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不断の思考運動によって、理論的洞察はたえずその形態を変える

本日もいいお天気です。
連続投稿を続けています。我ながらスゴい。

朝、新聞を取りに出るとものすごく鳥が鳴いています。

引越してきた頃にはただ「鳥が鳴いている」という印象だったんですが、長く住んでると鳥の声の聞き分けができるようになってきます。「鳥が」鳴いているんじゃなくて「ウグイスが」とか「ホトトギスが」に変わってくるんですね。さらに進むと「今朝はいつもよりホトトギスの野郎がウルサイ」という表現になります。

ちなみに、よく飛びながら鳴いてるウルサイのはオスのウグイスなので「ホトトギスの野郎」でOK。こいつらは夜も鳴くのでマジでうるさいです。

名前が分かってくると、なんかお近づきになれたようで嬉しくなってきますよね。巣箱に小鳥が生まれると出産祝い出したくなりますし、蛇が近づいてくるとブチ殺してやろうかとも思います。

花も「花が咲いている」がいつの間にか「ブタナがすごい」「ニガナが咲いた」と固有名詞に変わってきます。

田舎に住んでるとさぞや山菜が取り放題だろうと思われがちですが、ひとの土地に勝手に入って山菜取るのはご法度。山菜は時間が経つにつれてアクが強くなるので、やっぱり採りたてが美味しいのでいただくとウレシイです。

スベリヒユは都市部でも簡単に手に入る「食べられる雑草」です。栄養も豊富なのでぜひ「採りたて」をお試しください。


ペットにつけた名前とは違い、花や鳥の名前はそれぞれの種の名前でしかありません。それでも名前をひとつひとつ覚えていくと、覚えるたびに自分の世界が広がっていくような気がします。

なるほど、小学生の集合はただの「児童」ですが、クラスの友だちには各々名前があり、性格が違い、相性も異なります。名前を覚えていくという行為は友だちを増やし、世界を広げていく行為なのかもしれません。

種の名前も個人の姓名も固有名詞ですが、これらはその属性に従ってどんどん細かく分断されていきます。

鳥>スズメ目>ヒタキ科のイソヒヨドリは「ヒヨドリ」と名前がついていますがヒタキの仲間。スズメ目>ヒヨドリ科のヒヨドリとは別の鳥です。

同様に、同じ小学校に通っている鈴木くんは学年が違えば別の人。3年の鈴木くんは双子で、名字も見た目も同じで区別はつかないけれど、下の名前が違うのでやっぱり別の人……。

似たように見えるけど、それとこれは別のもの。
もっと細かく見るとさらに別のもの……。

こうやって考えていくと、さっきは「自分の世界を広げていく」ように見えた名詞が、実はどんどん事象を細分化させ、断片化させていく側面も持っていることに気付かされます。面白くないですか。


話は変わりますが、若い頃、理論物理学者 D.ボーム の著書『断片と全体』を読んでたいへんな刺激を受け、片っ端から関係書籍を読みまくった経験があります。

「分割不可能な全体性」という概念はたいへん面白く、特にその要因を「言語」に見るというロジックには瞠目させられました。

ボームは、断片化の原因の認識を妨げている要因として既存の思考様式と言語様式をあげ、それらの変革を重要課題として取り上げる。ボームによれは、既存の言語様式は名詞に重要な役割を与えすぎている。そうした名詞中心主義が断片化を再生産している。こうした状況を変革するためには、動詞を基本とする新しい言語様式を採用しなければならない。

D.ボーム(1985)『断片と全体』工作舎/訳者後書き

今でも私は「概念としての言葉」をとても重要視する傾向があり、「名詞」を「本質を分かりやすくし過ぎているもの」として捉える傾向があります。


天気のいい初夏の田舎の風景は実に生命感に溢れ、豊かなものです。

そこに身を置き、ヒノキ目ヒノキ科のネズミサシの木陰で、リュウゼツラン亜科のオオバギボウシを眺め、スズメ目カササギヒタキ科のサンコウチョウのさえずりを聴きながら「とはいえ、実在するのは全体的な運動だけだがな……」とつぶやく。

こんなシュールな田舎暮らししてる奴もそうはおるまいて……。

じゃまたね。

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