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当事者じゃなくなったときの疎外感

今まで属していたコミュニティから自分が外れたとき、
そしてそのコミュニティが自分のいない状態で成り立っているのを見たとき、

どうしようもなく切なくなる。寂しくなる。

中学の部活を引退したときはじめて、当事者じゃなくなる悲しさを知った。
私は副部長だったし、学校に行くのはほとんど部活のためと言っても過言ではないくらいに部活が生活だった。
引退した次の登校日に帰り道にグラウンドを覗いてみると、新しい部長と副部長がちゃんとみんなをまとめていた。
楽しそうだった。

ああ、私たちがいなくても後輩はちゃんとやれているんだな、と安心もしたのだけれど
それよりも圧倒的な、疎外感を感じてしまった。

陸上部はもう、私の居場所ではなくなってしまっていた。

私の好きな小説家さんの作品で、まさにこれと似た描写があって
その小説を読んだとき、どうしようもなくその物語が愛おしくなったのを覚えている。
ただ大学生がばかやって楽しかったっていう話ではなかったんだ。
そのあとの寂しさや、それすらもポジティブにさせてくれる人の存在が、描かれていた。

有川浩さんの「キケン」
(現在は有川ひろ名義です)


「当事者じゃなくなるときの疎外感って、なんなんだろうね。あれ寂しいよね。」
ってある人に話したとき
その人は、
「わたしが前読んだ本にね、そんな話があったよ。」
と言って、まさに「キケン」の話をし始めて。
運命だと思ってしまった。

まさか有川ひろの話ができるとは。
話していくうちに、その人が触れてきたものは、驚くほどに私と共通するものが多いことに気づいた。

今ではその人は、私の大親友である。
人に好かれているという自信なんてこれっぽっちももてない私なのに、彼女には愛されている自覚も自信もちゃんともてている。
好きだなんて言葉では語れないくらい大好きなひと。

あの寂しかった気持ちも、無駄ではなかったのかもしれない。
彼女と共有できたおかげで、今ではほろ苦くも素敵な思い出に昇華できた気がしている。

彼女の話は、また今度。

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