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「劇場」。映画的な間延びが最後に力になっている映画。山崎賢人と松岡茉優の演技に尽きる。

やはり、映画館で観るように作られた映画だと思う。上映時間136分。テーマがシンプルなのに、長い。話は演劇しか脳のない、ダメ男と、それに付き合ってしまった、天使のような女の話である。その男のダメさぶりが延々と映像で語られる。観ていて、同じような繰り返しでイライラしていた。そう、映画的な?抑揚がないのだ。そして、語られるのは二人の間の話だけ。他の登場人物はあまり、二人の本質の中に絡んでこない。

だが、ラストの芝居のシーンで、そのイライラするような映像の羅列が意味を持ってくる。リアルな世の中は、劇場かもしれない?そして、人生など、自分で抑揚つけてみたって、自分でしかないというような世界が見えてくる。そんな映画なのである。

語らなくてもいいような、いや避けて通りたいような、人間の本質的なものを、山崎賢人と松岡茉優が熱演している。いや、主人公の二人のままに、彼らがその劇場にいる感じであった。お互いに認め合うところもあり、卑下してしまうところもある。だが、「そんなんじゃいけない!」と思ってもバランスをうまくとってしまい、結局はお互いに必要としている。

ラスト、二人は生活の場所は離れるが、心の中ではつながっている感じ。それは、原作者、又吉直樹の恋愛論なのだろう。原作は読んでいないが、多分、主演の二人は原作を超えたところで演技している。多分、監督の行定勲も、自分が思っている以上のものが撮れた実感があったのではないか?

演出に目を向ければ、いつもの行定演出であり、画もきれいに救いとっている感じ。ダメ男の話だが、昔の四畳半もののような臭いや痛さはないので、それは、監督のそういう心情があってのことだと思う。

また、先にも書いたように、二人が他者と交わるようなシーンが極力抑えられている。伊藤沙莉が松岡茉優を知っているという流れになるが、それを画で見せることはない。普通なら、流れの中で対峙するシーンを撮るだろうし、松岡が働いて山崎を支えている的なシーンがもっとあってもいい気がする。そう、松岡の苦労は画的に見せてこないのだ。観客はある人は山崎の脳の中にあり、ある人は松岡の脳の中にある。それだけでいいということだろう。

だから、クズの山崎が、それほどクズに見えない。そういう意味で、松岡は山崎の天使として描かれているだけなのだろうか?そういう部分が、気に食わない方には全く合わない映画だと思う。テーマで挫ける人も多々ある気がする。そういう意味で、このコロナ禍で上映が延びて、上映が危ぶまれる事態になったのはわかる気もする。誰もが体現する恋愛劇だが、誰もが共感できるものではないということである。

そういう意味で、今日、映画館でみて、上映が終わった後の雰囲気は微妙だった気もする。まあ、山崎や松岡のファンの方なら、それなりに楽しめたかとは思うが…。

日本映画らしい題材を、行定監督は、目一杯演出し、映画として映画館で観る作品として、構築している。そういう意味では、アマゾンプライムでの同時配信はなかなか冒険だと思う。もちろん、金銭的な回収の意味があると思うが、この長い前に進まない恋愛劇は、ビデオで一気に見るにはなかなか辛いものがある。結果がどう出るかではあるが、口コミで配信の数が延びるようには思えない。

映画館で観ても、配信で見ても、良いところがあるような映画を作る必要性がある時代であると私は思う。そういう意味では、クリエイターはなかなか一方向からの考えで演出しても金につながらない時代になっている。

こういう、言うなれば古いタイプの映画作りを否定する気はないが、昨日観た「WAVES」のような不思議な演出も出てきているわけで、いろいろ考えながら映画館を後にした。上の写真のように劇場の前に大看板。最近のシネコンではないことである。これを見ても、これは「映画」なのだと思った次第であります。

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