歴史をたどるー小国の宿命(60)

京都から西へ西へと逃げた平氏一門は、一ノ谷の戦い(兵庫県神戸市須磨区)、屋島(香川県高松市)の戦いを経て、とうとう壇ノ浦(山口県下関市)の戦いにまで追い込まれた。

これらの戦いで、頼朝から追討を命じられた義経が活躍する。

平氏のほうは、清盛がいない中で、清盛の甥っ子にあたる平教経(のりつね)が、最後まで気を吐いて戦う。

平家物語では、壇ノ浦の戦いで安徳天皇が入水する場面が描かれたあと、平教経の最期が語られている。

「およそ能登守教経の矢先に回る者こそなかりけれ」という一文で始まるのだが、最後の力をふりしぼって弓矢を至るところに放ち、仁王立ち状態になって、敵を寄せつけないでいる教経の姿が想像できる。

その後は、教経は、義経を追いかけようとするのだが、戦いの舞台は海上である。舟から舟へと飛び移って逃げる義経を追うのは難しかった。

もはやこれまでと観念した教経は、安芸太郎と次郎の兄弟に飛びかかられるも、二人を怪力で両脇に抱え、自害の道連れにした。

そして、安徳天皇と同様に海に飛び込み、26才の若さで亡くなったと伝えられている。

なお、別の場所では、安徳天皇とともに、生みの親である平徳子(清盛の娘)も入水したが、源氏の軍に助けられて生き延びる。

のちに出家して、1214年に60才で亡くなった。

一連の戦いで活躍した義経は、兄である頼朝がいる鎌倉には戻れなかった。

捕縛の命令が各地で出されたが、最後の頼みの綱であった奥州藤原氏に追い詰められ、1189年に今の平泉で自害し、31才の若さで亡くなったといわれている。

悲劇の武将であるゆえ、のちに多くの伝説が語られて今日までも愛されている。






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