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夢と知りせば [短編小説]

「花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせし間に」

 狭い教室に美沙子の声が響く。コピー用紙を束ねて作ったテキストには、あちらこちらに赤ペンで細かく書き込みがしてあった。人に教えるからには、やはり万全を期したい。学校ではなく、駅前のカルチャー講座だからこそ実力がないとすぐに職を失うという危機感があった。
 受講生はみんな美沙子より年上だ。そのほとんどは定年退職して数年といった年配の男性たちである。百人一首への興味というより、きっかけは暇つぶしのためという感じが強い。そんなモチベーションを高めていくための工夫をあれこれしてきたことが幸いしてか、今では人気講座のひとつになっていた。
「じゃあ、加賀見さんお願いします」
 美沙子は最初に目が合った受講生を指名した。加賀見はまだ初老の老人だ。歯も丈夫そうで肌も健康的だった。目にも力があり、そこはかとない知性を感じる。だが服装のセンスはまったくいけていない。そのせいで、冴えた感じがしないのだ。本当にもったいないと美沙子は日頃から思っていた。
「いつもみたいに自由に話してください」
 講義に当たって、美沙子はまずは自分なりの解釈を受講生に述べてもらう。三ヶ月間で週二回という講座の中で、百首の全てを解説していくのは難しい。だからテーマを決めて何句かまとめて講義する。この日は女の歌である二十一句を歌番号順に取り上げていた。時間的には三句が限度だと思っている。一句目は持統天皇で二句目がこの小野小町の歌だった。
 受講生の加賀見は、いかにも仕事ひと筋に生きてきたというタイプの男性で、気真面目が服を着て歩いているような印象がある。鞄に何冊も本を忍ばせており、美沙子は彼をたいへんな読書家なのだと感じていた。とにかく男女の色恋などとは別の世界で生きてきた雰囲気を漂わせていたのだ。
 ところが意外な事に、恋の歌の解釈は見事なものだった。当然予習もしているのだろうが、情感の機微をしっかりつかんでいる。そこに独自の経験に基づく意見をしっかりと入れ込んでいるから実に興味深い。美沙子はそんな加賀見の意見を聞くのが楽しみのひとつになっていた。
「春の長雨が降っている間に、桜の花の色はむなしく衰えて色あせてしまった。ちょうど恋や世間のもろもろに思い悩んでいるうちに私の美貌が衰えてしまったように」
 加賀見が独特の低い声で歌の意味を述べていく。好きな声だった。抑揚の付け方が、別れた男に少し似ている。嫌いで別れた相手ではないので、いまでも美沙子には未練があった。疼きを感じる。そんな微妙な心境をくすぐる声だった。

 歌の中で「花」とだけ書かれている場合、古典では「桜」を意味する。この歌の花の色が表すのは「桜の花の色」という文字通りの意味でもあるが、女性の若さや美しさも暗示していた。加賀見はそれを亡き妻との出会いを例に語っていく。自分にとって小野小町の歌は思い出深いものなのだと言った。一瞬だが、老いた風貌に輝きが重なる。本当に不思議な人物だと美沙子は思った。
 結局、短時間の間に加賀見は講師が話すべき内容をほとんど話してしまった。これからは講師を代わりましょうと、美沙子は冗談を言ってみる。受講生たちがどっと笑った。その笑いの中に、幾分嫉妬のような響きも混じっている。美沙子はそれが心地よくもあった。嫉妬のない講座は最終的に盛り上がらない。一見冴えない加賀見にスポットが当たる事で、自分もそうなりたいと奮起する老人が増える。最初の頃は女性の受講者の方が多かったのに、今ではリピーターも含めてほとんど男性ばかりなのもそんな心理が働いたからだろう。
「今、加賀見さんは大事な点を何気なく話してくれました」
 美沙子は加賀見の発言を引き取りながら、独自の視点を加えて解説していく。
「小野小町がこの歌を詠んだのは、何歳ぐらいの時だと思いますか?」
 受講者たちの口から遠慮がちに幾つかの数字がこぼれる。十二単に身を包んだ絵だけでは、イメージがしにくいようだ。さらにそう思う根拠を問いかけてみると、さすがに誰も答えられなかった。
 伝説の美女であり、六歌仙、三十六歌仙の一人として有名な小野小町は、平安初期の女流歌人としてナンバーワンとされる女性だ。だが、正確な経歴は分かっていない。
 この歌をヒントにして、『卒塔婆小町』や『通小町』などといった作品が数多く生まれている。どれも皆、若い頃は絶世の美女と謳われたが、老いさらばえて落ちぶれた人生のはかなさを表現していた。だからなのか、小町がこの歌を詠んだのはだいぶ老いてからだと考える人が多いのだ。
 だが美沙子の考えは違う。きっと周囲に美しいともてはやされていた最中に、彼女はこの歌を詠んだと感じていた。ある朝突然に、容色の衰えを感じる時がある。先日三十歳を迎えたばかりの美沙子には、そんな覚えがあったからだ。

 美沙子は十代の最後に大恋愛をした。それから五年間、その男とつき合い続けたが、最後は互いの家族によって無理やり別れさせられたのだ。慰謝料を請求されないだけ良かったと思え。そう父親に言われた。母は口も聞いてくれなかった。
 確かに誰からも許されない不倫の関係だ。ずっと夢の中でも恋焦がれていた相手だった。だから憧れていた人と恋人になれて、浮かれていたのだとも思う。相手の妻が妊娠中だったにも関わらず、能天気なツイートをSNSでつぶやいていた。だから、見ず知らずの人たちにも「関係を匂わせるなんて酷い仕打ちだ」、「人としてクズだ」と罵られもしたし、ゲームのような感覚で楽しんでいたのだろうと容赦なく叩く人もたくさん現れた。正直、二人の関係が発覚してからは地獄の日々だったといえる。
 それでも男を愛したことに後悔はなかった。年上の彼に、いつも甘えていた。弱さを見せて、彼を試していた。そんな美沙子に、いつも彼は存分に応えてくれたのだ。彼も浮気ではなく本気なのだと、だからこそ五年もの長い期間続いたのだと思いこんでいた。今なら、それが間違いだったと分かる。
 別れたのと同時に、勤めていた大学の助手は辞めた。彼は大学でも期待されていた人気の高い准教授だったので、そのまま大学に残っている。学生たちは入学し、卒業していくから、不都合な事実を知るわずかな者たちはやがていなくなった。別れてからネットを一切見なくなったので、その後の彼がどうしているかは正直知らない。でもきっと彼は安泰だろう。結局彼は、最後の最後で守ってはくれなかった。

 もうつき合っていた時間とほぼ同じ年月が経っている。別れた後、会社勤めをする気にはなれず、美沙子は友人の紹介でカルチャーセンターの講師になった。住む場所としては親が用意してくれたマンションがある。生活費を稼げば生きていけた。だから安い講師料でも引き受けた。大学時代の給料を考えれば、それでも満足できる額だ。好きな古典にどっぷりつかりながら、独りで生きていく。美沙子はそれでいいと半ば本気で考えていた。
 そんな生き方がある意味ミステリアスな魅力になったのかもしれない。美沙子自身が受講生の目当てのひとつだったのは確かだろう。講座は徐々にブームになっていく。
 美沙子の講座の人気を妬む講師もいた。特に教養系の講座は語学や手芸などと比べて案外集客が難しい。実技があるわけでもなく、一冊本でも読めば身に着くレベルの教養だからだ。美沙子がやっている百人一首など、その最たるものだろう。
 だから、人気があるのは美沙子が女であることを売り物にしているからだと陰口を叩かれることもある。はじめはショックだったが、そのうち何とも思わなくなった。生活のためには働かなければならない。後ろ指を指されるような覚えはないのだから気にする必要はないと、いつの間にか思えるようになった。気がつけば、カルチャーセンターの講師をはじめてから五度目の春を迎えていたのだ。

 教室の窓からも桜の花が見えている。最寄り駅の近くを川が流れていて、その川沿いにはソメイヨシノが植えられていた。講座が終わったら、夜桜でも見に行こうかと思いながら、美沙子は講義の締めに入る。その日取り上げた百人一首の歌に対する返歌を受講生たちに書かせるのだ。
 この日は最初の予想通り、女の歌を三句取り上げていた。持統天皇、小野小町、そして伊勢。受講生たちの間を巡回していくと、圧倒的に小野小町への返歌が多かった。読んでしまうと後の楽しみが半減するので、さっと眺めては次へと視線を移す。それでも一生懸命頭をひねっている白髪混じりの老人たちを見ていると自然に口元が緩んだ。何歳になっても恋をしたい男が多いのだと何となく思えたからだった。
 ところが、例の加賀見の横を通ると、美沙子が見る前にさっと用紙を裏返しにされた。よほど見られたくないのか、上半身全体も裏返した紙を隠すように前かがみになっている。気になったが、その場で問いかけるのも憚られて美沙子はそのまま通り過ぎた。
 やがて終了の時間になり、返歌を書いた用紙が集められる。美沙子が後ろの席から前へと送られてきた用紙を受け取ると、礼をして講座は終わった。何歳になっても、講義の様子は大学の講座と似た雰囲気だ。質問に来るような受講生は少ない。みんなそれぞれのペースでそそくさと帰っていく。それでも数人が美沙子を囲んだ。一人ひとりに丁寧に答えていくと、時間はあっという間に過ぎてしまう。
 この日の講座は時間割の最後だったから、いつもより丁寧に答えられた。後ろの講座があるとなかなか全部には答え切れない。次回の最初で今日の振り返りをしましょうと言って帰してしまうのだが、この日は十分に答え切れたので美沙子も満足だった。
 質問が終わって教室を見回すと、すでに加賀見の姿はなかった。どんな返歌を書いていたのか気になって、人気の消えた教室で集めた用紙を見る。だが、列ごとに集めたはずなのに、加賀見の用紙だけ見当たらない。結局、全部の用紙を確認したが、加賀見の書いたものはなかった。どうやら提出せずに帰ったようだ。初めての事だった。
 次の講義は三日後の金曜日だったので、その時に本人に聞いてみようと美沙子は思った。生真面目な性格の加賀見のことだから、書きあげられなかったものを提出する気にならなかったのかもしれない。そう美沙子は思っていた。
 だが、結局次の講座に加賀見は来なかった。受講料は一括で支払われていたが、その返金を求めるでもなく、ただ都合が悪くなったからという理由で退会したらしい。
 一人受講者が減ったからといって、美沙子の実績に傷がつくことはないけれど、何となく気持ちの悪い不可解さが残った。それは他の受講者も同様だったらしく、その後の講義もどことなく活気が薄れたように感じられる。
 やがて心ないひとつの噂が、さも真実であるかのように広まった。美沙子に恋心を抱いて大金を貢いでいた加賀見がひどい振られ方をしたためにカルチャースクールを辞めたのだというのだ。美沙子にしてみれば全く身に覚えのない誹謗中傷だった。
 ところが、はじめは一笑にふしていたカルチャースクールのスタッフたちも、あまりにもまことしやかな噂に飲み込まれていく。ツイッターなどでも匿名のつぶやきがささやかれるようになった。その中には、美沙子がかつて大学で不倫していたことまで含まれている。その時になってはじめて、誰かしらの悪意が関係しているのだと美沙子は気づいた。
 ネガティブな噂は拡がるのが早い。受講生の中で、まず女性たちが講座を辞めていき、続いてその波紋は男性たちにも広がっていった。
「たいへん申しあげにくいのですが、このままだと他の講座にまで影響がでてしまう可能性があるので…」
 桜が散り、そろそろ葉桜のシーズンになろうという時期に、美沙子はスクールの責任者に呼び出され、そう告げられた。
「一身上の都合ということにしていただければ、うちも悪く言うつもりはありません。先生なら、他のカルチャースクールでも人気が出ると思いますから」
 責任者はどこか含みのある口調でそう言った。誰も守ってはくれないのだと実感するのは美沙子にとって二度目だった。

◇◇◇ ◇ ◇◇◇

 美沙子が加賀見の家を訪ねたのは、カルチャースクールに辞表を出した日の夕方だった。スタッフの目を盗んで、こっそり受講生名簿から加賀見の住所をメモしてきたのだ。加賀見の住所はスクールの二駅となりの街だった。
 スマホのマップを頼りに探し歩くと、やがて古いアパートに行きついた。集合ポストで名前を探す。幾つかの部屋は空いているようで名前がない。どのポストにも、たくさんのビラが突っ込まれていた。
 やがて、二階の一番奥の部屋が加賀見の住居だとわかる。美沙子は一度深呼吸してから、錆びた鉄の階段をのぼった。もう辺りはだいぶ暗くなっていたので、人がいる部屋には灯りが灯っている。加賀見の部屋からも、小さな窓から光が漏れていた。
 美沙子が薄汚れたドアをノックする。一回目は何の返事もない。二回目、三回目と力を強めながらノックを繰り返すと、やっと返事があった。一気に緊張感が走る。
「どなたですか?」
 しばらくして、ドアの向こうから声が聞こえた。間違いなく加賀見の低い声だった。
「カルチャースクールで講師をしていた連城です」
 少し迷ったが、嘘をついても仕方がないので、ちゃんと名乗る事にした。加賀見からの返事はない。ドア越しだが、その向こうで固まっている気配がした。
「お話ししたい事があって伺いました。開けていただけませんか」
 ドアの中央にある様子見のレンズを見つめながら、美沙子は真っ直ぐにそう言った。きっと加賀見はそこから覗いていると思った。だから目をそらさずに、心に訴えかけるように伝えたのだ。
「少し待っていてください。部屋が汚れているもので…片付けますから」
 姿の見えない加賀見の声が、そう美沙子に告げた。やがて、ゴソゴソと動き回る音がする。その段になって、美沙子は少し怖くなった。老人とはいえ、ひとり者の男の部屋に入るのだ。無防備すぎるのではないか。そんな躊躇が湧いてきた。
「もしよろしければ、近くの喫茶店でも…」
 美沙子がそう言った時、動きそうになかったドアが開いて、加賀見が姿を現した。講座に来るときは身なりも整っていたが、今はジャージ姿だ。ちゃんと洗濯しているのかわからない不思議な臭いがした。
「着替えるのが面倒なので、うちで聞きます。どうぞ、入ってください」
 そう言うと加賀見は美沙子の腕を掴んで、玄関先に引き入れた。決して乱暴にではないのだが、美沙子の口から小さな悲鳴がこぼれる。だが加賀見はそれを気にする様子も見せず、ドアを閉めるとさっさと鍵をかけた。
「鍵はかけないでください」
 美沙子は必死の思いでそう言う。すでに身体が恐怖ですくんでいた。
「新聞の勧誘やらなんやらが来るんです。鍵はかけます。嫌なら今すぐ出てってください」
 加賀見は当たり前のことだというようにそう言った。
 ここまで足を運んで、何も話さずに帰るのは馬鹿らしい。美沙子は急に冷静になった。何かされそうになったら、必死で抵抗すればいい。まだ時間は夕方なのだ。きっと誰かが悲鳴を聞きつけてくれるはずだと思った。
「わかりました」
 美沙子は加賀見を見据えながら靴を脱いだ。変な動きをすればいつでも応戦する。そんな気構えだった。だが、そんな緊張感はあっけなく消えた。
決闘にでも臨むかのような美沙子の態度を見ていた加賀見が、堪えきれない様子で噴き出したからだ。
「あなたは本当に面白い人だ。とても人の家庭を壊した女性とは思えない」
 そう言いながら加賀見は美沙子に椅子を勧める。部屋の中には書物がぎっしりと詰まった本棚が幾つも置かれていた。

「私は、あなたが不倫した男の妻の父親なんです」
 加賀見はそう言って机の上に置いてあった写真を美沙子に向けた。そこには、かつて美沙子を罵った女性と並んだ加賀見の姿が写っていた。
「不倫相手の妻の旧姓には興味がなかったんでしょうな」
 そう語る加賀見の声が、別れた男の声に聞こえた。
 そういえば一度だけ聞いたことがある。だが、言われるように興味がなかったからすぐに忘れてしまったのだと美沙子は思った。
「偶然でした。たまたま受講した講座の講師があなただったのです」
 加賀見は静かにそう語りはじめた。早くに妻を癌で亡くし、男手ひとつで娘を育てたこと。そんな娘が、自分と同じ古典文学を研究している大学の准教授と結婚したことの喜び。やがて生まれた孫への愛おしさ。だが、その全てが不倫によって壊されてしまった事への怒りと怨み。
「あなたも、この五年間苦しんだのでしょうね。だが、娘も苦しんだ。それこそ命をすり減らすほどに…」
 不倫した男の妻が亡くなった事を美沙子はその時に初めて知った。母親と同じ癌だったそうだ。離婚こそしなかったものの、夫婦としての関係は修復できなかったらしい。孫は男の実家へと引き取られたという。加賀見は、幼い子どもを残して亡くなった娘の無念が、自分を美沙子に引き合わせたと感じたらしかった。
「復讐してやろうと思いました。協力者も募っていたんです」
 加賀見は、美沙子をボロボロの精神状態に追い込もうと策略を練っていたのだと話した。だが、直接講座で接し、美沙子の人柄を知っていくうちに、迷いが生じたのだという。
「あの最後に出席した講義で、あなたも苦しんできたのだと改めて気づいてしまった。あなたも娘も…」
 そこで言葉が途切れる。しばしの沈黙が、加賀見自身の長い苦しみを物語っていると美沙子は感じた。
 小野小町が衰えを感じた年齢についての美沙子の講義は、外面的な容色ではなく心の話だったのだと加賀見はすぐに気づいたのだという。ひとつの恋が終わった時、女は一気に心の衰えを感じるのだ。結局は、美沙子も不倫によって不幸になった被害者だったと気づいた加賀見は、作戦を決行せずにカルチャースクールをやめたのだった。
「だけど、協力者は勝手に動いてしまった。妙な正義感がそうさせたのでしょう。恐ろしいことです。それについては心から申し訳なかったと思っています」
 加賀見はそう言うと、美沙子に白髪の多くなった頭を下げた。
「もういいんです。わかってスッキリしました。すべては私の身から出た錆ですね」
 美沙子はそう言って笑った。作り笑いではなく、本当に心の底から湧き出てきた笑いだった。
「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」
 美沙子が落ち着くのを待っていたかのように、加賀見が歌をつぶやいた。古今和歌集にある小野小町の歌だった。
「あの最後に出席した講義の日、小野小町の歌への返歌が書けませんでした。この歌ばかりが浮かんでくる。私はあなたのことを憎もうと思っているうちに、知らず知らず恋していたのかもしれません。そして、それがまた許せなかったのです」
 そう加賀見は言った。憎むべき敵に恋をした老人。そんな自分が許せなくて、加賀見はカルチャースクールをやめたのだ。しかし、いやらしさなど微塵も感じない。加賀見が抱いたのは、男と女の垣根を超えた人と人の繋がりを求める気持ちなのだと美沙子は素直に感じた。
「あなたを想いながら眠りについたせいでしょうか、あなたに会えたのは。あれが夢だと知っていたならば、目覚めなかったのに…」
 美沙子は小野小町の歌の意味をつぶやいてみた。もう二度と人を好きになる事などないと思っていたが、それは間違いだ。人は何歳になっても、相手とどれだけ年齢が離れていたとしても、高鳴る想いを抱くことはある。
 加賀見に対する気持ちが、いわゆる男と女の色恋だとは美沙子も思っていない。しかし、愛情に繋がる何かではあるという確信はあった。実際、自分をここまで運んできたのは、単なる謎解きの意識ではなく、加賀見に対する想いの強さだったのだから。
「全部夢だったら良かったんですよね…。時々、本気でそう思います」
 美沙子も時々、加賀見の夢を見ていた。どことなくかつて愛した男に似ていたからだろう。そして、加賀見の娘も、きっと父親のことが好きだったのだ。だから、似た雰囲気の男を結婚相手に選んだ。生まれてくる順番が少し違えば、誰も不幸にならなくて済んだかもしれない。納得のいく説明は出来ないけれど、美沙子の心はそう思うことで少し落ち着いた。
「別のカルチャースクールに応募してみるつもりです。この街の駅前にもありますよね?」
 美沙子は加賀見に訊ねた。悪いようにはしないという責任者の言葉をどこまで信じていいかは分からないが、実績など当てにせずに、またゼロからスタートするつもりになればいいのだと思えた。
「あの男は教授になったそうです。今なら、彼と結婚できるかもしれませんよ」
 最後に加賀見はそう言ったが、美沙子の心は揺るがなかった。
「守ってくれなかったのは彼も同じですから」
 嘘偽りのない本心だった。結局、別れた男も、すでに過去でしかない。夢にさえ見ないということは、もう想いに区切りがついているからなのだと美沙子は思った。
 夢と知りせば。今となっては、地獄のようだと思っていた現実の方こそ、夢の中の出来事だったように感じる。今が一番大切なのだと、美沙子は改めて思った。
 言葉を交わすこともなかったはずの人と、こうして向き合い、時間をともにしている。この不思議な縁こそ、かけがえのないものなのだろう。
「もう夕食の時間だから、何か作らせてください」
 慌てている加賀見をいなしながら、美沙子は台所に立った。一応、炊飯ジャーも鍋もある。冷蔵庫を開けると、絶望的なほどに食材はなかったが、辛うじて卵や調味料は揃っていた。
「近くにスーパーがありましたよね? 一緒に行きましょう」
 そう言って、美沙子はさっさとバッグから財布を取り出した。ジャージ姿だからと言う加賀見のしり込みを、ご近所なんだから気にする必要はないと笑い飛ばす。
「今夜は話したい事が山ほどあるんです。つき合ってください」
 そう言いながら美沙子は玄関のドアを開いた。外はすっかり暗くなっている。だが、ちょうど目の前のビルの間から大きな満月が昇りはじめていた。咄嗟に、小野小町が詠んだ歌の中で月が登場するものはなかったかと思いをめぐらせる。
「人に逢はむ、月のなきには思ひおきて、胸はしり火に心やけをり」
 想う人に逢う手立てのない夜には、起きていても胸を焦がす火に心が焼けてしまいますという意味だ。「月」と手段や方法を意味する「つき」という言葉の掛詞になっている。少なくとも「つき」はあった。心が焼けてしまうような苦しみはすでにない。
 もたついている加賀見を急かしながら、美沙子はもう一度満月を見つめる。その白い輝きの中で十二単に身を包んだ小野小町が静かに笑ったように感じた。

※『12星座の恋物語』シリーズを掲載していた時に、好評をいただいた12作品を再度アップしていきます。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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