【続編】歴史をたどるー小国の宿命(99)

自決した西郷隆盛の死を悲しんだのは、かつての盟友だった勝海舟もその一人だった。

勝海舟は、明治時代には表立った行動はしておらず、政治の世界からもしばらく距離を置いていた。

彼は、徳川家の後見人として慶喜のお世話をしたり、陰ながら明治政府の相談役を務めたりしていた。西郷隆盛より5才年上だったので、1880年には57才になっていた。

さて、岩倉使節団のメンバーの一人だった伊藤博文は、海外視察で学んだことを早速、政治に取り入れる準備に着手した。

岩倉使節団のメンバーとしてドイツ帝国を訪問したときは、宰相ビスマルクと面会し、プロイセン憲法について学んだ。

1882年には、明治天皇に命じられて再びヨーロッパに赴き、プロイセン憲法の逐条的講義を受けたり、歴史法学や行政について積極的に知識を身につけたりした。

この学びが、1885年の内閣制度創設につながり、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任したのである。

また、プロイセン憲法をモデルとして、大日本帝国憲法の草案の作成にも取りかかった。

1888年には、大日本帝国憲法の草案審議のために、天皇の諮問機関として「枢密院」を設置し、これまた初代議長になった。

この枢密院の顧問官の一人として、勝海舟も招かれた。

伊藤博文は、英語力が非常に高く、外国の資料を読みこなせるのは、当時の政治家の中では彼以外ほとんどいなかった。

だからこそ、彼の存在は大きかったのである。

ただし、彼一人で事を進めたのではなく、明治天皇も意見が異なるときは、はっきりと反対の意思表示をし、伊藤もそれに従った。

1889年2月11日、明治22年になってやっと近代憲法が公布されたのである。

この日は、私たちも知っているように、「建国記念の日」として祝日になっている。

大日本帝国憲法の第33条では、翌年に開かれることになる帝国議会(=今の国会にあたる)について、次のように定められた。

【第三十三条】
帝󠄁國議會ハ貴族院衆議院ノ兩院ヲ以テ成立ス

今の国会は、参議院と衆議院の両院で構成されるが、当時は、貴族院と衆議院で構成された。

そして、1890年7月1日、すでに制定されていた衆議院議員選挙法に基づいて、第1回衆議院議員選挙が行われた。日本の歴史上初めての民選選挙となった。

この選挙で選ばれた衆議院議員と、非公選である貴族院議員(=皇族や華族出身の議員)で構成された第1回帝国議会が、同じ年の11月29日に開かれた。

同時にこの日をもって、大日本帝国憲法がめでたく施行されたのである。

いよいよ1900年まで残り10年、明日が最終回である。







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