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クラリネット演奏における取り返しのつかない喪失に気づきそこから回復した話

違和感から見つけた「自由な演奏のため必ず通るべき道」

新しいレパートリーの練習に取り掛かって数日後、なんとも言えない違和感を感じた。

演奏しているのは自分なのに、紙を1枚挟んだような「人ごと感」があるのに気付いた。嘘をついているようなモヤモヤが心に浮かんだ。

それと同時に、不必要に音楽やイントネーション(音程)を作り込もうとしている状態も発見した。これらに気をつけながら練習をするのは当然なのだが、どうしても釈然としない。

練習を止めて、その違和感は何であるかじっと考えてみた。

ハッと気付いた。私は自分の「無垢な音」を知らない。

さらにじっと考えると、私はクラリネット初級者の頃に、出てくる音をただ心の底から喜ぶという体験を十分にしていない。何の打算もなく、ただ出てくる音を楽しみ、面白がることをしていない。

この期間が、舞台で自由に演奏する上で絶対に必要な期間であるにも関わらず、だ。


無垢で素直に演奏する時期をできるだけ長く許すことが演奏の土台となる

吹奏楽部で管楽器を始めると、かなり初級の段階から音程やタイミングを他人と揃えることを求められる。

さらに、数ヶ月以内、最速だと初めて1ヶ月にも満たない頃から、「楽譜に書いてある通りに吹くように」ということも求められる。

スケールをマスターせよ、音量記号を守れ、ディミニュエンドを正確に、などと指導され、その実現具合で出来不出来をジャッジされる。

まだそれらをコントロールするほど十分に上達していないにも関わらず。

ここで圧倒的に見落とされていることがある。

それは、無垢で素直に演奏する期間を初級者に全く許していないことである。

無垢で素直に演奏する期間とは、出てくる音をただ心の底から喜ぶ期間。面白がって吹いてさらなる好奇心が湧く状態。ベーベーな音でいい。不器用でいい。

楽しくなったら勝手に即興したり、ありえない運指を自ら開発して演奏してみたり。

こうして、ただ面白がって好きにやることを通じて、「自分が思った通りに楽器と演奏をコントロールする体験」をする。それが、後々に楽譜から作品の意図を汲み取ってそれを自由に実現すること=よいコントロールにつながっていくのである。

それは、心を開いたまま上達するための、最も根幹をなす時期である。

しかし、この期間が全く無いのだ。全く許されていないのだ。その上で出来た/出来なかったで判断を下されてしまうのである。

するとどうなるか?


初級者の頃から「合わせる・揃える・綺麗な音」を過度に重要視すると起こる障害

他人軸でいつも恐れの中で演奏することになる。自由も知らずに。

合っているか、教えられた通りにできているか、自分は列からはみ出ていないか?などを演奏の最優先基準にしてしまうのだ。

すなわち、心が閉じた状態である。自分の軸ではなくて、常に他人の基準で演奏する状態である。目の前の作品に、「こうやるんだ」という、作品を知った上でのむき出しの自分の意思をもって演奏してない状態である。

そうなると、自立/自律した演奏ができない。これではステージに立てない。立てたとしても、十分に作品の意図を「自分」をもってして吹き切れることはない。

実際、プロ演奏家でも「私、メンタルが弱いから」という人の多くは、自立した演奏ができていないだけなのである。

オランダで私を音楽的に救ってくれた賢人が、よく私にこう言った。

ールミ子、君はアーティストだ。もうスチューデント(生徒)ではないんだ。アーティストとして演奏しなさい。

つまり、自立して演奏せよ、ということだったのだ。やっと真意に気がついた。

(蛇足だが、日本の「早熟こそ正義」のような管楽器教育は、こう言ったところに弊害をもたらしている。早くマスターすればいいというものではないのだ。真にマスターすることが優先であり、時間が必要ならばかければいいのだ)

(さらに蛇足だが、私がオランダのコンセルトヘボウ管弦楽団からユースオーケストラまで聴いて味わった、自由で柔軟性のある活き活きとした演奏は、こういった初級時点での時間の使い方が要因と考える)


失われた時間に愕然とする

あぁ、気付いてしまった。クラリネットを始めた30年前に、この期間を過ごさなければならなかったのだ。

しかし、時計の針は巻き戻せない。もうやり直しは効かない過去の喪失を知ってしまい、文字通り絶望した。

一晩、ビービー泣いて過ごした。泣き疲れて寝た。

どうしよう。私はどうすればいいのだろう。


今からやるしかない

今からやるしかない。もう、それしかない。

気付いてしまったからには、これまで通りに練習することは、もう私にはできない。

取り返しのつかない喪失に絶望した翌日から、練習を再開した。

ただ素直に演奏すること、42歳の可能な限りの無垢な音をただ許容することを最優先に、レパートリーの練習を続けた。

するとどうだろう。響きが驚くほど豊かになり、イントネーション(音程)が見違えるほどスッキリした。そこにある和声に意味と生命力が出てきた。

練習行動についても、さらに分析や見直しができ、練習の質が上がってきた。

ヨチヨチ歩き状態に戻ったので、練習の進捗は遅くなった。でも、すこぶる快適である。

これでいいい。

短期間で曲を仕上げることよりも、私はステージで自立して自分軸で演奏したいのである。それが私の望みだ。

それが、作品と空間と聴衆と私のより良い関わりに必要だから。



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