古典100選(47)菅笠日記

2年前(=2022年)の5月9日の小国の宿命シリーズ(5)で、第41代持統天皇の和歌が登場しているが、今日は久しぶりに「天の香具山」が出てくる。

奈良時代の『万葉集』には、「春過ぎて    夏来たるらし    白たへの    衣干したり    天香具山」という持統天皇の歌が掲載されており、そこから500年後に、藤原定家が『小倉百人一首』に選び、さらに600年後に本居宣長がこの『菅笠日記』(すがかさのにっき)で、天の香具山を取り上げている。

本居宣長は、本シリーズ(30)『玉勝間』以来の再登場である。

では、原文を読んでみよう。

この山、いと小さく低き山なれど、古(いにし)へより名はいみじう高く聞こえて、天(あめ)の下に知らぬ者なく、まして古へを偲ぶ輩(ともがら)は、書(ふみ)見るたびにも思ひおこせつつ、年ごろゆかしう思ひわたりし所なりければ、この度はいかでとく登りてみんと、心もとなかりつるを、いとうれしくて、

いつしかと    思ひかけしも    ひさかたの
天の香具山    今日ぞ分け入る

皆人も同じ心に急ぎ登る。
坂路にかかりて左の方に、一町ばかりの池あり。古への埴安(はにやす)の池、思ひ出でらる。
されどその名残りなど言ふべき所のさまにはあらず。
いとしも高からぬ山は、ほどもなく登り果てて、峰にやや平らなる所もあるに、この近きあたりの者どもと見ゆる五六人、芝の上に円居して酒など飲み居るは、わざと登りて見る人もまたありけり。
さては蕨(わらび)採るとて、里の娘、嫗(おんな)などやうの者二三人、そのあたりあさりありくも見ゆ。
山はすべて若木の細枝原(しもとばら)にて、年古りたる木などはをさをさ見えず。
峰はうち晴れて、つゆ障(さわ)る所もなく、いづ方もいづ方もいとよく見渡さるる中に、東の方は、畝尾(うねお)長く続きて、木立も繁ければ、すこし障りて、異方(ことかた)のやうにはあらず。
この峰に、竜王の社とて小さき祠のある前に、いと大きなる松の木の枯れて朽ち残れるが立てる下にしばし休みて、餉(かれいい)など食ひつつ、四方の山々里々をうち見やりたる景色、言はんかたなくおもしろきに、「登り立ち国見をすれば国原(くにはら)は」など、声をかしうて、若き人々のうち誦(ず)したる。
さしあたりては、まして古へ偲ばしく、見ぬ世の面影さへ立ち添ふ心地して、

百敷の    大宮人(おおみやびと)の    遊びけむ
香具山見れば    古へ思ほゆ

かの酒飲みゐたりし里人どもも、ここに来て、「国はいづくにかおはする」など問ひつつ、この山の古事どもなど語り出づる。
いとゆかしくて、耳留めて聞けば、おほかたここによしなき神代のことのみにて、さもとおぼゆる節も混じらねば、なほざりに聞き過ぐしぬ。
されど、見えわたる所々を、そこかしこと問ひ聞くには、よき博士なりけり。
まづ、西の方に畝傍(うねび)山、ものにも続かず、一つ離れて近う見ゆ。
ここより一里ありと言へど、さばかりも隔たらじとぞ思ふ。
なほ西には金剛山、いと高くはるかに見ゆ。
その北に並びて、同じほどなる山のいささか低きをなん、葛城(かずらき)山と今は言ふなれど、古へはこの二つながら葛城山にてありけんを、金剛山とは寺建てて後にぞ付けつらん。
すべて山も何も、後の世には唐めきたる名をのみ言ひ習ひて、古へのは失せゆきつつ、人も知らずなりぬるこそ、口惜しけれ。
されど、また古への名どもの、寺にしも遺れるが多きはいとよしかし。
またその北にやや隔たりて、二上(ふたがみ)山、峰二つ並びて見ゆ。
これも今は二上岳(にじょうがだけ)と、例の文字の声に言ひなせるこそ憎けれ。

以上である。

山に登るのが好きな人はご存じだと思うが、天の香具山以外にも、畝傍山・金剛山・葛城山・二上山の名前が挙げられており、このあたりがいわゆる「大和三山」エリア(=①畝傍山②耳成山③香具山)である。

本居宣長は、ここを訪れて現地の人との会話や自分が見たこと感じたことを日記に書いているのだが、その中で、山の名前について言及していることに気づいただろうか。

「ふたがみ」を唐(から)風に「にじょう」と言ったり、「金剛山」の「こんごう」のように漢字の音読みで呼んだりするのが、日本らしくなくて気に入らない(=「憎けれ」)と言っているのである。

「すべて山も何も、後の世には唐めきたる名をのみ言ひ習ひて、古へのは失せゆきつつ、人も知らずなりぬるこそ、口惜しけれ。」

この部分に、本居宣長の言いたいことが集約されているといっても良いだろう。

純粋な「やまと魂」が表れた日本語を追い求めて、『万葉集』のゆかりの地を旅した本居宣長だが、さすが国学者である。

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