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桜梅桃李 [SS]

 ひどく陰鬱な夢の終わりに、うなされながら目が覚めた。身体が芯から冷え切っている。起き上がると、少し湿ったベンチに横たわっていたのだと気づいた。理不尽な上司から度重なる叱責を受け、酔って街を彷徨った挙句に辿り着いた見知らぬ公園だった。
 立ち上がると身体の節々が痛む。何軒梯子したのかも覚えていなかった。翌日が春分の日で休みだからと深酒をし過ぎてしまったのは明らかだ。
 酔いはすっかり醒めている。かわりに喉の渇きが尋常ではない。乱れていたハーフコートを着直して、自動販売機でもないものかと周囲を見渡すと、一本の桜が見えた。まだ三分咲き程度だろうか。うすいピンクの花が街灯に照らされている。なぜか桜の周囲には黄色い規制テープが貼られていた。
 この寒さは花冷えの寒気なのだろう。もう春になっていたのだと、改めて気づかされた。働きづめの毎日で季節の移り変わりさえ感じることが出来なかったのだ。そう思うと、虚しさがこみ上げてきた。

「どこから来たんだね?」
 急に近くでしゃがれた男の声がした。キョロキョロと周囲を見回してみたが人影は見えない。とっさに返事も出来ずにいると、ベンチの背もたれを薄汚れた人の腕が掴んだ。一気に全身に鳥肌が立って、思わず悲鳴をあげる。
「お化けじゃねぇよ。このベンチは俺の寝床なんだ」
 ふいに背もたれの向こうから、仏頂面をした髭もじゃのホームレスらしき男が姿を現した。
「あんたが寝てるから、我慢して地面に寝てたんだんだぜ」
 そう言うやいなや、男は首からさげていた頭陀袋からペットボトルを取り出すと、放ってよこした。ミネラルウォーターだった。
「喉が渇いてるんだろう? 汚くはねぇよ、さっき買ったばっかりだ」
 人の心の内を察するのに長けているのか、長年の経験からなのか、先回りしていく男の口調にひき込まれ、不思議と恐怖心がひいていく。未開封のキャップをひねると、グビグビと喉を鳴らして水を飲んだ。それでも渇きはなかなか癒えない。結局、あっという間に飲み干してしまった。

「あんた、ずいぶんうなされていたぜ。嫌な事でもあったのかい?」
 男はさっさとベンチに腰掛けて、コンビニの弁当を食べ始めている。どうやって手に入れたのかが気になったけれど聞かないことにした。
「絶対にできない仕事を押し付けられたんです」
 いつもなら初対面の相手になど決して話さない愚痴を、気づけばだらだらと語りはじめていた。サービス残業が当たり前のブラック企業であること。配属された部署で上司に嫌われ、同僚たちからも仲間外れにされていること。それでも、やっと見つけた転職先なので辞められないこと。そんな他人からすれば愚にもつかないはずの話を、男は時折うんうんとうなずきながら聞いてくれた。
 だが、やがて話しているうちに、目の前にいる男のことを考えはじめていた。どこをどう見てもホームレスだ。臭わないのはたぶん寒さのおかげだろう。この男はどんな人生を歩いてきたのだろうか。きっと何もかも捨てて今の暮らしをしなければならない何かがあったのだ。それを思うと、こうして愚痴を話していることが申し訳ない気持ちになってくる。
 男は特に口をはさむわけではない。ただ相槌を打ってくれるだけなのだけれど、その姿には深く傷ついたことのある人間の優しさが感じられた。

「自分らしく生きたいだけなんです。でも、どうしても上手くいかなくて。上司が言う通り三流大学出の出来損ないなんです、ぼくは」
 結局、自分が駄目な人間だから仕方がないという、いつもの結論に行きついてしまった。情けないという気持ちだけが胸の中に充満している。このままホームレスの男の様に、何もかも捨ててしまおうか。いっそ死んでしまった方が楽かもしれない。そんな思いが心をよぎる。その時、ずっと黙っていたホームレスの男が口を開いた。
「あんた、桜梅桃李って知ってるかい?」
「おうばいとうり?」
 突然、聞いたこともない言葉を投げかけられ口ごもっていると、男は髭もじゃの仏頂面をほころばせて笑っている。
「知らないのか? 昔、偉いお坊さんが言った言葉さ」
 そう言いながら、男は頭陀袋からもう一本ペットボトルを取り出して差し出した。長く愚痴を話したせいで、癒えきっていなかった喉の渇きがますますひどくなっている。我慢できず、受け取るやいなやキャップを開けて、ボトルに口をつけていた。ただのミネラルウォーターのはずなのに、ほのかな甘さが口いっぱいに広がるように感じた。

「桜、梅、桃にスモモ。それぞれの花が、咲く時期も、色や形も香りだって違うようにな、人にはそれぞれ、その人ならではの個性ってもんがあるんだ。その人でなければできない役割や使命があるんだよ」
 男の言葉は、飲んでいた水の様に心の奥へとしみていく。しゃがれた声の響きが心地よく感じられた。
 いつの間にか男は舞を踊っている。訊けば、生まれ故郷の獅子踊りだという。ずんぐりした身体のくせに、舞う姿は軽やかであり、力強くもあった。
「はやく咲く人、ゆっくり咲く人、みんな違うんだ。だから他人と比較なんてすることはない。違いはあっても、必ず自分自身の花を咲かせていける。それが人生の真理ってやつなのさ」

 舞う姿を見ながら話を聞いているうちに、今度は抗えないほどの睡魔が襲ってきた。瞼が鉄か鉛にでもなったように重くなり、目を開けていることが出来ない。再びベンチに座り込む。水に睡眠薬でも入っていたのかと疑心もわいたが、心地良さの方がはるかに勝っていた。やがて男の声だけが、頭の中に直接語りかけてきているような気分になる。
「あんたはさっき、俺の事を気遣っていただろ? 辛い時にも他人の事を思いやれるのが、あんたの個性なんだ。それが花開く場所を見つけに行きな」
 懸命に目をこじ開けると、桜の花びらが舞い落ちてくるのが見えた。まだ咲いたばかりなのになぜ散っているのだろう。そんなことを思ううちに、もうどこにいるのかも分からなくなっていた。視界が闇に包まれてしまう前に、一瞬だけ光の中に佇む人影を見た気がする。だが、記憶があるのはそこまでだった。

 翌朝、朝日のまぶしさで目を覚ました。祝日のためか、まだ公園に人影はない。起き上がると、桜の花びらが足元に落ちた。まるで毛布でもかけたように、身体を覆ってくれていたようだ。
 すでにホームレスの男はいない。もう、出かけてしまったのかと少し残念に思ったが、それで良い気もした。記念にスマホで公園の桜を写す。今日という日を忘れないためにだったが、きっと写真を見なくても大丈夫だと思えた。桜梅桃李…男が話してくれた言葉のすべてが、しっかりと胸の奥に残っていた。

 ◇◇ ◇ ◇◇ ◇
 
 その後、勤めていたブラックな会社を辞めて介護士になった。今は郊外にある高齢者施設で働いている。三年勤めたら、介護福祉士の国家資格を取るつもりだ。決して楽な仕事ではないが、それまで働いたどの職種よりもやりがいを感じられた。同僚たちも優しい。あの日、あのホームレスの男に出会っていなければ、踏み出せなかった世界だ。
 だから一年後の今日、もう一度あの男に会いたくて公園を訪れることにした。昨年と同様に、桜の樹には三分咲き程の花が咲いている。ここに来たとしても会える保障などなかったが、そうせずにはいられなかった。一言、礼が言いたかったからだ。

 公園まで来る途中でコンビニを見かけ、立ち寄ってミネラルウォーターを買った。もしかしたらと思い、レジにいた店長にホームレスの男を知らないかと訊ねたら、話した特徴どおりの男を知っているという。よくこの店で買い物をしていたそうだ。ホームレスではあったが、それなりに働いていたのだという。
 だが、続けて語られた店長の話は、まったく予想していないことだった。
「可哀そうに、この近くの公園で殺されちゃったんだよ。ホームレス狩りってやつだね」
「いつですか?」
 あまりの事に、思わず叫んでしまった。あの日の朝、会わずに帰ってしまった事への後悔が一気にこみ上げてくる。
「たしか去年の今頃だったかなぁ。ちょっと待ってて、当時の記事を残してあるから」
 そう言うと、店長は店の奥から一年前の新聞と週刊誌を持ってきた。この手の事件には珍しく、大きく扱われたらしい。身近で起きた大事件だったから、店長も捨てずに残していたそうだ。信じたくはなかったが、被害者の写真は、まさに忘れもしないホームレスの男の顔だった。

「東日本大震災の被災者だったんだね。何もかも津波で流されて、故郷で暮らすのが辛かったんだろうよ」
 週刊誌の記事には、東日本大震災に絡めながら、店長が言った通りの経緯が詳しく綴られている。だが、どうしても腑に落ちないのは、男が殺された日付だった。記事には、11年目を迎えた震災の日の翌日に襲われた男が一昼夜生死の境をさまよった末に亡くなったと書かれている。
「この事件って、去年の3月12日に起きたんですよね? 亡くなったのはその翌日の13日って」
「そうだよ。そこに書いてあるだろ?」
「でも、ぼくがこの人に会ったのは、去年の春分の日の前日なんですよ」
 店長は勘違いだろうと一蹴した。そのうち、学校や会社帰りのお客が増えてきたので、礼を言って店を出たけれど、どうしても勘違いだと思えない。もしかしたら他人の空似なのかもしれないとスマホで撮った記事の写真を何度も見直してみたが、やはり赤の他人とは思えなかった。

 複雑な心境のまま公園に辿り着いた時、去年も桜の写真を撮っていたことを思い出した。手にしていたスマホのデータを遡ってみると、確かに同じ桜が写っている。日付は3月21日だった。やはり勘違いではない。写真では、桜の周囲に黄色い規制テープが貼られている。つまり、ホームレスの男と出会ったのは事件が起きた後で間違いないということなのだ。
「生きてますよね。殺されたのは別の人だったんですよね」
 思わず桜に向かって問いかけていた。コンビニに長居したせいか、すっかり黄昏時になっている。崩れ落ちるようにベンチに座った。ふと、子どもの頃に祖母から聞いた逢魔が時のことを思い出す。夕暮れに妖怪や幽霊と出会う時刻。ちょうどそんな時間になっていた。
 公園の街灯がついて桜の花が薄闇の中に幻想的に浮かび上がる。見上げると頭上から花びらが舞い落ちてきた。あの日、眠い目を懸命に開いてみた光景と同じだ。花びらを目で追ううちに、一気に謎が解けていく。
「あの日、ぼくが出会ったのはあなたの魂だったんですね」
 そうつぶやいていた。同時に、今日この場所を訪れて良かったという思いが心の中に満ちていく。男の魂は毎年桜の花になって咲くのだろう。声こそ聞こえなかったが、男の思いは身体に触れる花びらから伝わっていた。
 考えてみると、あの夜は男にとって初七日だったのだ。人としての最後の姿を見せてまで生きる勇気をくれたことに改めて感謝の気持ちがこみ上げてきた。
「しっかり自分の花を咲かせていきます。ありがとうございました」
 振り絞るように発した声に応えるように、花びらがいっそう降り注いだ。光の中を舞い落ちる花びらの中に、一瞬、獅子踊りを舞う男の姿が浮かんだような気がした。

※桜の花を見ていると、亡くなった人たちの魂が見守ってくれているように感じることがあります。そんな思いで書いたショートショートでした。
最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

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