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惚れ薬がなくても恋をしよう

先日観た『ウィロー』Willowという映画で一番好きな場面は、敵に察知されたマッドマーディガンがテントの幌を剣で引き裂いて飛び出してくる一瞬前のところ。彼による潜入・奪還・戦闘と同時並行して、一目惚れ・口説き・口付けが展開してドキドキします。

「仕事は大事だけど、君の方がもっと大事」と言われることに、たぶん多くの女は弱い。

でもこの恋には脈絡はないんです。ただマッドマーティガンは惚れ薬を吸ってしまったので「嫌な女」だと思っていた女に一目惚れして、言葉の限りを尽くして口説くのです。言葉だけでなく、声も瞳も腕も総動員して、世界中を巻き込むが如く文字通り全身全霊で口説きます。

西洋の昔話ではシェイクスピアの『真夏の夜の夢』などのように、妖精が持っている「惚れ薬」がよく登場します。そしてだいたい、妖精のいたずらとか手違いとかで、その気のなかった二人が恋に落ちて、めでたしめでたしとなりますので、この映画のマッドマーティガンとソーシャもそんな感じで恋に落ちます。

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それで、ふと思ったのですが、そういえば日本の古典で

「惚れ薬」が出てくるお話がない。

かも。

「惚れ薬がなくても恋ができる」って素敵だけど、どうしてなくても大丈夫だったんだろう。と。

惚れ薬は、恋を実らせる薬でありますが、薬の直接の効用としては、服用した人に「相手への思いを熱く語らせる」であって、その結果として恋愛成就が導かれるのでしょう。

こうして惚れ薬によって生み出された「言葉」を聞くうちに、女も男も本当にその気になってしまう。だから惚れ薬の効き目が切れたとしても「言葉」が火付けとなった恋する「気持ち」は燃え続けます。

言葉は言霊(ことだま)。だから西洋では妖精が持っているのですね。

「気持ち」がないのに、それでいいの?と、ここでつっこみたくなりますが、自分で自分の気持ちに気がつくこと自体が最初はとても難しい。だったら最初の最初に気持ちがなくても「惚れ薬の恋」によって生まれたその後の二人の一緒の時間が確かなものを育んでいくのであれば、それでいいのかもしれません。そもそも好きになることに理由なんてないのですから、妖精の仕業でも問題なしなんです。


一方、長く日本では「思いを語る」ものとして和歌がありました。もしかしたら、日本では和歌を詠むことが日常にあったので惚れ薬が必要なかったのかもしれません。


やまとうたは ひとのこころをたねとして よろづのことのはとぞ なれりける

(やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ、なれりける)
【古今和歌集 仮名序】


この、紀貫之による『古今和歌集』の仮名序にあるように、日本では、言葉は人の心を種にしていて、それが集まって「やまとうた(和歌)」になりました。

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『古今和歌集』岩波文庫

まず最初に自分の心が今どんな風なのかに気づくことが大事と思われたのですね。稲のようにすべては「種」から生まれます。だから心が種になって(もとになって)言葉にすることができましたので、惚れ薬が必要なかったのでしょう。

つまり、惚れ薬は「自分の心」。そういう意味で、日本では和歌を詠むことを通じて、自分の「心の在り様」の繊細な変化を見つめ続けてきたために、他のものに拠らない、他者に囚われない自らの言葉を持つことができたのでしょう。西行の歌や芭蕉の句が大切にされるように、社会もまたそれを愛でたのです。


君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと おもひけるかな
藤原義孝(百人一首 50)

こんな風に言われたらもうメロメロです。これを「惚れ薬なし」で詠んだ平安男子たち。

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『私の百人一首』白洲正子(新潮文庫)



そして西洋では早くから「心の在り様」は神様に委ねてしまったので、その名残として惚れ薬が妖精の手元に残ったのではないかと思い至りました。

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『ヨーロッパを見る視覚』阿部謹也(岩波現代文庫)

(この本の中に、8、9世紀に東フランクに派遣された司祭に向けて作成された「告白を聴く際のマニュアル(贖罪規定書)」のことがありました)


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