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黒こげの女子生徒の最後・・戦争体験者の証言。

snsを通じて、お会いした方から、沖縄の方の日本兵への感情や証言は、
GHQを通して、言わされていると発言されました。
その方がおっしゃるには、
日本兵は、外国の方でさえも、身を呈して助けるのに、沖縄の人は、
真逆なことを言っていると。

そのせいなのか その方は、「靖国神社や知覧の特攻記念館
を訪れた時、本当に涙がこぼれましたが、
対馬丸記念館へ行っても涙一つこぼれなかった」と。
私は、とても、残念に思いました。

あまりにも、私の思いと乖離しているのと、
どう感じるかは、その方の自由なので、私は、あえて 否定もせずに
ただ、聞いていました。

このところ、メディアで知覧の特攻記念館のお話が取り上げられていますが、お若くて、あの会場の席で、この発言をされたことを
私は、個人的に賞賛しています。感謝しています。

私も長年、鹿児島に住んでいましたので、
あの若き青年たちが、命を惜しまずにお国のためにと
どうして、命を落とさなければならなかったのかを、
より多くの方が知るきっかけになるのでは
と思いました。

戦争を知らない世代が大半の日本で、戦争体験者の話を直接聞く
機会もそうないでしょうが、私は、前述の方との話の流れで
本当の事が知りたい。戦争体験者のお話を直接伺いたいと願っていました。

すると、偶然。
戦争体験者の方のお話を奇跡的に、直接、伺う機会に恵まれたのです。
その方は、Oさん、85歳。

滅多に、ここに来ないというOさんと
偶然あの場所に、あの時間に居合わせた私。

戦争体験をされたであろうお二人の女性が、
響く声で、おしゃべりされていた近くで、
私は、資料を眺めていたので、
近寄って、「ご一緒にお話を伺ってもいいですか?」
と、お声掛けさせて頂きました。

許可を頂き、お話を録音させて頂きました。
Oさんの願いでもあった
「私の記憶のあるうちに、その話を誰かに書いてもらいたい!」
その願いを叶えてあげたくて、その後、彼女の許可を頂き、

私は、地元紙の記者にお会いしました。
戦争を語る方を探しても、なかなか見つからないのに、
ご本人からの申し出は歓迎と取材をして頂くことになりました。

今日、記者の方から連絡を頂き、来週、新聞に取り上げていただく
運びになったとのご報告を頂きました。
疎開の場所、捕虜になった場所。
彼女の生い立ち等調べて確信が取れた上で
記事となったようです。

Oさんのお話の中での日本兵の言動は、あの状況では、
致し方ない部分もあり、責めることは、出来ないと思いました。
戦争とは、そういうものなのでしょう。人を狂わすのです。

逆にそうでなく本当に沖縄の人を守りたい!
方もいらしたと思います。

少なくとも、GHQに言わされたということは、
はっきりと間違いであると私は、確信しました。

Oさんのお話の中で、
戦争中、ある北部の防空壕で身を潜めて隠れていた時、
壕の端部分に砲弾の攻撃を受け、その場にいたほとんどの方が
亡くなった中で、
砲弾で崩れた土の中から 這い上がってきた女子生徒がいたそうです。

家族は、土の中に埋まったまま。
彼女は、黒焦げになりながら、「みなさん。戦争は終わり負けました。
私の名前は、○○です。○○出身です。
どなたか、お水をいただけませんか」と
その辺りをまわったそうです。

皆、気味悪がって誰も近づこうとせず、水をもらえなかったそうですが、
Oさんのお父様が、お水を与えると 飲むことはせずに
身体に水をかけて、元の場所に戻られて
次の日も、次の日も、「どなたかお水を頂けませんか?」と
黒こげの体をコツコツと忍ばせて 人の中を回っていたそうです。

毎回毎回、名前を名乗りながら、誰からも水を与えてもらえず
Oさんのお父様が、ずっと
お水を与えて続けて、とうとう 息途絶えたのでしょうか?
お水をもらいに来なくなったそうです。

Oさんは、その後の女子生徒がどうなったのか
ずっと気になっていたそうです。

Oさんが、きちんとその女子高生のお名前を憶えていて
それも、取材で取り上げて頂いたそうです。

「何度も何度も名前をいうので、忘れられないさ」とOさん。
先日、施設にいるOさんのお姉さま90歳の方に
その話をしたら、お姉さんも、「そうそうそんな名前だったね」
と思い出されたそうです。

その記事が世に出て、多くの方の目に止まり、
あらためて、戦争の恐ろしさが伝わることと、
戦争は、絶対にしてはならないことを若い世代の方にも
認識していただくことを
心より願っています。

最後に、願いは、やっぱり叶う!
そうさらに信じるようになりました。




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