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兵隊が家にいる家庭

 父親のことを、兵隊だと思ったことはありません。何でもやる人だなあとはおもっていました。

 大きくなって、「ベトナム帰還兵が、市民生活になじめず森の奥に一人でサバイバルしながら住んでいる」といったニュースを聞くと、「おや……そうかもしれないな……」と分かってくるのです。

 当時父は、夜寝ているとよくうなされていて、寝言というより結構な大きな声で、ワーワー言ってました。父親ってよく夜うなるんだとおもっていましたが、今考えると戦争のトラウマ、フラッシュバックだったのかもしれません。あと、たしかマラリアにかかった後遺症で、私が小さい頃は定期的に熱を出していた気がします。あと、予科練の軍事教練で肘に刀がささり、その怪我がなんだか治ってなくて、肘からじくじくリンパ液が出ていて包帯をしていた気がします。それぞれ、薬のんで治療してたかどうか、定かではありませんが……。

 また、私の記憶では、家族の相談なしに会社を辞めてしまう人でした。
もちろん、他の家のお父さんも相談なんかしないのかもしれません。
 それなりにいろいろやった結果、このまま勤めるより違う会社の方がいいかなと思ったのかもしれません。
 小さいときなので、「ああまたか」と思うだけですが、報告を受けた母が「相談もなしに……、どうしてそうなの」とひどく嘆き、そこからまた数日家庭内がいたたまれない感じになるのだなあと思い部屋にもどります。

 本人はけろっとしていて、わりとすぐ次の会社は決まるのですが……。
というわけで、色々な仕事をした人でした。

 幼稚園くらいのころは、会社の同僚のおじさん達がよく家で飲んだり食べたりしていきました。そのあたりが一番はじめの父の記憶です。私が生まれて嬉しかったんだと思います。外で飲むのもお金が掛かるからということでしょう、あるときから人数が増えてしまい、母が「おねがいだからもう無理だから、家には会社の人を連れてこないで」と話し、そういうことはなくなりました。

 父はどちらかというと陽気で、楽しい人だったのだと思います。慕う人も少なくなく、母は「外面が良い」といつも怒っていました。
 器用な人で、庭の生け垣や石を並べたり、ちょっとした大工仕事はやっていたとおもいます。食べ物も自分が食べるくらいはちょこっと作っていて、破れたズボンを糸と針で直したり。そんなわけで、のこぎりや金槌、いろんな道具がひととおりあった家でした。

 仕事場を見せてもらう機会は2回くらいはあったかとおもいます。普通の事務室と、建築現場。
 建築現場の方は外回りをチェックして、型が歪んでないか、こまかいところのチェックをしていました。

 覚えてるだけでもかいてみます。
・マレーシアのコンビナート用パイプライン建設の監督
・黒四ダム建設
・戦艦大和を浮き上がらせる計画
・光村印刷の新聞社向け工場の基礎工事
・エクアドルとの交易、タイル輸入
・シンガポールで交易
・南氷洋、捕鯨船の船員
・中東へのタンカーの船員
・魚市場
・スイミングプール建設(順不同)
 これの前が、海軍飛行予科練習生――零戦に乗る、特攻隊の飛行士だったのですから、本当にいろいろなことをして、よく生き残ったもんだと思います。

 私の方は、父のことは生まれてすぐから「この人は偉い人だ」と思い込んでいたようで、それなりに言うことを聞いていたんじゃないかとおもいますが……。母の方は昔の人ですから、そんな父に文句をいいながらついていく、また世間から守ってもらおうとしていた、そんな印象でした。

 一緒に遊ぶというようなことはあまり無かったと思いますが、日曜は大工をしたり(日曜大工の規模ではない)、家庭菜園をやっているのを横で見ていました。覚えているのは一緒に「縄文土器を焼いた」こと(地面を掘って、藁や木切れで燃やして、粘土で作ったお茶碗を焼いてくれた)。私が男だったらもうすこし違う遊び、スポーツなどやることができたら楽しかったのかもしれません。

 戦争が終わってからは、水産会社につとめ、キャッチャーボートで南氷洋のマッコウクジラを捕りにいっていたそうです。船員手帳もあり、クジラ取りの写真もありました。母船ではなく、キャッチャーボートに乗っていました。燃料はアメリカから分けてもらったんだとおもいます。当時の食料不足を補う仕事です。捕鯨砲の係ではなく、海軍で得たエンジンの知識をつかって機関部で仕事をしていたそうです。
 働き方は二毛作で、夏は南氷洋でクジラ取り、冬は油取り。タンカーに乗り、アラブの国へ。それも母と結婚してやめて、陸に上がって、建設会社に就職しました。そこではダムを作る時代で、忙しく働いていたようです。

 口癖は、「ぼやぼや、のそのそするな」「保証人にはなるな、借金はするな」「人生、運否天賦(うんぷてんぷ=運にまかせること)」「神様はいない」「自分を大事にしろ」「ヤバいと思ったらすぐ逃げろ」でした。とても小学校低学年女子に言うことではないと思いますが、私はこれらから人生を学ぶしかないのでした。

 うろ覚えですが、戦後すぐのこと、予科練で一緒だった岡田さんという、新宿花園神社のテキ屋の親分と、横浜? 港でのさばってきた中国人に向けて、隠し持っていた手榴弾をつかって追っ払ったとか、何かのギャラは全部キャバレーでつかい、立てる札束をテーブルに置いて飲んできたとか……。
 話はそれなりにおもしろい豪傑話が多く、そのたびに母が「やめなさいよ……その話は」とさえぎろうとしていたのでした。
 飲んでかえってくると給料袋が無かったとか、母が苦労する話がその後に続きます。となると喧嘩になる訳で、一人っ子の私はその会話全体につきあうわけです。いわゆる暴力的な家庭ではありませんでしたが、両親の不毛な喧嘩は、一人っ子には厳しい環境だったとおもいます。

 というわけで、戦争の話は、母がいないところでよく聞いていました。本当のところは話せてないのかもしれませんが……。

 服に関してはオシャレな方だったと思います。若い頃は銀座でオーダーしたようですが(老舗の大和屋で仕立てたシャツが何枚かあって、それをもらって着てました)、どうにも派手好きで、その後も玉虫色のスーツや水色のワイシャツ、トレンチコートで出かけていくのは、いわゆる普通の仕事の人じゃない感じ。でも派手めな顔にはちょうどよかったのかもしれません。服は散財するというより、丁寧に着ていたと思います。穴があいたらふさいで、肘が破れたら肘あてをぬいつけていました。

 また、あの時代のお父さんは皆そうだったのかもしれませんが、お酒を飲んでは体を壊し、たびかさなる胃かいようのため胃を半分くらい切除したのは私が高校生くらいのとき。暴れる父がおとなしくなってくれるんじゃないかとすこしホッとしたような感じです(そんなことは無かったのですが)。

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★実家からガメた兵児帯。父親は、着物を着る機会はあまりなかったとおもいます。私はちょっとした時によくしめています。ボロボロですね★

 父親との生活で、いろんな大変だったことが、「海軍にいたから」「戦後荒っぽい仕事をしていたから」「もらいっ子だったから」と理由をつけてみたりしましたが、母によると「気が短くてすぐ怒鳴るのは、元々の性格なんじゃないか」と言っていました。
 平時にはあまり役に立たないが、有事には仕事をするタイプだと自分でも言っていたとおもいます。年を取ってから、パーキンソン病なのか転ぶようになってきて、最後は何が悪かったのか。でも80過ぎまで生きていましたから、予科練の同期の方とくらべても、長生きした方だと思います。

 「俺は小学校しか出てないから」といいながら、たくさん本を読み、知識を身につけ、建築設計図を引いたり、大型特殊免許で建築現場の大きなショベルカーを動かしたり、輸出の書類、インボイスを英語で書いたり、時代劇をたくさん知っていたり、世界情勢をニュースで出てこない情報で解説したり、「心配すんな」といって、オイルショックでスーパーから消えていたトイレットペーパーをどこかからどっさり買ってきたり。大卒の部下を「使えない」と嘆き、なにかあると会社をさっさと辞めてしまう。
 「拾った命だ、すきにするさ」の捨て台詞の男の魂はさまよってばかりでしたが、少しは幸せだったのでしょうか。どうでしょうか。

 私が結婚して、吉原に引っ越したときまでは元気に生きていましたから、まあちょっとは親孝行したのかもしれません。

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