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金木犀 [詩]

懐かしい 
 老爺がつぶやいた 金木犀の香り
 深い皺に覆われた彼の手の甲が
 一瞬……瞬きをした一瞬
 十代の頃のピンと張りつめた肌に見えた
いつもなら自ら動かすことのない車椅子で
彼はその高さ2メートルほどの樹の下へと向かう

香しい
 老爺が嗅いだ 金木犀の香り
 すっかり白くなってしまった彼の髪が
 風に……吹き抜けた風に
 ゆらりと揺れながら甘い香りをまとっていく
かつてこの国で戦争があったことを知っている
今は郊外のグループホームで暮らすその老爺の
孤独な後ろ姿の傍に ぼんやりとした誰かの影が佇んでいた

  金木犀は挿し木でしか増やせない
  日本には雄株しか来ていないから

彼の言葉には喪失の痛みがあった
冬にクコの実ほどの小さな実をつける雌株は
海を渡った異国の地にある

懐かしい 
 私も思う 金木犀の香り
 あの老爺は…古きむくろを脱いだ老爺は 
 会いたかったその人と再会できただろうか
秋の空は淡く青く そしてどこまでも高い 
この空の向こうにも 
金木犀の香りは届いているだろうか

◇◇◇ ◇◇ ◇◇◇

高齢者の方の傍にいると、「語らない言葉」を感じることがあります。語られる言葉と語らない言葉の間には、私などでは知り得ない深い深い人生の流れがある。生きることの凄さに圧倒されます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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