【続編】歴史をたどるー小国の宿命(89)

いよいよ江戸時代も、今日と明日の残り2回で完結する。

そして、本シリーズも来月で累計200回の連載で完結となり、とりあえず1900年(19世紀末)でひと区切りとしたい。

今日は、第14代将軍の家茂が亡くなってから最後の将軍・慶喜の就任に至るまでの状況と、孝明天皇の死と明治天皇の即位について触れることにしよう。

病死した家茂の後継として、慶喜が将軍に就くことは、ほぼ既定路線であった。

しかし、当の本人がたびたび固辞し続けたために、将軍職空位の状況は4ヶ月余りも続いた。

孝明天皇の強い勧めもあって、やっと慶喜が将軍になったのは、1867年1月のことだった。

なぜ慶喜が将軍職に就くことを渋ったのかは、いろんな説があるが、理由のひとつとしては、孝明天皇の存在が大きかった。

島津久光による「文久の改革」で、まだ未熟だった家茂の後見職として慶喜が指名され、その家茂の妻は孝明天皇の妹の和宮となると、天皇との関わりが必然的に多くなるのは当然の成り行きであった。

また、朝廷の役職でもある「禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)」にも任ぜられたため、孝明天皇の信任はいよいよ厚くなった。

だが、実は、慶喜は公武合体こそ否定的ではなかったが、攘夷ではなく開国派だった。立場の異なる孝明天皇が在位している以上、自分が将軍職に就いても思うように事が進まないことを予見していたと考えられる。

その孝明天皇が、なんということか、慶喜の将軍就任の3週間後に突然亡くなってしまう。

死因は天然痘だとされているが、快復傾向にある中での突然死だったため、毒殺説も一部で語られているようである。

1867年2月、孝明天皇の息子である明治天皇が、第122代の天皇として満14才で跡を継いだ。

このときはまだ、元号は「明治」ではなく「慶応」のままであり、江戸幕府は存続していた。

しかし、慶喜は、江戸城に一度も入城しなかった唯一の将軍であり、京都で幕臣たちを従えつつ、倒幕派と対峙する環境に身を置くことになったのである。

さて、すでに先を読んでいた慶喜が打った次の一手は、みなさんもご存じのとおりである。

慶喜が打ち出した「大政奉還」に対して、「王政復古の大号令」が岩倉具視らによって発出され、江戸時代はとうとう幕を閉じることになる。

最後の1年がどうなるか、明日ご期待ください。





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