見出し画像

月から来た恋人たち [短編小説]

 なぜ男は来ないのだろう。子どもの頃にかぐや姫のお話を聞いた時、最初にそう思った。幼いなりの単純な疑問だ。月の世界から来た絶世の美女がいるならば、美男子がいても良いではないか。そんなことを保育園で一番好きだった保母さんに質問した記憶がある。
「ユイカちゃんは、月から来た王子さまに会いたいのね」
 その時のことだったか、もっと後になってから言われた言葉なのかはもう記憶にない。だが、保母さんが言った「月から来た王子さま」という言葉は、ずっと心の中に残った。子どもの頃から月を見るのが好きだったのは、そんな過去の出来事が影響しているのかもしれない。
 そのうち『美少女戦士セーラームーン』というアニメ番組が流行りだした。私も友だちと一緒にセーラー戦士ごっごをして遊んだけれど、相変わらず月と美女の関係には疑問を抱いていたと思う。あの頃大好きだったタキシード仮面も、結局前世は地球の王子なのだ。
 月から来た王子さまに会いたい。そんな子ども心は当然叶うはずもなく、ただただ月日は流れた。やがて思春期になってからは、幼い頃に思ったことだとしてもメンヘラだと誤解されそうで誰にも話せない。すでに、ちょっとしたきっかけで苛められる対象になる時代だった。実際、高校生の時に一生の親友と信じたクラスメートに話したら、大笑いされた。それ以降、月から来た王子さまの話を、私はずっと封印してきたのだ。まさか、それから十年以上経ってから、月から来たという男と出会うことになるとは、まったく予想もしていなかった。

 精神科医になって七年目の秋、その男は私の前に患者として現れた。名前を月城和也という。最初は偽名かと思ったが本名だった。その苗字がきっかけで自分が月から来たという妄想を抱いたのではないかとも思ったが、そんな単純なことでもない。生活は全く破綻しておらず、むしろ一流と言われる商社に勤めている独身のエリート社員だった。
 病院を訪れたきっかけは、学生時代から交際していた彼女との結婚話だったらしい。プロポーズを前に、それまで誰にも打ち明けられなかった秘密を彼女に話したのだという。その秘密というのが、実は自分が月の生まれで、母親が妊娠中にその胎児と入れ替わったという事だ。
 はじめは彼独特の冗談だろうと思って笑っていた彼女も、真剣な月城の口ぶりに不安を感じた。当然その言葉の真偽が問題なのではなく、精神を病んでいるのだと思ったからだ。長年の交際でなければ、その時点で破局だったかもしれない。だが、月城の彼女は、とにかく一度だけでも精神科へ行って欲しいと泣きながら勧めたのだという。
 この病院は精神科急性期病院だ。速やかでかつ安全な治療によって、精神症状を改善することが出来る。精神保健指定医の資格を取得している医師が多数在籍していて、患者の早期の症状改善と社会復帰を促進することが可能な体制が整っていた。
「もう彼女と結婚するのは無理だと思います」
 最初の診察の時、ある程度話が進んだ時に、月城はそう語った。
「どうして、そう思ったんですか?」
 診察を先に進めたい気持ちを抑えて、私はその点を詳しく訊いてみる。
「私のことを本当には理解できないからです」
「でも、彼女はあなたの秘密が嘘だとは言っていませんよね?」
「ここへ来るように勧めた時点で、真実だとは思っていませんよ」
「じゃあ、なぜ来院したのです?」
「それは、希望を見つけるためです」
「希望?」
 月城の意外な言葉に、私は思わず聞き返してしまった。
「ええ。精神を病んでいる患者をたくさん診ている医師であれば、少なくとも精神病ではないことだけでもわかるのではないかと」
 そう言って月城は、私の目を真っ直ぐに見つめてきた。彼が話している内容だけで考えれば、明らかに何らかの障害がある。だが、一度の診察では判断がつかない。
 妄想性障害の場合は奇異ではない妄想が続き、それが他の精神疾患によらないことが求められる。妄想が奇異ではないというのは、実生活において起こりうる内容であることだ。例えば、誰かに嫌がらせをされているとか、逆に好意を寄せられているといった妄想がこれにあたる。妄想を伴う病気として統合失調症も考えられるが、その場合は妄想の他に幻覚や支離滅裂な言動などを引き起こす。
 しかし、月城の場合は、自分が月で生まれたという突拍子もない妄想があるだけで、その他には病的要素がない。もっと診療を続けてみないとはっきりしないが、ありのままの自分を愛せず、自分は特別で偉大な存在でなければならないと思い込むパーソナリティ障害の一種かもしれなかった。
「来週、もう一度診察しましょう」
 月城が話した内容を分析するためにも、少し時間が欲しい。週末をそれにあてて、翌週の月曜日に再度診察することを月城と相談した。
「先生は、月から来た男の話を信じますか?」
 帰り際、月城はふいにそう質問した。月から来た王子さまという言葉が、頭に浮かんだ。私自身がその言葉を誰にも話せなかった苦い思いがよみがえってくる。
「私は信じますよ」
 医師としてまずい返事なのはわかっていたが、そう答えずにはいられなかった。
「希望ですね、先生は」
 月城は、私にしばらく微笑んでから診察室を出ていった。

 ◇ ◇

「そんなこと言っちゃったの?」
 午前中の外来を終え、同僚の三上純一に月城の事を相談した。やはり最後に交わしたやり取りのまずさを指摘される。
「わかってはいたけど、他に答えようがなかったのよ」
「答えなきゃよかったじゃないか」
「それは、そうだけど…」
 三上とは同期だったが、年齢は彼のほうが二歳年上だ。たぶん私も純一も、お互いを気になる存在だと思いながら、もう一歩踏み込む機会を逃していた。
 自分でも恋愛には臆病だと思う。それに、自分から恋のオーラを出すこと自体が苦手だった。そういうフェロモンを出しまくっている同姓を見ただけでも虫唾が走る。
 やはり、相手から好きだと言われなければ心を開くことは出来ない。ユイカには鉄の壁があるよねと、学生時代の友人たちからはよくからかわれた。精神科医になどなってしまったから、その壁はますます強固になっている気がする。
「それで、君の診立てはどうなの?」
 黙り込んでしまった私を気にしたのか、三上が柔らかな口調でそう訊いてきた。ずっと回診だった三上は、カンファレンスのための資料をまとめながら、私の話を聞いている。だが、内心では月城の症状に興味をもっている様子だった。
「やっぱり自己愛性のパーソナリティ障害の一種じゃないかと思うんだけど」
「NPDかぁ…厄介だな。薬物検査は?」
「それはすぐにやったけど、白だった」
「月で生まれたって、月星人ってことだろ?」
「まるで竹取物語ね」
「笑い事じゃないよ」
 つい笑ってしまったら、三上に睨まれた。根が真面目な性格なのだ。
 三上にも、例の子どもの頃の話はしていない。だから、つい月城に「信じる」と言ってしまった時の心境は上手く説明できなかった。精神科医だと言っても、結局人の心の全てが分かる訳ではない。
 むしろ、私に向かって「希望ですね」と言った月城の気持ちは、会話の流れでニュアンスは分かっても、その真意までは理解できていなかった。
「ねえ、三上さんの希望って、何?」
「希望?」
「そう、希望」
 三上はしばらく考え込んでいたが、何か言いかけて、やはり口をつぐんだ。
「何よ?今、何か言いかけたでしょう?」
「今の希望は、腹いっぱい昼飯を食うことだ」
 明らかに何か言うのをためらって、三上は急に席を立った。
「ちょっと、まだ相談の途中なんだけど」
 周囲に他の医師がいないのをいいことに、ついプライベートな雰囲気を醸し出してしまった。
「俺は君の先輩じゃないぜ。同期の同僚。そのクランケが病的なのか、本来のパーソナリティによるものかも分らなけりゃ、何も言えないよ」
 三上が部屋を出ていくと、入れ替わりに数人の医師たちが遅い昼食から戻ってきた。急に私もお腹が鳴った。医師はとにかく時間が不規則になりがちだ。
 週末に月城の診察結果を分析するために資料を漁っていたのだが、やはり空腹には勝てない。先に食堂へ向かった三上の後を追うようで嫌だったが、私も席を立った。
 腹がすけば食事をする、眠くなれば眠る。そんな一次欲求が希望なのかと、正直げんなりした気分になった。
 もし、さっき三上が、「希望はお前とつき合うことだ」と言ってくれたら、どう答えただろう。そんな思いが胸の奥にこみ上げてきた。
 だが、そんな交際を求める気持ちさえも、突き詰めれば単なる一次欲求なのかもしれないと思い、思わず笑いがこみ上げてくる。
 精神科医は恋愛に向かない。こういう気持ちの時は、たらふく肉を食べよう。まだ昼だから焼肉という気分ではない。やっぱり血の滴るステーキを食べると一番元気が出る。心の中の空洞も、食欲で満たしてやろうと、私は食堂へと急いだ。

◇ ◇ ◇ ◇◇ ◇ ◇

 翌週の月曜日、月城は約束の時間きっかりに診察室に入ってきた。私は自己愛性のパーソナリティ障害で過去に診察を受けた患者の例を準備して、それに臨んだ。
 月城は先日より明るい表情をしている。今にも踊り出すのではないかと感じる程、向き合って座っただけで心の高揚感が伝わってきた。この週末に、彼には何かがあったのだと直感した。
「先生、彼女が信じてくれました」
 椅子に座るとすぐ、月城は目を輝かせながらそう言った。
「信じてくれたんですか?」
 彼の勢いに呑まれて、またついオウム返しに訊いてしまう。
「はい。先生が信じてくれたおかげです。やはり先生がぼくの希望だったんです」
 そう言うと月城は、私の手を握って「ありがとうございます」と繰り返した。
「詳しく状況を話してください」
 彼の勢いに、嫌な予感がこみ上げてくる。月城は私の言葉を正式な診断結果として彼女に伝えたのかもしれない。もしくは、専門医の言質を取った喜びで、別の妄想が生まれたとも考えられた。やはり、あの最後のやり取りは、医師として答えてはならないことだったと後悔した。
「詳しくもなにも、お話ししている通りです。そして、今夜、ぼくは彼女を連れて月へ帰ります」
 月城の言葉に、事態は思わぬ方向へカーブを切ってしまったのだと感じ、絶望感に襲われた。
「月へ帰るんですか?」
「はい。診察を受けた日の夜、月からテレパシーが届いたんです。月の曜日である月曜日に迎えに行くから帰ってこいと」
「彼女はそれも信じたんですか?」
「はい。一緒にいた彼女もテレパシーを受け取りました。百聞は一見にしかずですね。もう彼女も100パーセント信じてくれています」
 やはり妄想が拡大したのだと確信した。一瞬、頭に措置入院という言葉が浮かぶ。患者に自傷他害のおそれがある場合、強制的な入院措置をとることがあるのだ。そのためには、2名以上の精神保健指定医の診察結果が一致することが必要だったが、緊急の場合は1名の指定医の判断でもよいとされてはいる。ただ、その後72時間以内に2名の指定医による診察が行われる必要があると条件がついていた。
 幸いな事に、この病院の中堅医師である私も三上も指定医の資格がある。このまま放置すれば、月城は月へ帰るという妄想を真実にするために、自分と彼女の生命を脅かすかもしれない。実際の疾患例に、異世界へと行くために練炭自殺を図ったものがあった。このまま月城を帰したら、彼女を道連れに無理心中をする可能性がある。
「今夜なんて急ですね。でも、まだ診察はしたいので、その時間はください」
「はい、もちろんです。先生にはお世話になりましたから」
 もはや猶予はない。私は待合室に残っていた他の外来患者を両隣の診察室の医師に任せ、看護師に月城を見張らせて、少しでも状況を知っている三上を呼ぶために病棟へ走った。
 本来なら幾つか段取りを踏まねばならないことだ。だが、月城の妄想が突拍子もない分、他の医師に一から説明する時間も惜しかった。
 運良く二階の病棟にあがった所で、回診を終えた三上と鉢合わせになる。かいつまんで状況を話すと、思った通り三上はすぐに理解した。
 二人で診察室に戻ると、いつの間にか月城の隣に女性が座っている。
「あっ、先生。実は彼女にも一緒に来てもらっていたんです。一緒でいいですか?」
 そう月城が話す隣で、彼女だと紹介された女性はにこやかに座っていた。
「東野景子といいます。この度は和也さんがお世話になりました」
 私は唖然としてしまった。最悪、患者がふたりになってしまったことも想定しなければならない。
「私は医師の三上と言います。苅谷先生と二人で診察させていただきますね」
 想定外の状況でも、三上は冷静に対処している。はじめて二歳の年の差を感じた。
「苅谷先生から聞きましたが、今夜月にお二人で帰るのですか?」
 患者を刺激しないように、そして、彼女の方の状況を確認するために、三上はそう質問した。
「はい。私も一緒に参ります」
 先に答えたのは彼女の方だった。やはり二人とも患者だ。こんな珍しいケースがあるのだと、逆に好奇心が湧いてきた。
「私、はじめは彼の話が信じられなかったんです。それで、この病院で診察を受けるように勧めました。でも、苅谷先生が彼の話を信じると言ってくださったと聞いて、私も信じようと思ったんです」
 嫌な予感は的中していた。やはり、私の不用意な一言がトリガーになってしまったのだ。三上が一瞬怪訝な顔で私を見る。きっと今度はひどく怒られそうだが、今はそれどころではない。私は録画カメラのスイッチを入れた。後で緊急措置入院の判断の根拠にするためだ。二回深呼吸をし、もう一度大きく息を吸って、私は質問を始めた。
「お二人で帰るということですが、何に乗っていくのですか?」
 この質問には月城が答えた。
「来るときもそうでしたが、私たちは乗り物を必要としません。いわゆる魂だけが移動できるのです」
「ということは、身体は地球に残していくことになるんですね?」
「はい。私たちの身体は、きっと死んでしまったようにみえるかもしれません」
 月城の言葉は、十分に自殺を推測できる。あとはその方法を聞けば、措置入院の申請が出来る気がした。
「では、魂を移動するために使おうとしているものがありますか?」
「特に何も。道具は必要ありません」
 ナイフか薬物という答えを期待したが、肩透かしをくらった。
「では、どこから月へ帰るんですか?」
 間髪を置かず、今度は三上が質問する。
「高い所ならどこでも。この病院の屋上からでも大丈夫です」
 そう答えて、月城は隣の彼女に微笑みかけた。三上はダメ押しをする。
「つまり、魂は高い所から空へ飛ぶんですね?」
「はい」
 月城が返事をした瞬間、別室でもう少し詳しくお話ししたいのでと三上が立ち上がった。診断した結果、緊急措置入院の申請を決心したからだ。
 平静を装ってはいるが、三上がとても緊張しているのが伝わってくる。私も脚が震えていた。
 
 ◇◇◇ ◇ ◇◇◇

 気がつくと、すでに夜だった。緊急措置入院の運用ガイドラインは複雑で、月城と彼女を別室に留めてからその手続きに追われることになったからだ。
 二人の家族にも連絡しているが、いっこうに電話が繋がらない。私は途中から上司の質問攻めにあい、主に手続きなどは三上が行っていた。
 上司たちから問題視されたのは、懸念した通り、私が診察の段階で不用意な発言をしたことだった。もしかしたら、病院を辞めなければならなくなるかもしれない。子どもの頃に心に刻まれた「月から来た王子さま」が、人生の大きな節目になろうとしていた。
 上司たちからの質問が、もはや審問ではないかと思える様相を呈してきた時、重ねて事件が起きた。別室に留めていた月城とその彼女が姿をくらませたのだ。見張り番をしていた看護師が、ついうたた寝をしてしまった数分の間の出来事だった。
 報告を受け、捜索のために廊下へ出ると、すでに病院は蜂の巣を突いたような大騒ぎになっている。その時、三上が血相を変えて走ってきた。
「屋上に行こう」
 三上の声に、「この病院の屋上からでも大丈夫です」と答えていた月城の言葉を思い出した。沈痛な面持ちで話し合っている上司たちを残し、私と三上は階段を駆け上がって屋上へ出た。
 扉をくぐった途端、雲ひとつない夜空に浮かんでいる満月が見える。秋の月は、一年の中でも特に美しい。他の星は見えなかった。その満月に向かって並んでいる月城と彼女の姿が目に飛び込んでくる。
「月城さん、景子さん、ちょっと待って」
 生まれてから発した中で、一番大きな声だったと思う。次の瞬間、落下防止のために設置されている屋上の柵の向こうで、二人は静かに振り向いた。
「先生、もう時間が来ました。私たちは月へ帰ります」
 月城の落ち着いた声が、不思議な響きで私たちのもとに届いた。大声ではないのに、鳴り響いているクーラーの室外機の音に消されていない。
「やめて。早まった事をしないで」
 声がかすれ、涙が止まらない。こんな局面に、冷静でいられない自分が悔しかった。
「私たちのことより、お二人の未来を」
 月城の彼女の景子が、そう言ってまた笑顔を見せた。景子を見つめていた月城が、また私たちの方を見て言った。
「先生は希望でした。これからもそうであり続けてください」
 その瞬間、私の隣にいた三上が月城たちを捕まえようと前に踏み出した。だが、それと同時に月城たち二人はそのまま屋上から空中へ身を投げ出す。
 思わず目をつぶってしまった。目の前で患者を死なせてしまったことの悔いが、胸を刺し貫いていた。心の中には、もはや絶望しかなかった。
「おい、ユイカ…あれ…」
 急に三上が私の名を呼んだ。呼ぶと言うより、思わずつぶやいたような声だった。
 静かに目を開くと、斜め頭上に、空中に浮かんでいる月城と彼女の姿が見える。二人の周囲には、満月の月明かりを濃くしたように、光の膜がかかっていた。
 いつの間にか、三上が私の手をきつく握っている。そんな私たちを、月城と彼女は静かに微笑みながら見つめていた。その姿も、徐々に小さな光の粒になって消えていく。そして一瞬、まるで光の帯が月へと伸びていくような光景が夜空に映った。
 時間にすればどれぐらいだったのだろう。すでに屋上から見えるのは普通の満月の夜だった。無数のビルの灯が街を彩っている。
 それでも三上は屋上の柵を乗り越え、先程まで月城たちが立っていた場所から下を見降ろした。地上に人が飛び降りたような痕跡はない。私はその場にへたり込んで、泣き続けていた。戻って来た三上が、私の身体を支え、立たせてくれた。
「本当に月へ帰ったのかもしれないな」
 医師のものとは思えない言葉だが、私も否定できなかった。
 しっかりと支えてくれる三上の腕が、切ないほど愛おしく感じる。今、この瞬間を一緒にいてくれることが、この上なく嬉しかった。

 月城と彼女の景子は、その一時間後に病院内で見つかった。最上階にあるVIP用の病室のベッドに、二人は並んで横たわっていたのだ。
 だが、二人とも意識はない。カタトニアと呼ぶ緊張病による症状で、よく統合失調症をはじめとする精神科疾患に合併する病状だった。その後、二人の家族と連絡がとれたことによって、より詳細がわかってくる。
 もともと月城も景子も長期間の通院歴があり、診察で述べていたことにも事実と違う虚言が幾つも含まれていた。二人がどのような経緯で知り合ったのかは、家族にも分からないという。とにかく私の診察を受ける前の二週間ほどは家族との接触もなく、二人の足取りは全くの闇の中だった。
 月城と景子が以前から別の病院に通院していたということがわかり、私は上司たちからお咎めなしとされた。むしろ二人の家族からは緊急措置入院の判断をしたことを感謝されたからだ。
 二人はやがて、それぞれ通院していた病院へ転院することになり、私は極めて珍しい症例を担当した医師として論文を書いている。考えてみれば、あの日から今日でおよそ一ヶ月だ。日常はすべて元通りに戻っていた。
「患者の病状を診断しきれなかったなんて、やっぱり医師失格だよね」
 デスクでパソコンのキーボードを叩きながら、私はついボヤキを漏らしてしまう。すると隣の席の三上が、その都度笑って受け止めてくれた。
「医者なんて、一生修行の途中みたいなもんだろ。失格も何もないさ」
 元通りの日常の中で、少しだけ違うのは、私と三上の関係だろう。あの日以来、私に対する三上の態度が変わった。相変わらず、「好きだ」とか「つき合おう」とか、もう一歩踏み込んで「結婚しよう」といった決定的な一言は言ってくれない。だが、それも時間の問題だと感じられるようになった。
 今でも、月城の声が聞こえる気がする。あの、「先生は希望でした」、「これからもそうであり続けてください」という言葉が、心の中にあった鉄の壁を溶かしてくれたのかもしれない。
 もし、月城と景子の魂が本当に月へ帰ったのだとしたら、再び地球へやって来ることも可能だろう。もしかしたら、今日外来で診る患者の中に、こっそりと混じっているかもしれない。それどころか、自分では気づいていないだけで、私も隣にいる三上も、月から地球へやってきた存在なのかもしれないのだ。そう考えるだけで愉快な気持ちになった。
 そして、こんな思いを持ち続けていられる限り、私も自分自身の希望を忘れずにいられそうだ。
「ねえ、そういえば、純一の希望って、何?」
「希望?」
「そう、希望」
 私は三上に、以前した質問をもう一度してみた。周囲に他の医師はいない。
「今度こそ、ちゃんと答えないと一生口きかないからね」
 はじめ困っていた三上の目が、どんどん真剣になっていく。一巡めぐって、今夜は満月だとその時になって急に気づいた。
 さあ、ちゃんと言いなさいよと心の中でつぶやく。かぐや姫の要求は絶対なのだ。もし今回もはぐらかしたら、今度こそ月に代わってお仕置きしてやろう。


※秋は月が綺麗な季節。夜空を見上げると心が和みます。そんな最中に膨らんだ物語でした。最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

いただけたサポートは全て執筆に必要な活動に使わせていただきます。ぜひ、よろしくお願いいたします。