20世紀の歴史と文学(1933年)
犬養毅が総理大臣になる前、犬養毅が所属していた立憲政友会は野党だった。
今で言うならば、例えば、立憲民主党が自民党を国会で非難するようなものであり、犬養毅は、当時の濱口雄幸(はまぐち・おさち)内閣に対して、ロンドン海軍軍縮条約の締結に反対していた。
濱口雄幸は、昭和天皇に叱責されて総辞職した田中義一内閣の後を継いだのだが、このときは、1929年7月だった。
本シリーズですでに触れているが、1929年は世界恐慌が起きた年である。
ロンドン海軍軍縮会議は、翌1930年1月から4月にかけて、イギリスの呼びかけでアメリカ・フランス・イタリアなど主要国が集まり、開かれた。
海軍軍縮会議では、潜水艦など保有する艦船の制限について話し合いがなされたのだが、これは、日本政府にとって、経済不況の対策にも関係があった。
濱口雄幸は、蔵相の井上準之助とともに、緊縮財政政策を敢行したのだが、これが海軍の反発を買ったわけである。
事実、濱口は同年11月に東京駅で銃撃を受け、一命は取り留めたものの、長くは生きられず、翌年8月に亡くなった。井上準之助は、翌々年の1932年2月に、暗殺された。
犬養毅も、その3ヶ月後に狙われたわけである。
犬養毅が濱口内閣を非難して、海軍軍縮条約に反対していたときは、海軍の幹部はむしろ歓迎していた。
ただ、真意は別のところにあり、犬養自身も実は軍縮派であり、濱口内閣を倒すことを目的として、国会では「統帥権干犯」(とうすいけんかんばん)だと非難したのである。
統帥権干犯とは、大日本帝国憲法の第11条「天皇は陸海軍を統帥す」という規定に反するという意味である。
実際は、天皇が反対していたわけではなく、統帥権の補佐責任者が海軍の軍令部長だった。その軍令部長が反対しているのに、条約に調印するとは統帥権干犯だと、犬養は非難したわけである。
ところが、自分が総理大臣に就任したら、もとの軍縮派の顔に戻ってしまっていたから、「話が違うじゃないか」と海軍青年将校の怒りを買ってしまったのである。
こうして、陸海軍が「統帥権干犯」を盾に、政治家をコントロールするようになってしまった。
1933年1月、奇しくもドイツでは、ヒトラーが首相に就任した。ナチス・ドイツの台頭が始まった。
2月には、本シリーズですでに触れたとおり、作家の小林多喜二が、共産党絡みで警察に逮捕されたあとに拷問死した。
そして、同じ2月下旬に、国際連盟は、日本に対して満州撤退勧告を行なった。
国際社会に日本の主張が受け入れられなかったことで、3月27日、正式に昭和天皇の名で国際連盟脱退の詔書が発布されたのである。
このときの内閣総理大臣は、亡くなった犬養毅の後に就任した斎藤実(さいとう・まこと)であったが、彼は、退役海軍大将であった。
斎藤実も、この3年後に命を狙われ、亡くなることになろうとは誰も思わなかった。