【続編】歴史をたどるー小国の宿命(7)
将軍が暗殺されて、権力者不在となった幕府は、四職の守護大名を中心に混乱に陥った。
赤松満祐は、今の兵庫県にあたる播磨国へ逃亡した。そこが、自分の領地だったからである。
世間の動揺をいち早く鎮める必要があると考えた管領家の細川氏と四職の山名氏は、お互いに動き出した。
細川持之(もちゆき)は、義教の後継者を立てるべく動くが、義教の長男の義勝(よしかつ)は、まだ7才だった。(第7代将軍として、義勝が就任するのは、その翌年である。)
山名氏は、赤松満祐を追討するため、赤松氏の領地に攻め入る準備を始めた。山名熙貴を、将軍とともに殺されているのだから、黙っていられるわけがなかっただろう。
そして、細川氏と山名氏ら幕府軍は、播磨国へ侵攻し、赤松満祐を追い詰める。義教が暗殺されて3ヶ月後の9月、赤松満祐は、切腹自殺した。
切腹した赤松満祐の介錯をしたのは、義教の首をはねた安積行秀である。
その後、赤松満祐の首級は、山名氏の家臣にさらわれて、京都に持ち帰られた。そして、その首は、義教の子どもたちに見せられ、四条河原でも市中に晒された。
こうして、一連の騒動が収まり、義教の長男の義勝が次の将軍になったのである。
さて、久しく天皇の話をしていなかったが、4代将軍の義持の死後、1428年から1464年まで38年間も在位していた天皇が、このとき京都の御所にいた。
第102代の後花園(ごはなぞの)天皇である。
足利義満が実現させた南北朝合一(1392年)から36年経って、この後花園天皇が即位したことにより、旧南朝勢力は猛反発したのである。
そこに、幼い義勝が第7代将軍に就いたことで、もはや将軍の権威はないに等しく、力を持った守護大名同士が争うようになっていく。
そして、義教の次に、後花園天皇が対立勢力に狙われることになるのである。