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七度目の恋、二番目の人 [短編小説]

 猫みたいな女だと言われた。人のタイプを猫や犬に分類するのも、ありきたりすぎる例えで面白くもない。その上、別れ話の意味が分からないのだという。あれだけ丁寧に話しても分からないなら、たぶんこの男には一生理解できないだろうと思った。
 そればかりか、アクセントが女という言葉を強調している。なんだか見下されているようだった。だからニャーとだけ答えて電話を切る。それでエンドマーク。スマホの電話着信もブロックした。関係を断ち切るだけなら便利な時代になったものだ。
 そもそも時差も考えず、深刻そうな声で国際電話までしてくる神経を心底疑う。せっかく美味しいコーヒーを楽しんでいたのに、くだらない電話で一気に不味くなった。かといって、もとはと言えば自分に男を見る目がなかったせいなのだから仕方ない。一時でもこんな男に魅かれたのも事実なのだ。こうして六度目の恋は、あっけなく幕を閉じた。

「今の電話って誰から? もしかして例の見合いの男?」
 私の不機嫌そうな様子を見ながら、向かいの席に座っている満島尚美が訊いてくる。バックからリップクリームを取り出しながら、そうだと答えた。
「今ので終わりなわけ?」
 尚美の目が笑っている。この腐れ縁の悪友は、今のやり取りで全てを察したはずだ。それなのに、分かり切った質問をされるのが一番鬱陶しい。
「運命の出会いだったんじゃないの?」
「しつこいなぁ。こうなる運命の出会いだったのよ」
 私はスマホの液晶を鏡代わりに覗きながら返事した。尚美は爆笑している。正直、内心ではカツンときたが、ついつられて一緒に笑ってしまった。こういう嘘のない所が、尚美の魅力なのだ。

 親戚の紹介でお見合いした男だった。男は一目で私を気に入り、私も男に少なからず好感を持てたので付き合うことにした。何より仕事が出来そうに見えたからだ。学生時代から付き合っていた恋人と別れた後だったので、見合いの機会を得たこと自体が人生の節目かもしれないと思った。
 だが、数ヶ月して親しくなってきた頃、男には酢豚の好みが原因で別れた彼女がいたことを知る。付き合う男の元カノの事など気にしない性分なのだが、この時はなぜか心に引っかかった。たぶん、男の話し方に嫌なものを感じたからだったろう。だから思い切ってその元カノを訊ねてみた。予感は的中。男の本性を知ってしまった。
 見合い男の元カノと会ったあの雪の日に、もう答えは出ていたのだ。それなのに、諦めが悪い男はしつこく考え直してほしいと連絡してきた。それは愛情からではない。紹介した親戚に対して自分のメンツが潰れるからだろう。きっとこれから先、あることないこと好き勝手に言われるに決まっている。それでも良いと思った。
「ご両親が日本に帰るのって明日の便だっけ?」
 周囲の話し声の隙間から、尚美の声が聞こえた。ちょっと考え事をしていると、聞き逃してしまう。食事時の賑やかさは、やはりお国柄だ。
「そうだよ。今夜、彼と一緒に食事をするの」
「そっか。ほんとに式は挙げないつもりなんだ?」
 尚美が少し残念そうに言った。
「そうね。今夜が家族だけの結婚式みたいなものかな」
 周囲に及ぼした影響を考えると、派手な結婚式などはもう出来ないと思っている。
 ずっと勤めていた編集社を年明けとともに退職した。辞表を出した時、上司からは強く引き止められた。それはそうだろう。一応「食」に関する雑誌の編集部では、読者向けの顔のような存在になっていた。SNSでの広報も担っていたから尚更だ。
 それでも、人生は一度きりだから後悔したくないのだと話したら、不承不承ながら辞表を受け取ってくれた。「ミラノの特集をする時は連絡してください」なんて軽口を上司は笑って受け止めてくれたが、いつも陰ながら味方してくれたその人に一番迷惑をかけたのは確かだ。
 だが、今しかないのだと思った。このタイミングを逃せば、きっと自分は今の仕事と生活に満足して一生冒険はしなかったろう。あと何度か恋をして、流されるように結婚するか、独身で過ごすか。そのどちらかだったような気がする。
 だから、思い切ってミラノで暮らすことにした。親戚から紹介された見合いを反故にして、腐れ縁の男を追ってこの国へ来たのだ。勘当されてもおかしくないシチュエーションだったから、実際揉めに揉めたが、最後には両親もそれを許してくれた。
「景子は全部のしがらみを断ち切ってきたのね」
 尚美のつぶやきと同時に、店の時計のチャイムが鳴った。
「じゃあ、そろそろ行くわ」
 そう言って、尚美は帰り支度をはじめた。心配してイタリアくんだりまで来てくれた唯一の親友だ。お互いの恥部まで知り合った腐れ縁の悪友を見つめながら、男も女も腐れ縁だけが残ったのだと思ったら可笑しくなった。
「慶太と幸せになりなよ」
 別れ際、尚美はハグしながらそう言った。そのつもりだよと言い返して、私も力いっぱい彼女を抱きしめた。次に会えるのはいつだろう。そう思ったら、胸の奥から何かがこみ上げてきて、目頭が熱くなった。

 小野慶太とは、何度も別れてはよりを戻してきた。大学時代からだから、もうかれこれ十二年近くになる。
 最初につき合ったのは大学一年の夏。慶太は建築学科で、いつもたくさんの課題に追われていた。そのため半年もすると、私は放っておかれることが多くなる。若かったうえに、さほど厳しくない学部に通っていた私は、どうしても他に目移りした。マンモス大学には、いわゆる人気者が山ほどいたからだ。そして彼らも私を放っておいてくれなかった。
 やがて、慶太と別れて他の男とつき合うようになる。かといって慶太とは、お互いに湿っぽい空気になったことは一度もない。逆に新しい相手との恋の悩みも慶太に相談していたぐらいだ。慶太は、いつも二番目に好きな人という定位置にいたといえる。
 そんなことが、大学時代を通して続いた。だから、私と慶太が別れたと聞いても、周囲はたいして気にしなかったようだ。それでも社会人になってからはずっと慶太ひとりだった。彼の隣が一番居心地の良い場所になっていたのは間違いなかった。
 私自身、ネガティブな感情に飲み込まれている暇があるなら、楽しく騒いで憂鬱なことは笑い飛ばしてしまいたいタイプだ。だから恋人にもそういう姿勢を求めるし、率先して笑いをもたらしてくれるような相手でないと退屈した。慶太はまさにそういう私の好みを満たしている男だったのだ。
 一緒にいれば楽しくて、別れてもそばにいてくれる腐れ縁の男。きっとこれからも、彼は自分の傍にいてくれるに違いない。いつしか私はそんな慶太の存在に、どっぷり甘えていたのだろう。
 しかし、慶太の思いは違っていた。それを知ったのが、昨年の夏だった。初心を貫いて建築家になった彼は、日本ではなくミラノで働くという道を選択したのだ。イタリアの世界的建築家の来日講演を聞きに行ったのがきっかけだったという。そして彼は努力の末にその建築家のスタジオで働く未来を勝ち取っていた。
「一緒に行ってくれないか?」
 慶太にそう言われた時、全く心が揺れなかったかと言えば嘘になる。だが私にも編集の仕事があった。
「それは無理よ。今の仕事を失いたくないわ」
「そう言うと思った」
 慶太は、いつも通り笑顔で受けとめてくれた。だが、それにほっとした次の瞬間、彼の言葉に胸をえぐられた。
「たぶん、もう一生会う機会はないと思う。本当のさよならだね」
 そう言って、連絡先も教えずに慶太はミラノへ旅立っていったのだ。人生の一区切りがついた気がした。
 親戚から見合いの話が来たのは、そんな別れの直後だ。それまでは一度もなかった見合いという機会を得たこと自体が、人生の節目だからかもしれないと変に納得した。六度目の恋で身を固めるのも悪くない。本当にそう思ったのだ。
 今振り返ると、それこそ運命の神様がくれた出来事だったのかもしれない。見合いの男の元カノと会ったことが、慶太がかけがえのない大事な存在だったことを思い出させてくれた。その元カノにも、私にとっての慶太のような存在が近くにいたからだ。
 あの二人は、今ごろどうしているだろう。親が営んできた中華料理店を盛り立てようとしている二人。そんな日本での思い出が、なぜか遠い過去のことのようにも思えた。まだ日本を出てから三か月しか経っていないのに。

「どうしたの?物思いにふけったりして」
 急に耳元で慶太の声が響いた。落ち合う約束の時間より早く着いて、しばらく私を観察していたようだ。
「白昼夢でも見てるみたいだったよ」
 相変わらず、慶太の笑顔はまぶしい。この国に来てから、余計そう感じるようになった。
「感傷に浸っていたのよ。悪い?」
「日本に帰りたくなったのかと思って」
「バカ」
 腐れ縁の二人の会話なんて、こんなものだ。だけど、それが今は何よりも愛おしい。私はさっき悪友の尚美をハグした以上に力を込めて、慶太の身体を抱きしめた。

◇◇ ◇◇ ◇ ◇◇

 慶太の提案で、夜はミラノ郊外にあるちょっと変わった内装のトラットリアで食事をすることになった。明日日本に帰る予定の両親にとっては、この国での最後の夕食になる。気取りのない居心地が良い店で過ごしてほしいという慶太の心遣いが嬉しかった。
「料理はカメリエーレのチョイスに任せることにしたよ」
 ミラノに来てから、慶太はこの店の常連だという。すでに私も何度か一緒に食事に来ていた。最初はカメリエーレが何だかもわからなかったが、いわゆるウェイターだ。でも、この店のカメリエーレは、実によくお客の好みを理解している。
 両親をともなって店に入ると、早速その顔馴染みのカメリエーレが、ワイングラスを拭きながら出迎えてくれた。そういえば、まだこの店で他の日本人を見たことがない。たぶん地元の人しか知らない店なのだ。オッソブーコという仔牛すね肉の煮込みやコトレッタ・アッラ・ミラネーゼというミラノ風カツレツなど、ミラノの伝統料理が堪能できる。私にとってもすでにお気に入りの店だった。
 今夜はいつも座っていた大テーブルではない。店の一番奥にあるこじんまりとした四人掛けの予約席。木製の椅子に座ると、早速慶太が流暢なイタリア語でオーダーした。といっても、この程度の金額でお任せすると言っただけだ。良い食材が入っているから今夜はラッキーだぞと、カメリエーレがことさら大きな声で答えた。
「なんでこの国の人は、あんなに声が大きいんだろうね?」
 突然、母が真面目な顔で慶太に訊いた。私と慶太は、その質問に思わず吹き出してしまう。母はすっかり慶太の事を気にいっていて、はじめから今回のことを擁護してくれた。問題は父だ。許してはくれているが、まだ本音を聞けてはいない気がする。だから今夜こそ、ちゃんと父の気持ちを知りたいと思っていた。
「今日のお勧めを出してくれますから。まず乾杯しましょう」
 慶太はそう言って父に食前酒を勧めた。家族四人の最初の晩餐だ。スパークリングワインはしっかり冷えている。グラスは芸術品のように洒落たデザインだった。
「イタリア人は何から何まで洒落ているんだなぁ」
 父はグラスを手に感心そうに眺めている。慶太がワインをグラスの淵スレスレまで注ぐと、「おいおい、零れる零れる」と言いながら、慌てて啜りあげた。その様子を笑いながら見ていた母が、「私にも注いで」とグラスを差し出す。こんな光景を目にすることがあるとは、正直思ってもいなかった。
 やがて、四人分にしては明らかに多すぎる品揃えの料理が、どんどん運ばれてくる。アンティパストとして出てきたピザも美味しかったが、ウニのパスタや手長エビのお刺身など新鮮で美味しい魚介類も堪能できた。内陸に位置するミラノでは新鮮な魚介類を使った料理に出会うことは難しいと聞いていたが、この店は調理寸前まで生きている魚介を使うという。肉ばかりにならなかったのは、私の両親を見たカメリエーレの気遣いだろう。
「ふわー、こりゃ凄いねぇ」
 母はいちいち大袈裟に驚きの声をあげる。私は私で、「ちょっと待って、写真撮るから」と、編集者時代の習慣でついカメラを向けてしまった。そんな娘の姿を見て、母はすっかり呆れている。だが1本目のワインが無くなった頃には、賑やかなイタリア人たちさえ顔負けに騒ぐ母の姿が見られた。
 最初は食べきれないだろうと思った料理も、いつの間にかすっかり食べきれている。この国の人が大食なのは、体格が大きいからだけではないのだと思った。きっとこの国の空気が、人の心を解放させ、食欲を刺激しているに違いない。
 楽しいひと時も終盤になった頃、ずっとご機嫌な様子だった父が、急に私に言った。
「いろいろあったと思うが、今の景子は幸せか?」
 意外な質問だった。父と人生の幸不幸について話したことは一度もない。直接何かを相談したことも、今回の慶太とのことが初めてだったかもしれない。最後には「お前の人生だから、好きにしなさい」と言ってくれたが、それまで父は目を閉じて終始考える素振りだったのだ。だから父が、このタイミングでこんな質問をしてくるとは思いもしなかった。
 母は慶太に通訳させて、カメリエーレとレシピについて話している。私と父だけが、まるで心の糸電話で話しているようだった。
「いきなり、そんなこと訊く?」
 咄嗟にどう答えようか迷った私は、つい訊き返してしまう。まだ右も左もわからない異国の地で、これからのことなどリアルには考えてなどいなかったのだ。慶太も働き始めて間もない。決して裕福な暮らしが待っているという保証もないし、「幸せ」かどうかを即答することが正直なところ私には出来なかった。
「これからのことじゃない。今が幸せかと訊いているんだ」
 まるで私の考えを読んでいるように、父が言葉を足した。
「うん……今ってことなら、とっても幸せだよ」
 一瞬、店の中の喧騒が消えて、父と私の時間だけがゆっくりと流れている気がした。
「それならいい、今が幸せなら。あとはそれを一日ずつ続ければいいんだ」
 父はそう嬉しそうに言うと、またグラスを手に取る。父の声は少しの淀みもなく明解だった。きっと父自身がそうしてきたのだろう。愚直なほどに真っ直ぐに、一日ずつ続けてきた先に今があるのだ。
 私は急に胸が熱くなって、思わずテーブルの上のワインボトルを握った。
「お父さん、まだ飲めるでしょう?」
 そう言いながらワインボトルを傾けたら、視界がぼやけて、グラスにどれぐらいワインを注いでいるのか見えなくなってしまった。
「おいおい、零れる零れる」
 父の声が、慌ててワインを啜りあげる音の中に消えた。

◇◇ ◇◇ ◇◇◇

 翌日、空港で両親を見送った後、もう一度慶太と新居を探しに出かけた。ミラノに来た時、当然慶太はひとり暮らししか考えていなかったから、ふたりでゆったり暮らせる家を見つけなければならない。
 幾つかの物件を見ながら、二人でこれからのことを話した。昨夜の父との会話について慶太に話すと、彼は真っ直ぐに私を見つめた。
「今の景子は幸せ?」
 急に、父と同じ質問をする。
「今はってことなら、幸せだよ」
 父の質問への答えと同じ返事をした。
「でも、ぼくはずっと二番目に好きな人だったよね? それでも幸せなんだ?」
 慶太の目が意地悪そうに光っている。なんで男という生き物は、こうも唐突な質問を思いつくのだろう。
「そうね。二番目なのは、これからも変わらないと思う」
 私も意地悪な気持ちが湧いてきて、そう答えた。慶太は一瞬驚いた顔で、私を見た。
「私にとって、今のあなたとの恋は七度目だわ」
「へぇ、そうなんだ」
 いかにも関心なさそうな口ぶりだが、内心では動揺しているのがわかる。だてに十二年もつき合ってはいない。
「それで、一番好きな男って誰なの? 俺の知ってる人かな?」
 たぶん、同じような会話を過去にもしていると思った。でも、その時に言った男の名前は、全て間違いだ。これから言う男が、私にとって一番好きな人だという確信がある。
「その人はね、ずっと妻や子どもを愛し続けてきた人なんだ。愚直なまでにね」
 慶太はまだピンときていないようで、あれこれと質問してくる。どのタイミングで種明かししてやろうかと思いながら、私は日差しの中の白い道を歩き始めた。
 愚直さでいけば、慶太も父と一、二を争っていると思う。それでも二番目だということに意味があるのだと思った。まだこれから先の二人の人生は長いのだから。
 いつか子どもが出来たら、あなたのパパは、七度目の恋で見つけた、二番目に好きな人だと教えてやろう。
「今が幸せなら、それを続ければいい」
 父から教えてもらった、この幸せな生き方と一緒に。

※最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
この作品は「酢豚にパイナップル」の連作短編になっていますので、よかったらそちらもどうぞ。


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