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忘れられた人魚 [短編小説]

 海の中にいた。青い光がカーテンのように揺らいでいる。目の前を色とりどりの魚たちが泳いでいた。ゆっくりと近づいてきたのは海亀だ。小魚の群れは銀色の鱗を輝かせながら目まぐるしく形を変えた。その下を巨大なサメが無関心そうに通り過ぎていく。
 やがて意識の片隅で、夢を見ているのだと由里子は気づいた。たぶんこの光景は、はじめて水族館に連れて行ってもらった時の記憶だ。父親の大きな背中におんぶされ、由里子は水槽のガラスに頬を擦りつけて魚たちの姿を追っている。
「雲間から…月の光が…波の…照して…」
 父親の声がお腹の辺りから響いてきた。耳にではなく身体を伝わってくる低い声。長い年月を経た言葉たちは断片ばかりで、意味がはっきりしない。
「…冷たい…暗い波の…間を泳いで」
 物語だったのかもしれない。どこかの海を舞台にしたおとぎ話。途切れ途切れの言葉の中から、ふいにひとつだけがはっきりと聞き取れた。
「人魚は、ノアの方舟に乗れなかった」
 なぜ、父親はあんな言葉をつぶやいたのだろう。夢を見ている意識の片隅で大人の由里子が考えている。だが夢の中の幼い彼女はそれを特に不思議だとは思わずに、小さな胸の奥に飲み込んだ。曇った水槽のガラスに薄っすらと映る父親の顔が、まるで泣いているように見えた。
 やがて、徐々に視界がぼやけていく。すべての光景が闇の中に溶けた時、由里子は泣きながら目を覚ました。

 三月になったばかりだ。まだ朝方は冷え込んでいたはずなのに、ひどく寝汗をかいている。布団の中の蒸れた空気と、べたついた身体が気持ち悪い。鮮明な夢のせいでうなされたのか、お気に入りの羽毛布団はベッドの下に落ちていた。
 手足は水の中から陸にあがった後のように気だるい。明らかに眠る前より疲れていた。だが、そのまま二度寝するには抵抗がある。しばらく布団の中でぼんやりとした時間を過ごした由里子は、次の瞬間思い切りよく毛布を蹴り上げて起床した。

◇◇◇ ◇ ◇◇ ◇

 午前中は時間の流れが早い。由里子が目的の水族館に到着したのは、正午の少し手前だった。およそ半月ぶりの休日をここで過ごすことに決めたのは、明らかに今朝がた見た夢のせいだ。
 二月半ばから昨日までの間、年度末を控えた仕事は、それこそ殺人的に忙しかった。だが、それ以上に私生活のゴタゴタによるダメージの方が大きい。子どもの頃の夢を見たのは、身も心も疲れがピークだと悲鳴をあげていたからだろう。それが父親との思い出だというのは、ある意味皮肉だとしか言えない。
 いつもの特等席に座って水槽を覗きながら、由里子は自嘲気味に苦笑した。そんな気持ちを察したかのように、棘を立てたハリセンボンが近寄ってくる。青い目が可愛くてツイッターのトップ画像にもしているお気に入りの魚だ。お前もきっと大変なんだよね、とつぶやいた由里子の独り言が聞こえたかのように、ハリセンボンがゆらゆらとひれを動かした。
 由里子がこの水族館を気にいっている理由のひとつは、椅子を自由に動かせることだ。巨大な水槽に寄りかかるように腰かけて、時間を忘れて魚たちを眺めていると、たいがいの事は忘れられた。
 だが、さすがに今日はまだ胸の奥のざわつきがおさまらない。その理由はわかっている。別れたばかりの相手を、否が応でも思い出す場所に身を置いているのだから、まるで苦行に身を投じている僧侶みたいなものだ。そんな荒療治を施してでも忘れなければならないことが、今の由里子にはあった。

 ふいに後ろの方から、お父さんと呼ぶ声がする。振り向くと、まだ小学校の低学年だろうと思える男の子が、うす暗い通路の奥に向かって手を振っていた。
 祝日でもなく、長期の休みでもないこんな平日の昼間に親子連れが訪れているのかと、由里子は少しばかり気持ちがげんなりした。今日だけはあまり家族連れと会いたくない。やっと水の中にたゆたい始めた気持ちが、現実へと引き戻されてしまう。
 この水族館へ来るようになったのは、小宮山晴彦とつき合いはじめてからだった。名前とは裏腹に、出かける時は雨ばかりだった彼との思い出の多くが、ここに詰まっている。
 もともと海が好きな由里子は水族館マニアでもあった。ダイビングも嫌いではないが、やはりお金がかかる。しがない派遣社員には、なかなか手が届かない。実家を離れ、ひとりで暮らしている由里子には、やはり水族館が手ごろで居心地の良い場所だった。

 そんな何事にも高望みしない彼女が、晴彦に魅かれたのには明確な理由がある。晴彦は雰囲気がどことなく由里子の父親に似ていた。オフィスのデスクに向かう様子や、何か考え事をしている時の仕草がである。いつしかその姿に目を奪われるようになってから、二人が特別な関係になるまでの時間は思っていたより短かった。
 由里子にとって晴彦は、直属の上司だ。そして、すでに子供がいる既婚者でもある。まさか自分が不倫をするとは思ってもいなかった。気のおけない親友には相談したが、予想した通り誰も肯定的には受け止めてくれない。
 まず彼と結婚したいのかと問われ、さんざん経緯を質問された揚げ句、彼は遊びだという断言のもとに反対された。結婚したい気持ちが全くなかったと言えば嘘になる。だが、ただ一緒にいたかったという方が、由里子の本心に近い。晴彦という存在は父親の背中のように、安らぎを感じられる場所だったのだろうと彼女は思った。
 だがそれは、背負われているからこそ得られる安らぎでしかない。正面から向き合えば傷つけあう関係。そういう意味でも晴彦と父親はよく似ていたのかもしれない。
 記憶の中の父親は、酒に溺れ、家族に暴力を振るう人だった。

 由里子は二人兄妹の末っ子だ。子どもの頃、家はとても貧しかった。覚えている父親の記憶は少ない。彼女が中学生になる前に父親は亡くなり、母方の祖父の持ち家に母子三人で暮らすようになるまでは、六畳と三畳の二部屋に狭い台所がついた借家が、家族四人の住居だった。
 由里子が見ていた父親の姿は、最初から最後まで売れない物書きでしかない。若い頃に何度か公募の文学賞で最終選考まで残った経験が、ずっと父親を駆り立て続けていたのだろう。執筆中の父親はとても神経質で、テレビをつけただけでも怒鳴られた。
 兄より学校が早く終わる由里子は、帰宅した時に、いつもこっそりと玄関のドアを開ける。そこに父親の靴があると、「ただいま」も言わずそのまま台所にランドセルをおろし、母親が弁当屋のパートから帰るまでじっと息をひそめていた。
 母親は店が廃棄する売れ残りの弁当を、家族のためにと頼み込んで持ち帰ってくる。楽しみだったのはコロッケだ。店の特売品だが、いつも揚げたてでサクサクしていた。気のいい店主が、家の状況に同情して必ず持たせてくれた。まれに父親がいない夕食の時は、そのコロッケを兄妹でお腹いっぱい食べることが出来る。わずかに家族団欒と呼べるひと時だった。

 父親の存在は、由里子の成長とともに厄介さを増していく。進級して担任が変わったり、新しい友達ができると、父親の職業を聞かれるのが何よりも苦痛だった。小説家だと答えるように言い聞かされていたが、一度でも人にそう語ったたことはない。
 由里子にとって父親は、名のある文学賞に応募し続け、誰もが呆れるほど落選し続けた無職の男だ。酒を飲むと母や兄を殴る。由里子が殴られなかったのは、ずっと母と兄が庇ってくれていたからだと思っていた。だが思い返せばそれも少し違う。
 きっと父親は幼い娘を殴るのが怖かったのだ。華奢な由里子を、もろいガラス細工のように思っていたのか、またはそれ以上に、娘を殴ることで自分の中の何かが壊れてしまうのを恐れていたのだと由里子は思った。
 むしろ父親は由里子を連れ歩くことが多かったのだと最近になって気づいた。家の近所を散歩するのが主だったが、たまに遠出することもある。水族館に連れて行ってもらったのも、たぶん由里子だけだったろう。
 矛盾するようだが、由里子にとって父親は決して悪いばかりの存在ではなかった。今でもたまに夢を見てしまうほど、安らぎを与えてくれることもあったのだ。
 不思議なことに、大きな背におんぶされる時も、書き物をしている背中を見つめている時も、由里子には父親への嫌悪感や拒絶する気持ちが湧いてこなかった。二人で歩く時、自然につながれる手を振り払う事の方が罪のような気がした。
 由里子と父親には、他の家族とは共有し得ない何かがあったのかもしれない。それが何かはわからないけれど、死後十七年を経ても消えない懐かしい感覚を娘の心に残せた以上、そこには父親なりの愛し方が確かにあったのだろうと由里子は思っていた。

 最後の応募作の落選通知が届いた日の翌日、父親は死んだ。自殺だった。
亡くなる前夜、原稿用紙の束を借家の物干し場で焼いている父親の背中を、由里子は今でもはっきり覚えている。
 翌日学校から帰ってくると、家に父親の姿はなかった。もう父親には会えないのだと、なぜか彼女は直感した。その死後、家族の間で父親の話はタブーになった。
 結局、由里子は父親が書いた小説を一度も読んだことがない。やがて成長した由里子は、父親と共有したわずかな感覚を出会う男たちの中に求めるようになっていた。高校三年生の春にはじめてつき合った男は売れない年上のバンドマンだったし、大学生になって同棲した男は役者志望の劇団員だ。
 男とつき合う度に傷つき、幾度となく傷つけあいながら、その度に全て忘れてきた。だから由里子は晴彦のことも忘れられるはずだと自分に言い聞かせている。
 二週間前、妻が二人目の子供を妊娠したと晴彦から聞いた時、由里子は耳を疑った。ここ数年、家庭内別居状態の仮面夫婦だと聞いていたからだ。それからの一週間は、不毛な別れ話に費やされた。晴彦にとっては単なる浮気だったという事が痛いほどわかった。
 それでも心のどこかが、まだ現実を受け入れていない。親友の忠告通りだったことが妙に悔しくて、何をするにも指先が震える。だが、晴彦が手切れ金だと言いながら少し厚めの封筒を差し出した時、由里子の中で何かが壊れた。本当に関係が終わるのだという実感とともに、はじめて見ようとしなかった状況の全てが飲み込めた。
 系列会社への配置換えを打診されたのが五日前だ。由里子に伝えたのは晴彦の上司である。彼の叔父にあたる人だと昨日知った。一年近くつき合いながら、晴彦が同族会社の一員だという事を知らなかった自分がひどく滑稽に思えた。
 打診といっても、すでに会社同士でのやり取りは済んでいるようで、派遣社員なのだから当たり前だと言わんばかりの態度だった。晴彦から自分を遠ざけようとしているのは間違いないだろう。由里子の選択肢は、その提案を受け入れるか、会社そのものを辞めるかの二つだ。
 生活の事を考えれば受け入れざるを得ない。もし会社を辞める選択をすれば、登録している派遣会社の心証も悪くなる。次の派遣先を見つけるのも難しくなるかもしれない。返事の期限は明日だった。だから由里子は、最後の心の整理をするために、あえてこの日に休暇をとったのだ。

 急に背後からバタバタという足音が近づいてきて、由里子の横で止まった。どうやら先程の小学生が、水槽を覗いているらしい。凄いよお父さんと、後ろの男に向かって話しかけているのが聞こえた。見たくないと思いながらも、つい見てしまう。そこには晴彦と同年代ぐらいの男が、幼い女の子をおんぶして立っていた。
 みすぼらしい姿ではない。贅沢ではないが、親子の服装には清潔感が漂っている。由里子の視線を感じたのか、静かにしなさいと息子を小声で制した男は、申し訳なさそうに頭をさげた。話しかけられると面倒なので、まだ男が顔をあげる前に由里子は水槽へと視線を戻す。よりによって、こんな日に出会いたくない組み合わせだと、今度は心底げんなりした。
 男の子の方はかなり興奮気味で、食い入るように水槽を覗き込んでいる。父親の制止も効果なく、話し声は止まなかった。女の子の声はしない。父親の背中で眠っているのだろうか。見たくないと思いながらも、由里子の視線は、そこに映る女の子を探すように水槽のガラスの上を辿った。
 起きている。むしろ男の子以上に、その心は水の中を泳いでいるような顔つきだった。男は、女の子が水槽の中を見やすいように身体を斜めにして立っている。
 その背中を見た途端、なぜか由里子の眼から涙がこぼれた。反対方向に向いているため、有難いことに男の顔は見えない。慌てて手の甲で涙をぬぐう。
「人魚は、ノアの方舟に乗れなかった」
 突然、今朝夢の中で聞いた父親の言葉がよみがえってきた。あの言葉を聞いたのは、水族館に行った日ではない。記憶が音をたてて組み替えられた。父を見た最後の日に聞いたものかもしれないという思いが由里子の胸の奥で膨らんだ。これまで別々の場所に転がっていた記憶の欠片がつながって、急に鮮明になっていく。そうだ、父は次の作品を執筆中だった。父親の背中越しに見た原稿用紙の枡目が深い記憶の海の底から浮かんでくる。
 机の上には、人魚にまつわる本が何冊も積まれていた。小川未明の『赤い蝋燭と人魚』やアンデルセンの『人魚姫』をはじめ、あの頃の由里子には興味がわかなかった分厚くて難しそうな本もたくさんあった。きっと、父親が最後に書いていた小説は人魚が登場する話だったのだ。

 自殺する数日前、まだ家族が誰も帰ってきていなかった夕暮れ時に、珍しく父親は書いている途中の物語を由里子に読んでくれた。その冒頭が、あの言葉だ。
 ノアの方舟にもちなんだ物語だったのだろう。父親は自分の人生を全て注ぎ込むようにして小説を書いていたのだと、今の由里子には何となくわかる。最後になるかもしれない小説に自分の運命を重ね合わせていてもおかしくはない。人魚とは父親自身の事であり、乗れなかったノアの方舟とは、望んでも辿り着けなかった文学の世界そのものを指していたのではないだろうか。どんなに小説を書いても世に出ることはなく、やがて誰からも忘れ去られていく。そんな自分の呪わしい運命を予感し、大洪水の時に声をかけ忘れられて方舟に乗れなかった人魚のことをイメージした。
 次々と由里子の想像は加速していく。今となっては、どんな話だったのかまで思い出すことは出来ない。父親の原稿は残っていないし、一度封印してしまった記憶は、どんなに思い出そうとしても原形を取り戻すことは出来ないだろう。だが、その欠片は記憶のあちこちに埋め込まれて残っているのだと由里子は実感していた。
 由里子の中で、今は思い出の世界にだけ生きている父親がペンを走らせていく。それは、人の世界にとけ込み、ともに生きたいと望んだ人魚たちの物語だ。どの人魚も、決して幸せに生きる事は出来なかった。
 育ててくれた老夫婦のために、ろうそくに絵を描いた人魚の娘がいる。だが、欲に目がくらんだ老夫婦に裏切られ、人買いに売られてしまった。他国へ送るために乗せられた船を母親や仲間の人魚たちが嵐を起こして沈め、結局娘は海へと帰っていく。
 恋をして、嵐の海で懸命に王子を救った人魚姫は、美しい声を捨ててまで人間の足を手に入れ、王子のそばで生きようとした。しかし、眼覚めと同時に人魚姫に救われたことを忘れた王子は、隣国の姫と結婚することになる。王子をナイフで殺し、その血を身体に浴びなければ、もとの姿に戻れないばかりか海を漂う泡となって消えてしまう人魚姫。究極の選択を迫られた彼女は、結局自分の身を犠牲にして、最後は海の泡から立ちのぼる煙となって空へと去っていった。

 どれぐらいの時間が経っただろう。ふいに由里子は我に返った。父親の事を考えていたはずが、いつの間にか人魚と自分を重ねはじめている事に気づく。これ以上は考えないようにしよう。このまま考え続けると、人に裏切られた人魚のイメージが呪縛になりそうだと彼女は思った。自分は忘れられた人魚ではない。晴彦のために自分を犠牲にして会社を去る訳ではないのだ。
 その時、それでもくすぶり続けていた心の火を消すように、突然冷たい液体が由里子の顔に降ってきた。驚いて見上げると、女の子が持っていたジュースの缶が、由里子の頭上に口を向けるように傾いている。液体はそこからこぼれ出ていた。
 由里子がもらした小さな悲鳴に気づいたのか、ふり返って事態を知った男が慌てて女の子を床におろす。
「すいません。娘がとんでもないことを」
 そう言ってポケットからハンカチを出した男は、その先をどうしたものか躊躇しているようだった。
「大丈夫ですよ。ちょっとだけだから」
「でも服だけでなく髪にまで…」
 由里子にしてみれば、髪の毛よりも服を汚された方が問題だった。女の子の手を見るとオレンジジュースの缶を握っている。よかった、オレンジジュースならシミは目立たない。処置が早ければ水だけで落とす事が出来る。由里子は少しほっとした。
 横から急に、男の子が覗き込んできた。やっと状況が飲み込めた様子の女の子は、今にも泣き出しそうな顔をしている。男は右手でハンカチを差し出したまま、まだどうすればいいか悩んでいる様子だ。なぜか由里子は可笑しさがこみ上げてきた。
 笑い声が出るのを何とか抑えて、笑顔だけを女の子に向ける。その小さな手に触れると温かかった。きっと魚を見ているうちに眠気に襲われ、手に持った缶が傾いてしまったのだろう。由里子の笑顔に安心したのか、女の子の目が笑った。黒目が大きくて、可愛い目だ。そのまま抱きしめそうになるのをこらえて、男に言う。
「もし良かったら、そのハンカチを濡らしてきていただけますか」
「はい、もちろんです」
 やっとやれることができたと安堵した様子の男は、さっきより大きな声で返事をした。だが、今度は子どもたちをどうするかで迷ったようだ。ぼくが見ているよと、横から男の子が言った。慣れているのか、さっと妹の手を握る。安心した男は、洗面所を探しながら走っていった。
 三人の間に、しばらく無言の時間が流れていく。先に口を開いたのは女の子だった。ごめんなさいと謝る妹を見て、男の子も一緒に頭を下げる。二人ともいい子なのだと素直に思えた。
 由里子はバックの中からハンドタオルと一緒にキャンディを取り出して二人の手に握らせた。ふたりは、ありがとうと言って頭を下げ、それを受け取った。その頭の下げ方が、どこか父親である男に似ていて、また可笑しさがこみあげてくる。今度は遠慮なしに笑った。
 ハンドタオルで髪にこぼれたジュースを拭きながら、由里子は小さな兄妹に笑顔を向ける。子どもの年齢は判断しかねるが、たぶん八歳と五歳という所だろう。
「お母さんは、家でお留守番なの?」
 何気なく訊いてしまった言葉に、一瞬男の子の表情が曇った。由里子の心の中でアラームが鳴る。もしかしたら、父子家庭なのだろうか。思慮なく訊いてしまったことを後悔した。
 案の定、男の子は固い表情で、母親は昨年亡くなったのだと答えた。女の子は立ったまま水槽を覗いている。言葉を失った由里子は、女の子を自分が腰かけていた椅子に座らせた。
「お待たせしてすみません」
 そこへ、ハンカチを水で濡らした男が戻ってくる。走って来たせいか、少し息を切らせていた。由里子が服にこぼれたジュースをハンカチで拭きとる間、男の子は父親と一緒に、その様子を真剣な眼差しで見つめている。本当にシミにならないか心配なのだろう。真面目さまでよく似た親子だ。
 ふと女の子の様子を伺うと、ずっと水槽に貼りつくようにして魚を見ている。服に視線を戻しかけた時、急に女の子が、お母さんがいると水槽の奥を指さしながら声をあげた。
 全員の視線が女の子の指さす方向に向けられる。そこには、鮮やかな瑠璃色の衣裳をまとったような魚が泳いでいた。水面から差し込む光がベールのようにゆらめき、その中を泳ぐ姿はまるで踊っているようだ。
 一瞬、その姿に人魚のイメージが重なった。何度もこの水族館を訪れている由里子でさえ、まだ一度も見た覚えのない魚だ。やがて、一番奥の岩陰に消えた魚は、そのまま再び姿を現わすことはなかった。

◇◇ ◇◇◇ ◇◇

 結局、閉館の時間になるまで、由里子はこの親子と一緒に過ごしていた。幻のように現れて消えた、あの瑠璃色の魚は何だったのだろう。もしかしたら、自分も、あの親子も、ひと時の幻覚を見ていたのかもしれないと由里子は思いはじめていた。
 あの子たちの母親は、治癒するのが極めて難しいタイプの癌だったそうだ。早くから死期を悟っていた彼女は、まだ幼くて母の死を理解できないであろう子どもたちに、もうじき自分は魚になって海に還るのだと教えていたらしい。
 南の海辺にある小さな街で生まれた母親は、心から海を愛していた。最後の夏に、海岸で撮ったという家族の記念写真を、男は見せてくれた。あの魚のように瑠璃色のドレスをまとった彼女は、少しやつれてはいながらもとても美しい。
 由里子は、はじめて初対面の相手の前で泣いた。せっかく乾きかけていたハンカチが、そのままでは返せないと思うほど涙で濡れた。男は妻の遺言通りに、故郷の海に散骨したという。その日から彼女は、あの親子の思い出の中で、決して忘れられない人魚になったのだ。

 その日の夜、明日への準備を整えた後で、由里子はもう一度、自分の過去を振り返っていた。あの日、おそらくまだ自殺までは考えていなかった父は、一人娘に物語を残したかったのだろう。そう思うと、由里子は無性に父親が書いた小説を読みたくなった。
 それと同時に、晴彦のことでくすぶり続けていた胸の奥が、不思議なほど晴れていることに気づく。すでに由里子の覚悟は決まっていた。プライドを捨ててまで、あんな会社の禄を食む必要はない。
 ー人魚は、ノアの方舟に乗らなかった。
 由里子は、新しい手帳の一ページ目に、ボールペンでそう記した。水族館からの帰り道で買った手帳だ。
 書いた言葉を、もう一度声に出して読みあげてみる。父のもとへ届けと祈っていた。これが、父親から受け継いだ物語の新しい書き出しなのだ。
 大洪水の時、もともと水の中で生きるものたちは、ノアの方舟には乗っていない。人魚は陸に生きるものたちと、もともと住む世界が違う。これからはもっと、海を愛する人たちとの縁を大事にしよう。
 そんな思いを抱きながら、続けて由里子は、名刺の裏に走り書きされた住所と電話番号をアドレスページに書き写した。あの親子の住所だ。明日、仕事を終えて帰宅したら、涙で汚してしまったハンカチを洗濯して送る。親子が三人で暮らす街は、由里子の最寄りの隣の駅だった。

 不思議な体験の共有は、時にあらゆる壁を一瞬で崩していく。同じ電車で帰ってきた別れ際、由里子は女の子からの願いに応えて、また一緒に水族館へ行く約束をした。男は恐縮していたが、兄妹は人目もはばからず喜んだ。
二人から必要とされることが素直に嬉しい。あの人魚の子供たちが、少しでも多く幸せであってほしいと祈る自分がいる。そう由里子は思った。
 二人に好きな食べ物を訊いたら、声を揃えてコロッケだと言う。かつての自分と兄を見るような兄妹だった。次に会う時は、タッパーいっぱいにコロッケを揚げていこう。きっと喜んでくれる。由里子の胸に、その時の光景が浮かんでいた。
 そこから先の未来がどうなるかは誰にもわからない。ただ、ひとつだけ確かな事は、物語を綴っていくのは自分なのだということだ。ノアの方舟に乗らなかった人魚の物語は、すでに由里子の中で動きだしていた。
 まずは、明日に備えて眠ろう。由里子はたゆたう海にダイブするようにベッドへ横たわり灯を消した。部屋の窓から青い月明かりが差し込んでくる。その中を、何かが一瞬通り過ぎていった気がした。それはまるで、水族館で見た瑠璃色の魚のようだった。

※『12星座の恋物語』シリーズを掲載していた時に、好評をいただいた12作品を再度アップしていきます。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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