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「にじいろカルテ(第8話)」共同体の優しさと、大いなる勘違いの楽しさ

最終回を前にして、ドラマを動かすような話ではなく、北村匠海演じる太陽くんの人間性と、虹の村の人々の楽しさや優しさをもう一度確認してくるような回だった。脚本家が描きたいものは、小難しい組織論や人間論ではなく、当たり前の優しさに溢れた生活の素晴らしさみたいなものなのだろう。そういう意味でも、このドラマは医療ドラマではない。

最初の導入部での、北村の勘違いのシーンはなかなか秀逸である。というか、声だけの井浦と高畑の話が、確かに色っぽい話に聴こえるのだ。これがちゃんとできたことで、この回は成功だったのだろう。

そして、村の人たちの企みが、最後の方までよくわからないようにしてあるのもなかなか巧みである。そのために、北村の前で人が死ぬという猟奇的な話が入る。そして、この村のことを一番知っているという、光石研がその正体不明の死人に対し、「知っている」と言い出し、結構、悲しいお話が展開する。あくまでも、この話は、光石の人生吐露のために仕込んだものであり、死体の正体は全く違う人だったという勘違い。つまり、その後にある勘違いを光石ならやりそうだとするための仕掛けでしかないわけである。こういう二重構造を作るのは脚本家の技である。

そして、そんな中で北村の人生の中での、組織や他人から乖離してしまう自分が語られていく。この北村の話に共感してしまう人は多いのではないか?今では、「空気を読む」とか「コミュニケーション能力」だとかの言葉が氾濫するが、そんなに他人のことなどわからないし、そんなに仲が良い関係などできないみたいに思っている人は多いのではないか?私も同様のところがあるのですごく良くわかった。

そして、このドラマの舞台の「虹の村」はそういう面倒臭いことなしに、優しく楽しい共同体なのだ。そして、高畑が井浦と北村の3人は「ずーっと一緒」と泣きながら語るような村なのである。それが、このドラマのファンタジー性であり、理想の地がここにあるということなのだろう。

そして、仮装をしている村人たちが、中程から出てきて、「なんだ?」と視聴者を引き込んで、「ひな祭り」と「子供の日」の勘違いでの北村の誕生祝いだったというオチになるのだが、前の騒ぎがあることでラストが最高に盛り上がるわけだ。そんな脚本のお手本のような流れは嫌いではない。

そして、ラストに音無しで、みんなの仮装芸が出てくるのだが、ここでの村人の笑顔が、このドラマが最も描きたいところなのだろう。出演者が楽しんでることで、最高に素敵なラストになっていた。

今回は、その中にジジイズはいなかった。無理に全てのキャラを出そうとしないのも、脚本家のうまいところなのだと思う。ある意味、ラストを見せるための閑話休題みたいな回であったが、とても印象的に「この村はこういうところです」と理解できた素敵なお話でした。

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