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季節はずれの動物園 [短編小説]

 最後に動物園へ行ったのは、いつ頃のことだったろう。小学生の時だったろうか、それとも中学生の頃だろうか。高校生時代にも、一度ぐらいは友人たちと訪れたことがあったのではなかったか。 
 上野駅の公園口改札を出て、目の前の横断歩道を渡りながら、成瀬寛貴はそんなことを考えていた。
 小学五年生の時に学校の写生教室として多摩動物公園に行ったことは、今でもはっきりと覚えている。何を描こうかさんざん迷った挙句、他の生徒たちが好んで描いていた鼻の長いゾウではなく、首の長いキリンの絵を描いた。その絵が上手だと担任の教師に褒められて、確か校内の展示作品にも選ばれている。振り返れば、あれが本格的に絵を学びたいと思い始めたきっかけだったかもしれない。そんな記憶の断片たちが、歩いている短い時間の間に交錯する。
 キリンの絵で評価されたからといって、寛貴は特に動物が好きなわけでもなかった。やはり、動物より人間を描く方が各段に面白い。今でこそゲーム会社でキャラクターデザインの仕事をしているが、高校生の時までは本気で画家になることを目指していた。好きだった画家はフリーダ・カーロ。不幸な事故の後遺症や病気に何度も苦しめられながらも、自分の体験に基づく自画像風の絵を描き続けたメキシコの女流画家だ。
 高校三年の夏、どうしても彼女が描いた実物の絵を見たくなった寛貴は、アルバイトをして旅費を稼ぎ、メキシコへ飛んだ。ちょうど高校生や大学生が参加するワークショップが開かれており、心配性の母親も強くは反対しなかった。AO入試で個人をアピールする良い実績になると分かったからだ。
 寛貴は自由時間の中で、今は美術館となっているフリーダの生家を訪れている。彼女が生まれ育ち、最期を迎えた青い家。その鮮烈な記憶は、27歳になった今でも鮮明に残っていた。
 だが、あれがおそらく画家になりたいという思いのピークだっただろう。むしろフリーダ・カーロが描いた実物の絵を目の当たりにしたことで、決して辿りつけない極みを知ってしまったのかもしれない。絵の中で微笑む彼女に、「画家になる覚悟がお前にあるのか」と問われた気がした。
 帰国した寛貴は、進学しようと思っていた美大受験をやめる。ギャンブル好きだった父親の借金と浮気が原因で、ちょうど両親の離婚が重なったことも一因だった。
 長年苦しめられてきた母親に、少しでも楽をさせてやりたい。そのためにも、早く収入を得られるようになりたいと考えた寛貴は、ゲームやアニメ関連の教育を受けられる専門学校に進んだ。主に実践的な内容の講義や実習が多かったので、美大のようにデッサン技術や想像力を鍛える訓練を受ける機会はあまりなかった。
 今思えば、デザイナーとして動物のキャラクターを考える時のためには、実物を見ながらデッサンを繰り返す経験をしておいた方が良かったのかもしれない。だが、今はネットで検索すればすぐに画像や動画を見つけられる時代だ。わざわざ実物を見に行く者は誰もいなかった。だから寛貴も、成人してから動物園に行ったことはない。
 結局、あれこれと過去を思い返してみても、あの写生教室で訪れた小学生の頃を最後に、動物園に行った記憶は全く思い出せなかった。今日だって事前にスマホで道順を調べたぐらいだ。駅にさえ着けば、上野動物園への行き方は単純だった。
 有名な建築家のル・コルビジェが設計したことで世界文化遺産に登録された国立西洋美術館の前を通り過ぎると、黄色く染まった銀杏並木が見えてくる。道の両脇まで枯葉で埋まっているが、まだ落ちていない葉がたくさん枝に残っていた。思わずスマホのカメラを向けてシャッターを切る。平日であっても、それなりに人は多い。師走を目前にした晩秋の街は、やはりどことなく慌ただしさが漂っている。それでもクリスマスムードがあまりないだけ、他の場所よりは落ち着いていると寛貴は感じた。
 秋晴れの空はどこまでも青く、ひんやりと冷たい空気がとても心地よい。息を吸い込むだけで頭の奥がチクチクと刺激され、冴えわたっていく気がした。このひと月程はずっと室内ばかりにいたから、身も心も外気に触れることを欲していたのかもしれない。
 やがて真っ直ぐな道の先に、目的地の動物園が見えてきた。さすがに並んでいる人はいないようだ。会社の同僚である鈴木愛実と待ち合わせた時間よりだいぶ早めに着いたので、途中のカフェに寄り道してコーヒーを買った。カップの蓋をはずして、湯気とともに立ちのぼる香りを楽しみながら飲む。外出するまでは少し億劫に感じていたが、こんなひと時を味わえただけでも来て良かったと思えた。
 愛実に誘われたのは一昨日の夜のことだ。
「明後日は晴れるみたいだから、一緒に上野動物園に行かない?」
 久しぶりの休みを満喫しようと思った矢先に、予想外の方向から不意打ちのパンチを喰らった感じだった。
「動物園ねぇ…」
 正直なところ、なぜよりによって季節はずれの動物園に行く必要があるのかと反発していた自分がいる。やはり動物園といえば春先や夏のイメージだった。百歩譲っても十月頃まで。こんな師走に迫った晩秋の寒い日に訪れる場所ではない。それでも、愛実と出かけるなら妥当なのかもしれないと寛貴は思い直した。野外のほうが適当な距離感を保てる気がしたのだ。
 愛実から交際を申し込まれたのがちょうど一ヶ月前。プロジェクトの仕事が佳境になる直前だった。それ以来、まだちゃんとした返事も出来ないまま、愛実との関係は友だち以上恋人未満といった雰囲気のまま何となく進んでいる。それまで寛貴がつき合ってきた女性たちとは全くタイプの違う愛実から突然好きだと告白されても、戸惑いの方が大きかった。
 愛実は中途採用の契約社員で、最初に会った時と今ではだいぶ印象が異なっている。年齢は寛貴より二歳年上だが、見た目はまるで大学生だ。だが、とにかく頭が良くて行動が速い。デザインではなく、ゲームのストーリーに携わっている。ずっとアルバイトをしながら小さな劇団で座付き作家をやっていたらしい。自ら売り込んできた企画が会社の幹部たちの目にとまり、めでたく入社の運びとなった。
「昔からずっと、今時分から冬の間の動物園が好きなんだ。成瀬君も気にいると思うよ」
 そう言って愛実は笑った。なぜかその笑顔に吸い込まれるように、何の抵抗もしないまま誘いを承諾してしまったといえる。だが恋人としてつき合うには、まだ寛貴の心が定まっていなかった。
 もちろん今日は仕事に来ている訳ではない。プライベートで来ている以上、やはりこれはデートということになるのだろう。きっと先日の告白に対する返事を求められるに違いない。それが外出前の億劫さにつながっていたのだと寛貴は思った。

 寛貴が愛実の告白にはっきり返事できない理由は、今年の春先まで一年ほどつき合っていた麻倉美穂という元カノのことをいまだに引きずっていたからだ。昔から寛貴は、相手のことを本気で好きになると、別れた後でもなかなか諦めることが出来ない。いつも似た雰囲気の女性に心魅かれてきた。美穂はある意味、そんな女性たちの集大成のような存在だったといえる。
 ほんの付き合いで参加した合コンが知り合うきっかけだった。最初は単純な飲み友だちからのスタート。あの頃の寛貴は始発電車の時間まで飲み明かすことも少なくなかった。そうでもしないと、いつも締切に追われる仕事のプレッシャーで溜まっていくストレスは解消できなかったからだ。一緒に馬鹿騒ぎしながら飲んでいるうちに、開けっ広げな性格の美穂のことを好きになっていた。
 ただ、その頃から美穂の悪い評判が寛貴の耳にも届くようになる。友人でもないのに、わざわざ忠告してきた人もいた。派手好きで、遊び好きで、男好きのギャンブル好き。たしかに美穂は、サラリーローンの借金が返済できず寛貴に甘えてくるような女ではあった。だが、それ以外の点は優しさの方が勝っていると当時の寛貴は本気で思っていた。寛貴にとって美穂との関係は、幸せのカタチだと思わせる何かがあったのだ。手ひどく現実を突きつけられた今も、それは心の深い部分では変わっていない。

 別れのきっかけを作ったのは寛貴の母親だった。寛貴はいわゆるマザコン男ではない。何かと干渉してくる母親を、いつもなだめながら大切に思ってきた。しかし、母親の思いはもっと強い。粗野とさえ感じるほどにだ。
 どうしようもない夫に長年苦しめられてきた母親は、ある日の早朝、寛貴から聞き出していた美穂のアパートに押しかけた。そこに致命的なことが待ち構えている。美穂の部屋では寛貴ではない別の男が裸で眠っていたのだ。自分が夫から受けた浮気という仕打ちを、今、大事に育ててきた一人息子が受けている。半狂乱になった母親は半分寝ぼけていた美穂に掴みかかり、見知らぬ裸の男に取り押さえられた。
 この事件は幸いな事に警察沙汰にはならずに済んだ。美穂は恥だと感じたのだろう。しかし、もはや寛貴と美穂がつき合い続けていくという選択はあり得なかった。美穂の浮気も、母親の行動もショックだったが、それ以上に打ちのめされたことがある。寛貴は無意識に自分が嫌っていたはずの父親と似たところのある女性に魅かれていたのだと、その時になって初めて気づいたのだ。二重のショックだった。
 それでも一度好きになってしまった熱は、別れて半年以上たった今もまだ冷めてくれない。浮気の原因さえも、同棲しようという美穂からの誘いを断った自分にあったのではないかと思ってしまう。美穂は根っからのあばずれ女ではなかったという思いがあった。
 母親には、一番大事なものが何だかわかっていないと言われ続ける。大事なものと言われても、何もかもが難しく思えて、いつしか母親を避けるようになっていた。忘れようとしても、逆に胸の奥でくすぶり続ける炎を消せるような女性はもう現れないと思ってしまう。そして、そんな思いで愛実と中途半端に接してしまっていることが、何となく寛貴の負い目になっていた。

 ◇◇ ◇◇◇ ◇◇

「ごめん、待たせちゃった?」
 急に前方から愛実の声がして、寛貴は慌てて顔をあげた。動物園の入口の前に並んだパイプに腰かけながらコーヒーを飲んでいるうちに、心が過去の思いに占拠されてしまっていたようだ。それを振り落とすように、首を左右にゆっくり振ってみる。
「大丈夫、ちっとも待ってないよ。さっき着いたとこ」
 無理やりにでも笑顔を作る。ぎこちない。冷たい空気にさらされていた顔の筋肉は、明らかに動きが鈍くなっているように感じた。走って来たのか、白い息を吐きながら向けられた愛実の笑顔の方が、100倍は清々しいと寛貴は思った。
「良かったぁ。じゃあ、チケット買ってくるから、もうちょっと待ってて」
 そう言うと愛実は、入場券を売っている窓口に走っていった。ぼんやりとその背中を見送る。こうして誰かを待つのは久しぶりなのだと、改めて気づいた。
 そのうち、脇を子ども連れの家族が何組も通り過ぎていく。5歳ぐらいの子どもが、パンダが見られると喜んでいた。ふと周囲を見れば、そこここにパンダの看板がある。そういえば、パンダの子どもが生まれたのだと寛貴は思い出した。ずっと動物園になど関心がなかったから、いつ頃のニュースだったかも忘れている。
「ねえ、パンダの赤ちゃんって見られるのかな?」
 ちょうどチケットを買って戻って来た愛実に寛貴が訊くと、「いったい、いつの話をしてるの?」と呆れられた。もう生まれてから一年半にもなるという。自分が元カノのことでバタバタしながら暮らしている間に生まれたパンダの子どもが、もうすっかり大人の仲間入りをしているのだと聞いて、寛貴は少し複雑な気持ちになった。
 そんな微妙な表情が顔に出ていたのかもしれない。
「寒くなってくると人も少ないから、他の季節より楽しめるよ」
 そう言って、愛実がチケットを差し出す。一枚600円。その料金が高いのか安いのかはわからないが、安上がりなデートであることは確かだ。
「寒いと動物たちも元気がないだろうって思うでしょう?」
 寛貴は愛実の問いかけに素直にうなづいた。
「でも、実は寒い時期こそ動物園はお勧めなのよ」
「えっ、どういうところが?」
「それは見てのお楽しみ」
 そう言うと愛実は入場口へと駆けていった。その走り方が、まるで子供だと寛貴は思う。とても年上だとは思えない無邪気な姿だった。オフィスで見る姿とも少し違う。
「ほら、早く来て」
 呆れた顔で立っていると、さっさと一人で入場をすませた愛実が、園の中から手招きしていた。仕方ないという素振りで歩き出した寛貴だったが、少しワクワクしているという自覚もある。ただ、それが久しぶりの動物園だからなのか、デートだからなのかは、やはりはっきりとは分からなかった。

 気がつけば、いつの間にか寛貴は夢中になっていた。なぜもっと早く訪れなかったのかと後悔したぐらいだ。愛実が言っていた通り、動物たちは寒いからといって元気がないわけではない。特に寒冷地域から来た動物たちは本来の姿に近いといえた。
 なかでも驚いたのはレッサーパンダだ。もともと野生のレッサーパンダは寒さに強い動物なのだという。写真で見たことはあったが、動いている姿を間近で見たのはもちろん初めてだった。ジャイアントパンダもホッキョクグマやアムールトラも、本来は極東地域で暮らしているだけあって、仕切りの中を所狭しと動き回っている。
「雪でも降れば、もっと元気になるんだけどね」
 入園した時とはすでに別人のようにはしゃいでいた寛貴を見ながら、愛実は嬉しそうにそう言った。あっという間に時間が過ぎていく。まるでおしくらまんじゅうでもしているように、サル山で体を寄せ合っているニホンザルたちを見ていたら、愛実のお腹がグルグルと鳴った。もう、とっくに時刻は昼を過ぎていた。
「どっかで昼食にしようか?」
 気恥ずかしそうな愛実に、笑いながら寛貴が訊ねる。二人は確かにデートをしているのだと思えた。外には出られないので、園内のショップで軽食を買って食べることにした。
「考えてみたら、お弁当ぐらい作ってきても良かったよねぇ」
 愛実は少し後悔している様子だ。その表情が、とても愛おしく感じた。
 それにしても周囲が明るい。動物園に対する印象が、小学生の頃とはずいぶん違う。
「気のせいかな?子どもの頃より、動物たちがはっきり見える気がする」
 歩きながら寛貴がつぶやいた。それってたぶん、春先か夏ごろの動物園に行ったからだよねと愛実が答えた。
「この時期から冬の間の方がよく見えるんだよ。葉っぱが落ちて余計なものが見えなくなった殺風景な光景だからこそ、動物たちがはっきり見えるの」
 そう言われると、確かにそうだと寛貴も思えた。ちょっとした疑問から思わず発した言葉だったが、何か人生の本質めいた答えにぶつかったような気がする。
 ショップでサンドイッチと飲み物を買った二人は、野外に置かれたテーブルに陣取って遅い昼食を食べた。すでに家族連れは食事を済ませたようで、周囲には人影も少ない。子どもたちの声が少し離れた場所から響いていた。
「こんなタイミングで話すことじゃないかもしれないけど…」
 サンドイッチを食べ終わり、のんびり食後のコーヒーを飲みはじめた矢先に、愛実が急にそう切り出した。ふいに空気が変わったのを感じる。例の返事が訊きたいのかと思い、寛貴は少し身構えてしまった。せめて、動物園を出てからにしてくれればいいのに。そんな思いが寛貴の胸に湧きあがった。
「実は、あなたのお母さんに会ったんだ」
 一瞬、何を言われたのか理解できず耳を疑った。思わず、さっき眺めていたメガネザルのような目で見返してしまう。母親がなぜ愛実を知っているのか?次から次へと、疑問が噴き出してきた。
「あなたと連絡が取れないって、会社に来たんだよ」
「それ、いつの話?」
「三日前の午後」
「日曜日だったからか…」
 すべてが全くの初耳だった。愛実の話によれば、母親は休日を狙ってはじめに寛貴のアパートを訪ねたらしい。しかし留守だったため、渡していた走り書きの住所だけを頼りに会社がある新橋までやってきたのだという。その時、たまたま対応に出たのが愛実だった。寛貴や他の社員たちは、プロジェクトの大詰めでプログラム制作にあたっている下請け会社に休日出勤していたのだ。
「その時、黙っている方が失礼だと思って、あなたに交際を申し込んでいることを話したの」
 それまでの楽しかった気分は全て消え去り、目の前が暗くなっていった。まさか母親は、美穂の事を愛実に話したのだろうか。さっきまでと異なる沈鬱な彼女の表情は、それを物語っているとしか思えない。急に終わりという文字が心に浮かんだ。まるで古い時代のモノクロ映画のように、その文字が揺れている。
「お母さんから全て聞いたよ。麻倉って人とのことも」
 次の瞬間、愛実は真っ直ぐに寛貴の瞳を見つめながらそう言った。なぜ、よりによって愛実と母親が出くわしてしまったのだろう。運命の神様というのは、そんなに人をいじめるのが好きなのだろうか。
 そう思った途端、胸の奥が痛くなった。昼食前に交わした言葉が蘇ってくる。余計なものが見えなくなった殺風景な光景だからこそ、動物たちがはっきり見えるのだ。
 寛貴は、自分の胸の中が、今目の前にある動物園になったように感じた。後悔だとか未練だとか、それまで言い訳や自己憐憫の葉っぱをいっぱい茂らせていた自分が、今この瞬間に丸裸の樹木のようになって愛実の前にいる。
「それで?」
 つぶやいた声が北風のように冷たい。それでも寛貴は言葉を続けた。
「きっと思いっきり引いたよね。いつも母は僕のためって言うけど、とてもそうとは…」
 うまく息が吸いこめず、途中で言葉が途切れた。一息の中で語った言葉は、半分は真実だが、残りの半分は嘘な気がする。母親と自分は、まるでフリーダ・カーロが描いた絵のようだと寛貴は思った。孤独、痛み、悲しみ、苦しみ、はかない夢や失った希望。そんなものたちが生々しく絡み合い、刻み込まれている。もう寛貴は、身も心も寒さしか感じていなかった。
 この後、愛実はどうするつもりだろう。すでに交際したいという気持ちは消え失せているに違いない。元カノに浮気された男だからではなく、未だに母親から離れられないマザコン男だと感じたはずだ。そう思った瞬間、また胸の奥が激しく痛んだ。
 こんな崖っぷちに立つことになってやっと、寛貴は自分が愛実に好意を抱きはじめていたのだと気づいた。だが、すべては遅すぎたのだ。いや違う。遅すぎたのだと思いかけて、どちらにしろ結果は同じだったのだと寛貴は思い直した。
 あとは他の社員に言いふらされた場合どうするかを考えよう。秘密を周囲の人間たちに知られるのは男として堪えられなかった。気に入っていた職場だったが、諦めるしかない。寛貴の心が暗い方向へ舵を切ろうとしたその時、やっと愛実が長い沈黙を破った。
「私はね、恥ずかしかった。ただ自分勝手な思いをあなたにぶつけていたんだから」
 今日、動物園に寛貴を誘ったのは、自分の中にある余計なものを取り払った場所で、改めて思いを伝えたかったからだと愛実は言った。小さな劇団に夢を託し、愛実は座付き作家として幾つもの物語をこの動物園で紡いできたという。特に、心の中を丸裸に出来る寒い季節の動物園が好きだった。そう言って、愛実は深く息を吸い込んだ。次の言葉を待つ寛貴の指先が震えた。
「すべての経緯を知ったうえで、もう一度あなたにお願いします。私と結婚を前提につき合ってください」
 枯葉を吹き飛ばしながら、一陣の北風が吹いた。でも不思議な事にその風からは、まるで冷たさを感じなかった。

 ◇◇ ◇◇◇ ◇◇

 その夜、久しぶりに寛貴は始発まで飲み明かした。もちろん愛実と一緒にだ。愛実は案外酒に弱くて途中で潰れてしまったが、寛貴はその無邪気な寝顔を眺めながら飲むのも悪くないと感じた。
 まだ愛実の意識がはっきりしている時、母親に電話をかけて、二人が交際することを告げた。母親は、すでにそうなると思っていたらしい。愛実が、これまで寛貴のつき合ってきた女性たちと違うことを心底喜んでいるようだった。
「やっと、お父さんの呪縛が解けるね」
 電話の向こうで泣いている母親の気配を感じながら、寛貴はわざと違う話題をはしゃいだ声で話した。
「動物園てね、想像以上に楽しいんだよ。今度母さんも一緒に行こう」
 寛貴の心境としては、母親が語った父親の呪縛というのには、どうもピンとこない。そんなものは勝手に押しつけられたイメージのような気がする。ひとつだけ確かな事は、愛実という本気で好きになれる人とまた出会えたことだ。
 長い間くすぶり続けていた元カノへの思いは、すでに嘘のように消えていた。それでも人と人が出会った縁は消えない。これからも心の片隅には残り続けているだろう。それでも良いと思ってくれる人に巡り会えたことが、今は素直に嬉しかった。
 画家にはなれなかったけれど、今は描ける未来が確かにある。酒に酔った愛実は男の子が欲しいと言った。だが、寛貴は女の子が欲しいと思う。その子には早くから絵を教えようと思った。そして、子どもの頃から季節外れの動物園に連れて行ってやりたい。
 一番大事なことだけれど、同時に一番難しいことが何なのか、今の寛貴にははっきりとわかっていた。自分の意志を持ちながら、自信にあふれた人生を生ききること。そのために人は、愛する片割れの存在を探し求めるのだろう。結局、ひとりぼっちでは自分というものが何者なのかさえも分からないのだから。
 そんなことを考えながら、寛貴はテーブルに突っ伏して眠っている愛実を見つめた。
「君のことが大好きだよ」
 聞こえていないはずの耳元で、そっとつぶやいてみる。それでも何となく伝わったのか、愛実がもごもごと聞き取れない声で返事をした。そのくちびるに、そっとキスをする。大事なものに触れる時のようなキスだった。
 幸せのカタチは人によって違う。だが、その本質はきっと同じはずだと寛貴は思った。次に動物園を訪れる時には、必ずスケッチブックを持って行こう。そこに描くものの一つひとつが、きっと自分にとっての幸せのカタチなのだ。
「来週もまた、動物園に行こうか」
 もう一度、今度は少し強めにくちびるを押し当てた後で、そう言ってみた。返事はない。相変わらず愛実は眠っている。さり気なく起こすのは諦めて、寛貴はグラスに残っていた酒を口に運んだ。
 触れたグラスの冷たさで、くちびるに伝わっていた愛実の温もりがわかる。心の中に、これから訪れる冬の動物園の景色が広がった。もう寒さは少しも感じなかった。


※私としては珍しい男性が主人公の物語です。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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