係を壊されてはたまらないという母の言葉に、私は仕方なく見合いをすることにしたのだ。
 まさかそれが、私の人生を大きく変えることになるとは、その時は全く予想もしていなかった。

◇◇ ◇◇ ◇◇◇

 正月の松も取れた一月はじめの吉日、私はそれなりに着飾った姿で叔母が組んだ見合いに臨んでいた。我ながら極度に緊張しているのが分かる。
 まず、その場所が驚きだった。かつて初めての恋人だった俊輔と来た、例の36階にあるレストランだったのだ。
 世の中は広いようで狭い。叔母は上京すると、必ずこのレストランで食事をするのだそうだ。もうずっと昔からだというから、私が俊輔とつき合っていた頃も、叔母はこのレストランによく来ていたことになる。案外、ニアミスしていたのかもしれない。
 そんなことを考えているうちに見合い相手を連れた叔母が現れた。今回は、あくまでも当人同士を引き合わせる場になっている。だから父も母も上京はしなかった。
 現れて早々、叔母はキョロキョロと私を探している。とてもこのレストランを贔屓にしているとは思えないような、ひどく田舎臭い動きだった。その隣で、背の高い男が恥ずかし気に下を向いて立っている。見合いの相手である工藤正彦だった。
 工藤は私と同様に東京の大学に進学し、そのまま就職したらしい。会社は名のある商社で、私の就職先とは雲泥の差だった。実家は兄が継いだらしく、その点はポイントが高い。結婚したとしても東京に残れる訳だ。
 見合い写真なんて必ず修整されているのだろうと思っていたが、遠目に見ても写真と同一人物なのがわかった。かなりのイケメンだ。年齢は二歳年上。一瞬、胸が高鳴ったが、すぐに疑念がそれを押し流していく。
 条件が良すぎる。どうして彼が見合いなどする気になったのか理由が分からない。そうこうするうちに、叔母がやっと私に気づいた。工藤に何か話している。下を向いていた工藤が頭をあげ、視線が私へと向かった。
 その視線は、私が座ったテーブルに辿りつくまで、ずっとぶれなかった。まるで私が本物かどうかを探るような見つめ方だったと思う。結局、私の方がいたたまれない気持ちになって、途中で視線を外した。それでも工藤が見つめ続けている事は気配で分かる。せいぜい30秒ほどだったろうに、5分以上時間が過ぎたような気がした。
「靖子ちゃん、お待たせしちゃってごめんなさいね」
 テーブルに着いたとたん、叔母は甲高い声をあげる。周囲の客の何人かが訝し気に叔母を見た。連れだと思われたくない気分に襲われたが、何とか笑顔を取り繕った。
「叔母さん、今日はお招きありがとうございます」
 一応、ちゃんと礼を言っておかねばと席から立って頭を下げる。叔母は大袈裟に手を振りながら、そんなのいいのよと言って笑った。
「こちらがね、今日ご紹介する工藤正彦さん」
「工藤です、よろしくお願いします」
 叔母の紹介を受けた工藤は、低い声で名乗る。その声が、俊輔に似ていてまたドキドキした。七年前に引き戻されたような錯覚をおぼえたからかもしれない。
「富永靖子です。こちらこそ、よろしくお願いします」
 月並みな挨拶を交わした後、三人そろって席に着いた。すかさずウエイターがやってくる。叔母は改めて予約していた旨をウエイターに告げ、頼んであったコースを確認した。
「ここの料理はいつもとっても美味しいんだけど、冬場は特にお勧めなのよ」
 そう言うと、特に見合いらしい話をするでもなく、叔母は世間話を始める。私より工藤に多く話しかけていた。とにかく終始嬉しそうだ。まるでお見合いの相手は私ではなく叔母自身のようだった。話しかける質問は、いつしか工藤が考えている将来への展望へと変わっていく。
 工藤も、特に嫌がる様子もなく、叔母の質問に真っ直ぐに答えていた。子どもは二人欲しいとか、マンション暮らしよりも一戸建てを購入したいとか。はきはきと答える姿が、とても誠実そうに見える。そんな話を聞いているだけでも、楽しい時間ではあった。
 コースの料理に舌鼓を打つうちに、時間はどんどんと過ぎていく。最後にデザートをという頃になって、急に流れが変わった。
「靖子さんは、お休みの日は何をしているんですか?」
 急に工藤がそう訊ねてきたのだ。いつの間にか話を聞く側になっていた私は、ひどく面喰ってしまう。
「特に何もしてません」
 ひどくぶっきらぼうに答えてしまった。叔母が露骨に嫌な顔をする。
「靖子ちゃん、いつも美術館に行ってるって言ってたじゃない」
 いつそんなことを言ったろうと思ったが、確かに美術館にはよく行っていた。先週もゴッホ展に行ったばかりだ。とっさにそう答えられなかったのが、急に悔しくなった。
「素敵な趣味ですね。ぼくは美術館とか疎くて。いつも外を飛び回ってます」
 そう言って笑う工藤の笑顔に、また胸が高鳴った。もしかしたら一目惚れなのかもしれないと思い、余計に態度がぎこちなくなってしまう。
 顔に惹かれただけではない。これまでつき合った事のないタイプなのが短い時間の中でも分かった。やはり見合いは恋愛とは違う。普通なら言葉を交わす以前にすれ違ってしまう人と、こうして話す機会があるのだ。
「外を飛び回ってるって、いまみたいな冬の季節も?」
 お返しのように質問してみた。きっとスキーかスノボーという答えが返ってくると思っていた。だが、工藤はまるで見当もつかなかったことを返してきた。
「祭が好きなんです。だから日本中の祭を飛び回ってますよ」
 工藤は主に東北地方で行われている冬の祭に足を運ぶのだという。毎年参加しているというものだけでもかなりの数だった。
「来月も、岩手県の一関市でやってる大東大原水かけ祭りに参加します」
 大東大原水かけ祭りは、火防祈願、無病息災、大願成就を祈願して行うのだという。男たちが裸で町の中を走り抜け、沿道で待ち構えた人達が桶を持って待ち構え、諸々の願いをこめて男達に容赦なく冷や水を浴びせかけるという祭りだ。江戸時代から続く伝統的な祭りで、極寒の2月に行われることから天下の奇祭と呼ばれているらしい。
「そんなことして風邪ひいたりしません?」
 思わず目を丸くして叫んでしまった。また工藤が笑う。
「風邪なんかひかないために、日頃から鍛えてるんです」
 外を飛び回っているという言葉には、日常の鍛錬も含まれていたのだろう。確かに背広の下には鍛えられた筋肉の気配がする。極寒の中で水をかけられ、湯気をあげている男の肉体が脳裏に浮かんだ。
「まあ、一度裸が見てみたいわ」
 急に叔母がそんな奇声をあげる。また周囲の客が訝し気に叔母を見た。恥ずかしくなる。だがその時、いつの間にか叔母抜きで工藤と話したがっている自分を見つけてしまった。そちらの方が恥ずかしくて、顔が一気に熱くなるのがわかった。
「あら、嫌だこんな時間」
 叔母がまた急に声をあげる。
「今日はね、もうひとつ予定が入ってるのよ。デザートを食べそこなっちゃうけど、二人で分けて食べて」
 そう言うと、叔母はさっさと帰ってしまった。その段になって私も、全ては叔母の計算通りだったのだと理解した。さすがに何組もの縁談をまとめているだけのことはある。押しつけがましい見合いではなく、お互いにもっと話したいと思える場づくりに徹したのだろう。
「代金は支払済みだそうです」
 工藤は叔母からのLINEを見た。私も自分のスマホを確認すると、同じメッセージが叔母から届いていた。「後で電話するわ」という言葉の後に、タヌキのスタンプがポンと現れた。
「面白い叔母さんですね」
 スタンプのタヌキの風情が叔母と重なって、私も笑ってしまう。
「もう少しお時間いいですか? お話ししたくて」
 工藤が遠慮しがちにそう言う。私に異存はなかった。そのままレストランでゆっくりとデザートを食べながら語り合い、せっかくだからと最上階のバーにも行った。
「また来たいですね。誘ってもいいですか?」
「もちろん。こちらこそ喜んで」
 私は嬉しくなって、居酒屋の店員みたいに威勢よく答えてみた。また工藤が笑う。一日でその笑顔がとても好きになった。そして今夜だけで、かつて恋人だった俊輔と一緒に過ごした店が、二軒も新しい思い出の場所に変わるきっかけを得られたのだ。
(見合いも悪くなかったな…)
 その時、私は確かにそう思っていた。

◇ ◇◇◇ ◇ ◇◇

 三日後、叔母から電話が来た。私は新しい恋に踏み出せる予感で浮かれていたかもしれない。電話に出てからも、しばらくは叔母の声の暗さに気づかなかった。
 さんざん一方的に話した後、受話器の向こうで黙り込んでいる叔母の様子にやっと気づいた。
「どうしたの?」
 そう問いかけて耳をすますと、叔母が息を吸い込む音がした。
「ごめんね、靖子ちゃん」
 きまりわるそうな声が響く。叔母らしくない沈んだ声が、すでに見合いの不首尾を告げていた。
「工藤さんから、今回の話はなかったことにって…」
 全く訳が分からなかった。だから、叔母が帰った後、店を変えて飲み明かしたことまで話してしまう。叔母はそれも知っていて、だから駄目だったのだろうと言った。
「工藤さんね、靖子ちゃんは都会風に洗練されてて、自分では相手として似合わないって」
 私は自分が都会風に洗練されているとは思ってもいなかったので、耳を疑った。
「どういう意味ですか?」
 つい訊き返してしまう。工藤が語ったという私の印象は、あまりに意外な言葉だったからだ。
「靖子ちゃん、あのレストランにもよく行ってたそうね。最上階のバーも初めてじゃなかったって。工藤さん、あなたが昔誰かと来てたんだろうって思ったそうよ」
 急に冷たい水を浴びせられた気がした。たとえ酔っても、昔、恋人と二人でよく行った店だとは話していないはずだ。それでも工藤は何かを感じたのだろう。確かに店の雰囲気にも慣れ親しんだものがあった。大学生時代から足を運んでいたことも、酔いの勢いで話したのかもしれない。
「私も靖子ちゃんに相談しなかったのがいけなかったのよ。でも、靖子ちゃんがあんな高いお店に昔からよく行ってたなんて思いもしなかったから…」
 その叔母の言葉には微かに非難する思いが感じられた。様々なカップルを結婚に導いてきた叔母は、きっと男と女のことにも詳しいはずだ。一時的なものとはいえ、あんなに自然に私と工藤をひかれあうように仕向けたのだから、きっと酸いも甘いもよく知っているのだろう。その叔母が、今、受話器の向こうからじっと私の様子をうかがっていた。
「靖子ちゃんも、きっといろいろあったんだろうね」
 私はそれ以上何も言えなくなった。ただひとつ言えることは、これから新しい恋を見つけるためには、過去としっかり向き合わねばならないということだった。
 今の自分には、目に見えない何かが染みついている。それに気づかないまま過ごしてきたことが、似たような男を好きになり、結果同じような別れを経験することの原因だったのかもしれない。
 今回、工藤は過去につき合った男たちとは異なるタイプだった。その異質さに魅かれながらも、私はこれまでと同じように染みついた何かを漂わせながら彼に接してしまったのだ。それはまさに俊輔の呪縛ともいえるものだった。
「叔母さん、これに懲りず、また誰か紹介してくれませんか」
 私は沈黙してしまった受話器に向かって、静かにそうつぶやいた。
「今度、二人だけで呑もうか?」
 叔母の声が遠くから、だがはっきりと聞こえてきた。
「私が何で人のお節介を焼くのかも、ちゃんと話したいわ」
 叔母は若い頃に離婚して、息子を女手ひとつで育て上げたのだと母から聞いたことがあるのを思い出した。叔母もなかなかの苦労人なのだろう。
「女はさ、最後はみんな一人なの。でもね、だからこそ一度はちゃんと結婚してみるのが大事なのよ」
 叔母はすでにいつもの明るい声に戻っていた。心から叔母と飲んでみたいと思った。そうすれば、きっと自分は変われるだろうという予感がした。

 続きは呑んだ時にと言って叔母が電話を切った後も、私はしばらく受話器を耳に当てたまま、部屋の窓から見える夜景を眺めていた。人生を変えてしまうことって本当にあるんだとその時思った。
 ふと、窓ガラスに無数の水滴がつき始めているのに気づく。よく見ると、雪の結晶が溶けていく様子だった。受話器を置き、歩みよって思いきり窓を開けると、降りはじめた雪が風に乗って吹き寄せてくる。なごり雪ではないけれど、思い出のなごりが雪になって降りはじめたように感じていた。
(去年より君は綺麗になった…)
 俊輔が好きだったフォークソングを口ずさんでみる。よくカラオケで歌ってくれた歌だ。歌の中で「東京で見る雪はこれが最後ね」と寂しそうにつぶやくのは彼女の方なのだが、私たち二人の間では俊輔がそう言った。
 あの言葉の通り、二度と会うことはなかった。二度と一緒に雪を見ることはなかったのだ。いつも幻を追いかけていたのは私だった。
(ちゃんと貴方から卒業しますね)
 黒い空から落ちてくる雪を見ながら、私はそうつぶやいた。そのためにも叔母には包み隠さず話そう。それには勇気が必要だが、その勇気を持った分だけ、私はきっと大人になれるのだろう。
 雪はそんな私の思いを応援するように、次から次へと舞い落ちてきては、溶けて消えていった。それはまるでずっと外れることのなかった心の呪縛が解けていくようでもあった。

※もうそろそろ雪の季節ですね。今年は関東にも降るでしょうか。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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