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台風一過 [短編小説]

 嵐が近づいていた。朝方は綺麗に澄み渡っていた空が、今は真っ黒な分厚い雲で覆われている。保田麻里はデザイン事務所の窓から空を見上げてため息をついた。
 関西地方はすでに暴風雨なのだろう。ここでもビルの隣の大きな銀杏の木が風に揺れている。今朝、出勤前に見てきた天気予報では、夜中に紀伊半島に上陸すると予想されていた。まだ8月の半ばだというのに、まさか台風で帰宅できない事態になるとは、麻里は夢にも思っていなかった。
 この数年の間に、台風は大型化していて被害も年々大きくなっている。昨年は電車やバスなどの交通機関も防災のために運行を取りやめたほどだった。今回もすでに運休の告知が出ている。
「こんなことなら、お泊りセット持ってくれば良かったなぁ」
 ふいに隣の席に座っている同僚の加藤弥生がつぶやいた。呑気な口ぶりに一瞬イラっとする。あんたのミスのせいでこんな目にあってるんじゃないと言いかけて、麻里はぐっと言葉を飲み込んだ。それでもざわつく心は押さえきれない。昨日、やっと納品が済んだと思ってホッとした矢先だったから、余計にショックだった。
「彼氏の家が近いんだから泊りにいけば」
 少し嫌味っぽく聞こえたかもしれないけれど、思わずそう言っていた。弥生の彼氏が今東京にいないのは知っている。一週間前、直接本人から聞いていた。夕べも仕事先からLINEが届いている。まさか同僚から紹介された彼氏が、昔付き合っていた男の一人だとは想像もしていなかった。
 もちろん弥生には話していない。そんなことで仕事がやりにくくなるのは嫌だったからだ。ところが男はそんな麻里の心理につけ込んで、頻繁に連絡してくるようになった。
 とっくの昔に消したLINEから再びメッセージが来る。男はずっと繋がりを残していたのだろう。ちょっと気持ち悪かったが、返事をしないと弥生に全部話すと脅されたせいで、既読スルーは出来なかった。
 つき合っていたと言っても、当時は友だち以上恋人未満の関係でしかない。許したのはキスまでだった。それでも月日を経た今となっては何とでも言える。ブラック寄りの会社とはいえ、やっと見つけた職場だった。だから二人で会ったのも、付きまとわないで欲しいと直接本人に話すためでしかない。だが、結局それだけではすまなかった。

「それがダメなのよ。彼、先週から撮影に行っちゃってるからさ」
 相変わらず呑気な口調で弥生が答えた。直しの指示は届いているのに、さっきからお菓子を食べている。
「勝手に泊まっちゃえばいいじゃない。それとも部屋の鍵持ってないの?」
「持ってない。留守中にあたしが機材を触るのが嫌なんだって」
 弥生はさも不服そうにそう言った。意外な気がした。案外、男が言っていた通りで、弥生は本命の彼女ではないのかもしれない。
 弥生と男が別れてしまえば、麻里も気が楽になる。できればまだ一線を超えないうちに、弱みには消え去ってほしかった。そうすれば、対等な立場で今後の事を考えられる。昔の男だけれど、彼は以前よりずっとましになっていた。かなり前途有望なカメラマン。今も、売れっ子のアイドルの初写真集の仕事でサイパンに行っている。
 半ば脅迫めいたメッセージで強引に麻里を呼び出したのも、真面目に今でも好きだと伝えたかったからだとは理解できた。本命はずっと麻里だったのだという。信じはしなかったが、不思議と嫌な気はしなかった。だから別れた当時の状態までは比較的短時間で許してしまったといえる。
 激務のうえに低賃金なCG制作会社で働くと誰でも気づかぬうちに社畜になってしまう。今思えば、そのストレスが冷静な判断を狂わせていたかもしれない。麻里からすれば、彼も他に三人いる恋人未満の男たちの一人でしかなかった。
「麻里はさぁ、最近彼氏いるの?」
 弥生が急に矛先を向けてきた。合鍵を渡されていないことを思い出して、少しへこんだ気分を解消したいのだろう。麻里にはつき合っている男もいないのだと聞いて、歪んだ自己満足に浸りたいのだと思った。その気持ちを隠さない口ぶりが癪に障った。
「それがね、昔付き合ってた男が復縁したいってしつこいんだ」
 言った途端、心臓が心地よく踊る。弥生の目が驚いたと言いたげに見開かれていた。明らかに動揺している。いい気味だと麻里は思った。

◇◇

「保田君、こっちのCG手伝って」
 チーフの森山がデスクから叫んだ。朝までに全部の修正を終わらせなければならないのは分かっているが、リミットがある仕事は結局能力のある者にしわ寄せがくる。麻里はとっくに三人分程度の作業を終えていた。隣でモニターを覗き込んだまま凍りついている弥生が憎たらしい。
「弥生、顔が死んでるよ。ちょっと顔でも洗って来たら」
 ついつい語尾が尖る。窓の外では風が吹き荒れていた。BGM代わりのラジオで、アナウンサーが台風の上陸を報せている。関東では、これからますます風雨が激しくなるそうだ。部屋はクーラーで冷えているはずなのに汗がひどい。時間に追われて緊張しているからなのか、それとも体調を崩し始めているからなのか分からないが、とにかくいつもと違っている。
「せめて仮眠とらせて欲しいよぉ」
 仕事が出来ない奴ほど泣き言を言うのはなぜなのだろう。弥生のつぶやきを聞きながら麻里はそう思った。
「元はあんたのせいなんだから、泣き言言わないの」
 ついつい本音が出た。途端に恨めしそうな弥生の視線が麻里に向けられる。そんなタイミングで、デスクの上に置いていたスマホがLINEの着信を知らせた。
「何これ? さっき話してた復縁男?」
 こういう事にだけは目ざとい弥生は、すかさず画面をチェックしていた。
「復縁男の名前、まあ君って呼んでるんだね」
 死んでいた目がキラキラしている。一瞬、麻里の背中にどっと冷や汗が噴き出した。弥生はまさか自分がつき合っている男だとは思いもしないらしい。
「さっきは嫌そうに話してたけど、まんざらでもないんだね」
 そう言って弥生はニヤニヤと笑った。
「ちょっと、そこの二人。無駄話してる時間なんてないんだけど」
 途端にチーフから怒りの声が飛ぶ。同時に真っ暗闇になった。弥生が悲鳴をあげる。窓の外も闇一色だった。スマホの灯りだけが、この世の終わりではないことを報せている。麻里には、この辺り一帯が停電したらしいとすぐに分かった。
「畜生! 保存する前だったのに」
 チーフの怒号が聞こえる。麻里は情報を知ろうとスマホを手にした。ツイッターを開くと、早速停電だと叫んでいるツイートが幾つも画面を流れていく。案外広い地域が被害にあっているようだった。
「やっぱり停電ですね。どうしようもないですよ」
 パニック映画の登場人物のように「オーマイガッ!」と繰り返しているチーフにそう言うと、麻里はスマホを懐中電灯代わりにしてさっさと立ち上がった。どこに行くのかと弥生が上着の端っこを掴む。トイレと答えて、その手を払った。
「きっと長い時間じゃないと思うよ。今のうちに休憩しとこ」
 いろいろな思いが交錯して、心臓が激しく鼓動している。男からのLINEも落ち着いて読みたかった。隣に弥生がいるとじっくり読めない。こんな時間に何があったのか心配でもあった。
 勝手知ったる場所だと、スマホの灯りだけでもちゃんと歩けるものだ。ちゃんとトイレに辿りつき、便座に腰かけてLINEの画面を開いた。かなり長文のメッセージが綴られている。読み始めた途端、頬が赤らむのが分かった。遠い南の砂浜で、このメッセージを綴る光景が頭に浮かんだ。
〔保田麻里様 今日は六年前、初めて君と出会った日です。覚えてますか?〕 
 さっきディスプレーでは六年前までしか読めなかったメッセージが、今目の前に全貌を晒している。
〔ずっと回り道をしてきたけれど、今になって再会できたことが全てだと思う。君にとっては不本意な再会であったかもしれないけれど、以前にも話した通り、君の同僚とは友だち以上恋人未満の関係でしかない。ちょうどかつての俺たちのように〕 
 かつての自分たちのようだと言うのなら深い関係ではないのは明らかだ。だからと言って、そちらと別れてつき合いたいという思いがけない告白を、はいそうですかと抵抗なく受け入れられるほど容易いことでもない。
〔いつも考えすぎる君の事だから、きっと容易いことではないと思っているだろう〕
 簡単に気持ちの先を読まれて、思わず麻里は笑ってしまった。自分から復縁とは言ったけれど、ちゃんとはつき合っていなかった相手だ。かつて彼に自分がしたことを思えば、お互いさまと言えなくもない。
 もし同僚の彼氏としてではなく、全くの偶然で再会できていたなら、答えはもっと早かったかもしれない。脅迫めいた呼び出され方をするのではなく、本当に自然に話し合うことが出来ていたら、流れた年月はどのように作用しただろうか。
〔今日が出会いの日だと思い出すのと同時に、今いるのが、いつか君が来たいと言っていた場所なのも思い出した。偶然もこれだけ重なると必然じゃないかな?〕
 彼のメッセージは、これでもかと言うように運命論を語りかけてくる。南から来た台風が吹き荒れている最中に、同じく南の島で綴られたメッセージが、麻里の胸の中で渦巻いていた。
 こんな暴風雨の中に飛び込んで行ったら、はたして自分はどうなってしまうのだろう。麻里はメッセージの先を読むのをためらった。スクロールすれば、もっと決定的なことが書かれているだろう。既読にした以上は読まない訳にはいかない。でも、それは今すぐではないと思った。
 もう少し、せめて現実の嵐が通り過ぎるまでは。そう思いながら、麻里はスマホの電源を切る。狭いトイレの中が、だだっ広い暗闇の一部になった。

◇◇◇

 嵐の日でも朝が来たのは分かる。窓の外はそれなりに白んでいた。ラッキーな事に停電は小一時間程度で回復した。こんな嵐の中で懸命に復旧作業をした人たちがいたのだろう。ラッキーの一言で済ませてはいけないと、麻里は考え直した。
 作業の遅れを取り戻すべく、何も考えないようにしていたせいか、いよいよ全ての修正が終わりそうな局面になって、一気に気が緩んでいく。そうしないために必要以上にチーフに声をかけた。
 停電の時に「オーマイガッ!」と叫び続けていたチーフも、今は「グレイト」とか「ワンダフォ」とつぶやきながら最終チェックに入っている。
 そんなチーフに、あんたはどこの国の人間なんだよと心の声で突っ込みを入れながら、最後の色塗りを済ませた麻里は、隣で爆睡している弥生の顔を見ていた。あまりにも幸せそうな寝顔に、胸が痛くなる。出来れば台風が過ぎ去るまで寝かせておこうと思った。
「いいねぇ。最後のデータも問題なし。今送ると向こうも泊まり込んでるかもしれないから、また修正なんて欲が出ないように朝10時になったら送るようにするよ」
 チーフが満面の笑みで言った。ソファーで仮眠でも取りなと最後に付け加える。けれどすっかり目が冴えて麻里は眠れそうになかった。
 気がつくと、風はだいぶ静かになっている。気象庁のホームページを開いて台風の様子を調べた。上陸してから速度が上がったようで、もう関東を通り越している。もうしばらくしたら雨もあがりそうだと思った。
「ちょっとコンビニ行ってきます。お腹減っちゃって」
 外の空気が吸いたいし、やはりLINEの続きが気になっていた。何か欲しいものがあるかとチーフに訊ねたが、何もいらないと返事が帰ってくる。自炊が趣味のチーフは普段からほとんどコンビニを利用しない。基本的に変な人だが、よくよく考えるとむしろ真っ当なのかもしれないと思った。自分はいつも手軽に生きてきた代償を、今になって支払わされているのかもしれない。
 嵐が取り過ぎた道端には、吹き飛ばされたモノたちが溢れていた。どうやら会社が入っているビルの周囲は吹き溜まりになっているらしい。もしかしたら自分も吹き溜まりに飛ばされてきたゴミなのかもしれないと思ったら笑えてきた。
 別れた彼は、会わなかった月日の中で将来を期待されるカメラマンに成長していた。少なくともウィキペディアに載っているだけで、すでに一般人との差は大きい。その間、自分は何をしていたのだろうと麻里は思った。
 コンビニでサンドイッチとコーラを買う。その間に小降りになっていた雨は完全に止んだ。傘をたたんで、水たまりを避けながら会社への道を戻る。そのまま事務所に戻るのが嫌で、勢い屋上まで駆け上がった。そのまましばらく明け方の街を眺めていたら、雲の切れ間から朝日が差し込んでくる。天使の梯子だと思った。
「ジェイコブズラダーって言うんだぜ」
 彼と出会った頃、大学のゼミ合宿で訪れた伊豆高原で同じような光景を見たことを思い出した。あの時、彼が天使の梯子について教えてくれたのだ。
〔ずっと回り道をしてきたけれど、今になって再会できたことが全てだと思う〕
 もう一度LINEの画面を開き、彼からのメッセージを見る。麻里は運命論者ではないけれど、いつもと違う都会の空を眺めていると、何か大いなる存在に導かれているという気持ちにはなった。
 彼からのメッセージを最後まで読んでいく。そこには昔の彼を思わせるような曖昧さは微塵もなかった。嵐が吹き荒れても揺るがない頑丈なイメージが伝わってくる。
〔どうして私の事を思い続けていたの?〕
 思わず、そう返信を返していた。あふれ出てくる思いがそのまま指を動かしているようだった。サイパンとの時差ってどれぐらいだろうと思っているうちに、彼からの返事が来た。心臓を掴まれた気がした。
〔カメラマンになったのは、君と出会ったのがきっかけだから〕
 当たり前のように二人の言葉が並んでいく。
〔カメラを持つたびに君を思い出していたよ〕
〔答えになってないんだけど〕
〔ちゃんと答えになってるだろ?〕
〔なってない〕
〔なってる〕
 何百キロも離れた彼とリアルタイムなやり取りをしている。もはや他愛もない押し問答が愛情の証のようにすら感じられた。
 愚問だったのだ。彼はずっとLINEの繋がりを残していた。麻里にはそれが全ての証明になっているのだと思えた。
〔ひょっとして、昔のLINEのやり取りも残ってるの?〕
 一度彼との過去を消去した自分には、もうそれを知る術はない。知らなくてもいいことかもしれないが、とても彼の人生を左右するような影響を与えていたとは思えなかった。だから、本当は何がきっかけなのかを知りたいと思ったのだ。
 突然、LINEに画像がアップされ始めた。6年前の麻里の写真だった。カメラ目線は一枚もない。どの写真を見ても、いつの間に撮られたのか思い出せなかった。
〔これからもずっと、君を撮り続けていいかな?〕
 最後の一枚がアップされた後、彼はそんなメッセージを送ってきた。もう迷いはなかったけれど、麻里はしばらく放っておこうと空を見上げる。まだ天使の梯子はかかっていた。
 彼の思いを受けとめれば、しばらくは人間関係の嵐の中に身を置かねばならなくなるだろう。先ほど見ていた弥生の寝顔が浮かぶ。でも、止まない雨はなく、明けない夜もないのだと、麻里は改めて覚悟を決めた。
〔YES〕
 一言メッセージを返し、続けて「YES」を意味するたくさんのスタンプを押す。まず弥生が目を覚ましたらちゃんと話し合おう。まあ君が誰なのか、弥生と出会うよりずっと前から二人が今日へと続く道を歩いてきた事を真摯な気持ちで伝えよう。
 麻里は、もう一度空を見上げた。もう天使の梯子は見えなかった。その代わり、台風一過の青空が視界の先でぐんぐんと拡がっていった。

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※台風のシーズンですね。そんな季節の、嵐の一夜の物語。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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