『沈黙と思いやりのあるパン屋さん〜吃音について〜』

「……っ、……、……お、……っ、……、……」

 焦れば焦るほど、口から言葉が出てこない。言葉という異物が喉につっかえた感じ。押し出そうとしても、それはとうとう外へと出ることはなかった。

 世界で一番嫌いな、「沈黙」が流れる。

 時間にすると、たかだか数秒のことであろう。しかし、僕にはそれが、永遠の時間にも感じられた。

「ぷ、ぷっはははははっ!!!」

 沈黙を引き裂くように、教室中をクラスメートの笑い声が支配する。

「先生! また辰哉くんがふざけてまーす!」

「こら! 慶太郎くん、笑わないの。きっと辰哉くんは緊張してるんだから」

「でもさー、たかが音読だぜ? 書いてあるのを読むだけなのに、何で緊張すんだよ?」

 笑い声が一層大きくなる。屈辱と情けなさで胸が張り裂けそうだ。

「辰哉くん、緊張しないでいいのよ? 教科書に書いてることを読んでくれるだけでいいの。もう一回いける?」

 僕は再び、該当する箇所を読もうとする。「お」から始まる、その文を__。

「お………………おおきな力が、そ、そそそ、そこに加わり……」

「ぷっはははははははっ!!!」

 張り裂けそうな胸が、より膨張していくのがわかった。赤くなっていく顔が熱い。身体の震えが止まらない。

 ここには思いやりなんかない。僕が生み出すのは、ただの沈黙しかなかった。

 ※

 母から聞いた話では、幼少期の僕は人見知りを発揮することなく、誰でも彼でも物怖じせず話しかけていたという。とにかく、人と会話したり、人前で何かを喋ったりするのが好きな子だったそうだ。

 それを初めて自覚したのは、幼稚園の年長クラスに通っていたとき。お遊戯会の役を決める際に、僕は率先して主役の座に立候補し、それを見事勝ち取った。幼稚園での練習に加え、家でも猛特訓した結果、そのお遊戯会を主役として成功に導くことができた。それから僕は、ますます人前で話すことが大好きになった。

 小学校に通い始めてもそれは変わらず、友達とお喋りしたり、率先して発表やスピーチをしたりした結果、クラスの人気者にもなった。

 異変に気づき始めたのは小学4年生の頃。

 とある日の国語の授業中、教科書の文章を一人一文ずつ交代で読んでいた時だった。

 順番が回ってきた僕が読む予定であった、「木枯らしが吹く頃〜」で始まる文章。それの一文字目の「こ」がなかなか口から出てこない。まるで、「こ」という異物が喉に詰まっているような感覚。焦れば焦るほど喉の違和感は収まらず、そしてとうとう「こ」の文字は出ることはなかった。

 その時は、先生や友達が体調が悪いのかとたくさん気にかけてくれた。恥ずかしさと驚きから、その場では一旦体調が悪いことにしておいた。本当は体調なんて全く悪くはないのに。

 そこから、自分でも驚くほど、「喋ること」に対して消極的になっていった。本当は人と喋ることが大好きだ。人前に立って話すことが大好きだ。自分の言葉で表現することが大好きだ。

 しかし、その日からそれらが全部「恐怖心」に変わってしまった。

 僕は、ある日を境に突然、普通に話すことさえできなくなった。

 ※

 「辰哉、今日の晩ごはん何がいい?」

 母にそう聞かれた日。学校で友達がお好み焼きの話をしていたためか、その日は無性にお好み焼きが食べたい気分であった。その旨を母へ伝えようとしたとき__。

「……、お……、……」

 お好み焼きの「お」の言葉が出て来ない。

 しばしの沈黙が流れる。母を見る。母はなぜか悲しげな目で僕を見ていた。

「お……、……っ、お……お好み焼き……」

「……お好み焼きがいいのね? 分かったわ。今日の晩御飯はお好み焼きにするから、ちょっと材料買ってくるわね」

 母はそれ以上何も言わず、買い物へ行くためにそそくさと僕の前から立ち去った。

 なぜ悲しげな目で見ていたんだろう? なぜ僕の話し方が変であることに言及しなかったのだろう?

 ……きっとバカにしているに違いない。きっと哀れんでいるに違いない。普通に喋れない僕を。

 ※

 話せない不自由さはあったが、慣れ親しんだ小学校の環境と優しい友達に恵まれ、小学校はなんとか卒業することができた。

 そして、僕は中学へ進学した。

 中学校の入学式。そして新しいクラスでの初めてのホームルーム。そこには保護者も参加し、新たな門出を祝う。

 しかし、こういった「初めての時間」というのは、今の僕にとっては地獄の時間である。

 それは、「自己紹介」の時間だ。

 僕のフルネームは野沢辰哉である。中学生になった僕は、名字である野沢の頭文字である「の」の言葉を出すのが難しくなっていた。スムーズに出てくる場合もあったが、ほとんどの場合、「の」の言葉はスムーズには出てこない。

 つまり、僕は名前すらスムーズに言えないのだ。

「はい、では一人ずつ前に出て自己紹介をしていきましょう。名前と、中学校で頑張りたいことなどを一言教えてください」

 途端に胸がドキドキしてくる。とても息苦しいくらいに。発表の順番は五十音順なので、「の」から始まる僕は中盤くらい。一人、また一人と自己紹介が終わっていく。僕の順番が近づくたびに、胸から心臓が飛び出てくるほど激しく鼓動する。

「根岸くん、ありがとうございます。3年間頑張りましょうね。次は……、野沢くんだね。よろしくお願いします」

「は……、……っ、はっ……、……はい」

「緊張してるのかな? 落ち着いて、落ち着いて」

 みんなの前に立つ。頭が真っ白になる。まずは名前を、まずは名前を……。

「っ……、……、……っ、……、の……」

 「の」の言葉が出てこない。喉に詰まったまま、押し出せど押し出せど、出てこない。願っても願っても、それは出てこなかった。

 「緊張すんなって! 落ち着けよ!」

 誰かがそう言った。

 緊張しているから言葉が出ないのではない。言葉が出ないと分かっているから緊張するのだ。

 くすくす、と笑い声が聞こえる。ぷぷぷっ、と笑いをこらえている声が聞こえる。笑いこそしてないが、怪訝そうな目で見てくる者もいた。

 そうだ、担任の先生は……、黙ってこっちを見ているだけであった。

 もはやここに、救いは残っていなかった。

 母を見る。恥ずかしさのあまり、母は顔を赤くしてうつむいていた。

 ※

 僕は最初のホームルームがあった日以来、学校に行かなくなった。僕はまともに喋ることすらできない。笑われるのが怖かった。学校に行って馬鹿にされ、笑われるくらいなら、不登校になったほうがマシだった。

 僕が不登校になったにもかかわらず、母はおろか、父すらも何も言ってこなかった。ただ、僕の身の回りの世話をしてくれるだけ。

 心配なんかされていないんだ。喋ることすらまともにできない子供など、居ないほうが良いのだ。

 僕は毛布を頭から被り、時折苦しくなるほど泣いた。 

 ※

 トントン。「辰哉ー? 起きてる?」

 不登校になって2週間ほど。泣くことにも、一日中横になってるのにも飽きてきた頃、母が部屋を訪ねてきた。もうご飯の時間だったっけ?

「起きてるよ。なに?」

「少し話がしたいんだけど、ちょっといいかしら?」

「別にいいよ。ちょっと待って。っ……、……い、……今片付けるから」

 散らかっていた部屋を、せめて形だけでもきれいにしておく。別に時分の母親を招き入れるだけだから、そんなことしなくても良いのだが。

「い……、いいよ」

「じゃあ入るわね……」

 ドアが開き、母親が入ってくる。

「どう? 少しは落ち着いた」

「……、う……、うん。少しはね」

「なら良かった。そういえばこの前、お父さんったらね……」

 母は他愛もない話をし出した。普段ならはいはいと聞き流す話も、家族とはいえ久しぶりに他人と会話をしたことが新鮮に感じられたのか、不思議と嫌な気分はしなかった。むしろ、自分から質問したり相槌を打ったり、時折笑ったりもした。

 僕が自分の話をするときは、相変わらず言葉に詰まったり、同じ言葉を何度も連発したりしてしまった。しかし、それをいちいち指摘することなく、反応することもなく、母はただただ僕の言葉や文章を待っていてくれた。

 前々から気にはなっていた。明らかに話し方がおかしいのに、なぜ指摘したり、反応したりしないのか。心の中で馬鹿にするのは全然構わなかった。でも、一応は家族である。話し方がおかしい息子がいたら、矯正してでも治そうとするのが普通なのではないだろうか。

 どうしても気になった僕は、これを機に質問してみた。

「母さん。薄々気が付いてはいるとは思うけど、っ……、……、ぼ……、僕の話し方って変でしょ? こ……、こここれについて、何も思わないの?」

 すると、母は悟ったかのような、あるいはいつかこの質問をされるだろうというような、そんな顔をして僕を見つめ、そして静かに話し始めた。

「ごめんね……。本当にごめんなさい……」

 予想外の言葉から始まった母の発言に、僕は本当の意味で声が出なかった。ただ静かに、母の次の言葉を待った。

「あなたが上手く話せないのは……、私たちのせいなの。私と、あなたの父親。私たちは元々、あなたと同じ「吃音症」を持っていたの。それをあなたが、遺伝で受け継いだのかもしれない」

「……きつおん?」

「最初の文字がなかなか出てこなかったり、特定の言葉が意識しなくても連続で出てきちゃうときがあるでしょう? これらの症状が出てしまうのが「吃音」っていって、発達障害や言語障害の一つとも言われているの」

「障害……?」

 一瞬なんのことを言っているのか理解ができなかった。障害? 僕が? ということは、僕は障害者ってこと? 

「で、でも病気っていうことは、いつか治るんだよね……?」

「小さい頃に発症した場合は7〜8割くらいは自然に治るっていわれてる。でもね、辰哉みたいにある程度言語能力が身についてからの発症になると、自然治癒は難しいみたい。治療法もまだ見つかっていないわ」

 視界がぼやけてくる。治らない……? ということは、このまま一生普通に話すことができないということなのか……?

「じ、じゃあ僕は一生普通に喋れないってこと? 会話も満足にできない生活を送っていかないといけないってこと?? ねぇ!!」

 つい、声を荒らげてしまう。しかし、冷静でいろといわれるほうが難しい。一生普通に喋れない。馬鹿にされながら生きていかないといけない。まるで生き地獄ではないか。

「一生まともに喋れないなんて、もう生きてる価値ないよ! 外にも出たくないし学校にも行きたくない! 誰とも話したくない! 出ていってよ!」

「辰哉、大丈夫、大丈夫だから……。あなたもきっと普通に……」

「出ていってよ! 出ていけ! もう生きてる価値なんてないんだ!」

「辰哉! 話を聞きなさい!」

「……っ!」

 声を荒らげた母に驚いてしまう。母の声を荒らげた姿など、生まれて初めて見たからだ。

「……辰哉。大丈夫だから。少しずつだけど、きっとまた普通に喋れるようになるわ。私達が保証するから……」

「でも……、治療法なんてないんでしょう?」

「言ったでしょ? 私もお父さんも元々は吃音を持ってたって。でも、どう? 今は普通に喋ってるじゃない」

「あ、本当だ……」

「吃音の克服方法は色々と研究され、そして試されてるんだけど、一番の方法は「吃音を気にしないこと」なの」

「吃音を気にしない……」

「要は、吃音の症状が出ても気にしないこと。たとえば、言葉に詰まっても必要以上に落ち込まないこと。上手く話さなきゃ! って思い込まないこと」

「無理だよ、そんなの。みんなから笑われるし、そもそも普通に話せない事自体が恥ずかしいんだから」

「最初はもちろん難しいと思うわ。でもね、それは周りの協力があれば簡単にできるようになるのよ」

「周りの環境?」

「辰哉に吃音の症状が出たとき、私はそれについて突っ込んだりしなかったでしょ? これは、「辰哉が言葉に詰まってても全然気にしてないよ」っていう意思表示なの。他人から吃音のことを突っ込まれなくなれば、辰哉自身も少しずつ喋りやすくなると思うわ」

 ……あぁ。だから僕の話し方が変でも突っ込まなかったんだ。あれは母が同じ症状で苦しんでたからこその、正しい気遣いだったんだな。

「でも、学校に行ったら絶対にバカにされるし、笑われちゃうよ」

「無理して今すぐ学校に行く必要なんてない。辰哉にまた学校に行く勇気が芽生えてきたら、少しずつ行き始めたらいいわ」

「ありがとう……。でも、それじゃ人と話す機会が限られてこないかな?」

「辰哉はまだ初日しか学校に行ってないから覚えてないかもしれないけど、担任の先生覚えてる?」

「担任の先生?」 

「そう。担任の先生なら、今のあなたを救ってくれるかもしれない。ちょっと話をしてみない?」

「担任の先生が……? ……うん、僕やってみるよ! 少しでも改善する可能性があるなら!」

「うんうん! それでこそ、私の子供だね! それと、辰哉。今、何かに気づかない?」

「え? 何か?」

「うん。今辰哉に起こっていること」

「今? うーん、分からないなぁ……」

「辰哉は今、目の前の私との会話に夢中になっていて、吃音のことを一時的に忘れてる。意識していないはずだわ。現に今、吃音が出てないわよ!」

「あ……、本当だ!」

 ※

「辰哉くん。私は君に謝らないといけない。申し訳なかった」

 担任の先生である涼森先生に会うと、開口一番に謝罪の言葉をかけられた。

「え? な……、っ……、……、っ……」

「いいよ、ゆっくり、自分のペースで」

「すみません……。そ、そそ、それで、……っ、な……っ、……な、なんで謝るんですか!? 僕の方こそ、ふ、……っ、ふ、不登校になってしまって申し訳ありません」

「いやいや、辰哉くんが不登校担ってしまった責任には僕にもあるからね。僕がもう少し早く手を差し伸べられたら良かったんだけど……」

「先生は、ぼ、……っ、ぼ……、僕が吃音だってこと、きき、き気付いてたんですか?」

「今はもちろん気付いてるけど、その時は気付かなかった。いや、実は「もしかしたら……」とは思ったんだけど、確信が持てなくてね。でも、辰哉くんが次の日からしばらく学校に来なくなってしまったから、あれはきっと吃音で上手く話せなくて恥をかいてしまったからだと確信したよ」

「僕は小学校の頃から徐々に吃音が出るようになってしまったんです。そこから上手く喋ることが出来なくなっちゃって……」

「その辛さは、僕もよく分かるよ」

「分かる……ってことは、……っ、先生も昔は吃音を持っていたんですか?」

「いや、僕自身は吃音ではなかった。昔担任を持ったクラスの子の一人が吃音だったんだ」

「そうだったんですか。その人は、し、ししっ、喋れるようになったんですか?」

「それが……」

 急に先生が口籠る。もしかして、その人は今も吃音で苦しんでいるのだろうか? 今も喋れないと僕に言えば、僕が絶望するかもしれないって、気を遣っているのだろうか……?

「……、……っ、あの……すみません。答えにくい質問してしまって……」

「いや、大丈夫。まぁ隠していても仕方がないから話すけど、辰哉くんは動揺してしまうかもしれない。でも絶対に気にしちゃダメだよ? 今から言うことは」

 その真意は不明だったが、話が進まないと意味がないため、僕は深くうなずいた。

「その子は……その、もういないんだ」

「え?」

「吃音を苦に、自殺してしまった」

「……」

 やっぱり、そんなに苦しいんだな。そりゃそうだよ。今まで普通通り喋れていたのに、急にそれを奪われるんだもん。

 今のところは大丈夫だけど、僕もいつか、吃音を苦にして死にたいって思うのかな?

「僕が不甲斐ないばっかりに、かけがえのない生徒一人さえ、生徒の未来一つさえ、守ることができなかった。先生という立場でありながら、「吃音」のことはもちろん、吃音がどんなに苦しいかさえも理解できていなかった。悔しい。本当に悔しすぎる……」

 半放心状態のまま、先生の想いのこもった話を、ただひたすら聞いていた。

「お願いだから……」

「え?」

 先生の声が急に小さくなったので上手く聞き取れなかったが、今の僕は先生の言葉を一言一句聞き逃すべきではない。直感だがそう感じた。

「お願いだから……、辰哉くん」

「は、はい。なんでしょう……?」

「辰哉くんは絶対に死なないでくれ! 死のうだなんて絶対に思わないでくれ! 先生が必ず辰哉くんを救うから。たとえ吃音が完治しなくても、十分人生を楽しく過ごすことができるってこと、教えてあげるから!」

 先生の目に涙が溜まっていくのが見えた。僕の胸も熱くなっていく。そういう感覚に陥った。この先生について行けば大丈夫。きっと、吃音のこともどうにかなる。根拠はなかったが、絶対大丈夫という大きな自信と先生に対する安心感があった。

「辰哉くん。今度の休日、僕の家に来てくれないか? 辰哉くんの人生を明るくするヒントになるかもしれない」

「僕の人生を明るくするヒントですか?」

「辰哉くん。僕のうちで、パン屋のお手伝いをしないかい?」

 ※

 次の休日、僕はマップを頼りに、事前に教えてもらっていた先生の家を尋ねることにした。

 吃音である僕の人生を明るくするヒントが、先生のうちに? しかもパン屋さん? 全く検討もつかなかった。

 しかし、少しでも希望があるのなら、少しでも楽になるのなら。今の時点での頼みの綱は、先生しかいなかった。

 先生の家を尋ねる僕の隣には、母もいた。これは、先生からのお願いであった。ぜひ、保護者も連れてきてくれと。父は休日が定まっていない職種でタイミングが合わなかったため、今日は母だけが付いてきた。

 心なしか母は嬉しそうだった。久しぶりに外で並んで歩けているからだろうか。それとも、これから何をするかを知っているからだろうか。その真意は最後まで不明だった。しかし、あえて聞くこともしなかった。他愛もない話をしていると、先生の家の近くにいることに気付く。

「……あ。あれかな?」 

 街中を歩いていると突然、パン屋らしき外装をした建物と看板が見えてきた。

「看板が立ってるね。カインドサイレンス? かな? 英語あんまり分かんないけど……」

「お、辰哉くんたち、来てくれたんですね!」

 店の前で母と話していると、中から先生が出てきて、僕たちに挨拶した。

「おはようございます。そして、今日はわざわざ僕の家を訪ねていただき、ありがとうございます。まずは早速、この店の案内からしましょうか。ちょっと、付いてきてください」

 先生はそう言うと、僕たちを店内に招き入れた。中に入ると、焼けたパンの香ばしい匂いと、コーヒー豆を挽いた苦いけど心地よい匂いが鼻腔をくすぐった。

「美味しそうなパンでしょ? 全部店内のキッチンで僕が焼いてるんだよ。色々な種類があるけど、どれか気になったやつなんて、あるかい?」

 本当に多種多様なパンが陳列されていた。あんパンやドーナツ、カレーパンやメロンパンなどのいわゆる王道のパン意外にも、見たことのないパンがたくさん並んでいた。

「……っ、こ……、これなんて、カラフルでき……、……き、……、気になります」

「あ、これかい? よし、じゃあパンの説明を店員さんにしてみようか。おーい」

 先生は一人の店員を呼び、僕たちのところへ招いた。

「このパンの特徴を、この子に説明してくれるかい?」

「……、……、っ……わ、……わ、わかりました」

 突然、胸がドキドキするような、ザワザワするような、あるいは誰かに突然掴まれたような、形容し難い感情に陥る。

 そして、一瞬で理解した。それは、まさに自分がそうだから。

 この人は吃音を持っている。

「このパンは、生地が何層にも重なっていて、……っ、……、ホ……、ホホ……、ホホイップクリームと、カカカ、……っ、カスタードソースでコーティングした当店自慢のパンです!」

 不思議な感覚だった。この人は、吃音であるにもかかわらず、あたかもそれをハンディと思っていないかのように、むしろ吃音なんて存在していないかのように堂々と喋っている。

 そして、それを聞いている僕は、至って普通の人と、普通に喋ることのできる人と、普通に会話していると思った。いや、そうとしか思えなかった。

 吃音って、なんだっけ?

「……、……っあ、……っ、あ……、ありがとうございます。と、ととても、……お、……お美味しそうなパンですね!」

 それから、少しだけ会話したあと、その店員は自分の持ち場に戻っていった。会話は決してスムーズではなかった。しかし、久しぶりに「普通に会話をした」という喜びを、楽しさを、しばらく心の中で噛み締め、反芻した。

「辰哉くんも、お母さんも、これで気付いたと思うけど、ここの店員さんはみんな吃音を持っているんだ。吃音を持った教え子が亡くなって、何かできないかと考えたとき、趣味のパン作りを使って吃音を持った人をサポートできないかなって思ったんだ。ここではみんな、生き生きと働いているよ」

「……あ、あんなに堂々と話せるなんて、すす、す……、凄いですね! ……っぼ、……ぼ、……ぼ僕にはできないと思います……」

「最初はみんな、今の辰哉くんみたいに不安がっていたよ。絶対に私にはできない! って泣き出す子もいた。でもね、みんな失敗して失敗して、でも最後には、「喋る楽しさ」を取り戻すんだ」

「でも僕、……っも、……も、っももう恥をかきたくないです。わ……、わわ笑われるのが怖いです。ししし喋ることに恐怖を感じるんです。こんな僕でも喋れるようになりますか……?」

「大丈夫だよ。吃音のある子は、言葉の出ない間や、違和感のある喋り方を相手に見せてる間の「沈黙」が怖いんだよね。でも、ここに来るお客さんはそれを理解して来店してくれる。「ここは話すことに苦手意識を持っている人が店員をしている」って理解して来店してくれるんだ。この店にはね、吃音を持つみんなが生み出す「沈黙」もあるけど、それを理解したお客さんの「思いやり」も生まれるんだ。だからこの店の名前は「カインドサイレンス」。「親切な沈黙」あるいは「思いやりのある沈黙」だよ」

 ※

 まだ学校に行く勇気は出なかったが、休日は積極的に「カインドサイレンス」でお手伝いをすることにした。

 吃音者というのは、僕がそうだったように、元々は喋ることが大好きだった場合が多い。だから、仮に吃音を持っていなかったら、接客業に向いている人が多いのだ。

 しかし、吃音を持ってしまうと、特に人と話す機会の多い接客業などは、バイト先や就職先の選択の際は真っ先に候補から除外される。

 僕はそんな、真っ先に除外されるであろう接客を、今まさにやろうとしている。

 「カインドサイレンス」のロゴが入ったエプロンを着て、店内に入ろうとする。

 しかし、あと一歩が踏み出せない。心臓がバクバクと鼓動する。息が荒くなる。吸っても吐いても、全然落ち着いてはくれない。

 上手く喋れずに笑われないだろうか? バカにされないだろうか? 逃げ出したくならないだろうか?

 そして、僕が救われるという希望を持った父や母を絶望させてしまうのではないか?

「大丈夫だよ!」

 突然、僕は後ろから肩を叩かれ、そう言われた。振り返ると、僕が初めてこの店を訪れた際に、パンの説明をしてくれた人が立っていた。

「……、……、っ……、大丈夫! 僕も最初は今の君とおんなじだった。……で、っ……で、……っ、でも今は喋ることが大好きになったんだ。 あの子を見てご覧。あの子、最初に勤務したとき、緊張のあまり泣いちゃったんだ。……で、っ……でも、今は本当によく喋るよ! 元からお喋りが好きだったんだなぁって。……っ、だから君も大丈夫! なんかあったら、……っぼ、僕たちがサポートするから」

 鉛のように重かった心が、すっと軽くなるような感覚に陥った。ここなら大丈夫だ。ここならいくら吃音が出ても恥ずかしくない、大丈夫。自身を持ってそう思えた。

「……、っ……あ、ありがとうございます! ぼ、……ぼぼ、僕頑張ります! よ、よよよろしくお願いします!」

「うん、よろしくね!」

 僕はその先輩にあたる人と一緒に店内に入った。早朝にもかかわらず、店には既に10人くらいのお客さんが入っていた。

 途端に不安になる。本当にみんな、普通に接してくれるだろうか? 本当にバカにされないだろうか? 本当に、本当に__。

「すいません、このパンなんですけど……」

 ついに来た__。口から心臓が飛び出してきそうだった。周りを見渡す。他の店員は自分の持ち場で、あるいは他のお客さんの接客をしていた。つまり、今話しかけているお客さんの接客は、僕がやらないといけないのだ。

 パンの情報は、先生からもらったパンフレットを読み込んだので頭には入っている。説明することはできるだろう。しかし、いかんせん、上手く喋れないのだ。

 しかし、ここで逃げていては、このパン屋さんのお手伝いをしに来た意味がない。手ぶらで帰るわけにはいかない。

 笑いたいなら笑え。もう、どうにでもなれ。

「……、……っ、……」

 絶望的な気分だった。最初の一言目が全く出てこない。どんな表情をしているかを知ることすら怖いため、お客さんの方を見ることができなかった。

 逃げたい、逃げたい、逃げたい、逃げたい__。

「大丈夫よー。ゆっくりでいいからね」

 はっ、と我に返る。お客さんの顔を見る。お客さんはニコニコと笑い、うなずきながら僕の言葉を待ってくれていた。

 今まで味わってきた、永遠にも感じられる長くて苦しい地獄のような「沈黙」とは違う、なんとも心地の良い「沈黙」。とても不思議な感覚だった。

「……っ、そ……、っ……、……っ、そのパンはですね」

「うん、うん」

 喋るって、こんなに楽しかったっけ?

 喋るって、楽しい。

「そうなの! 美味しそうなパンね! あなたの説明を聞いてますます買いたくなっちゃったわ! これ貰うわね!」

「……、あ……、ありがとうございます!」

 僕の辿々しい説明にもかかわらず、終始ニコニコと話を聞いてくれたお客さんは、僕にお礼を言ってくれた上に、説明したパンを購入してくれた。

 その一部始終を見ていたのか、先生がこっちに寄ってくる。

「おっ、やってるね。どうだった? 君にとっての最初の接客は?」

「最初はすごく緊張したけど、……っ、……ぼ、ぼ……、僕はやっぱり喋るのが好きだなって、あ……、っ……、あ改めてそう思いました!」

「そっかそっか! それなら良かった! 僕も辰哉くんをパン屋のお手伝いに誘った甲斐があるよ! さ、どんどん接客しちゃってよ!」

「はい!」

 それから僕は、一日中接客に勤しんだ。どの人との会話もスムーズにはいかない。話すたびにたくさんの「沈黙」が生まれる。

 しかし、それと同時にたくさんの「思いやり」も生まれた。ひとりひとり違う思いやり。心地の良い、安らかな思いやり。

 一日中接客し、さすがに身体はくたくたに疲れたが、決して嫌な疲労感ではなかった。

 接客が終わったあとは先輩たちと先生とも話し、また接客したくなったらいつでもおいで、と言ってくれた。

 ※

「母さん! 今日ね……」

 母に今日一日のことを話す。もちろん、一日接客しただけで治るものではないが、心なしか吃音を気にせず話せるようになっている気がした。

「うん、うん! それは良かったわねぇ!」

 母は何度もうなずきながら、また、目に薄っすらと光るものを浮かべながら、僕の話を聞いてくれた。

「学校に行く勇気はまだ出ないけど、もう少し頑張れたら、僕、学校に行けそうな気がするよ!」

 これからも僕は、たくさんの「沈黙」を生み出すだろう。その度に、怪訝な目を向けてくる人がいるかもしれない。バカにしてくる人いるかもしれない。

 でも、もう大丈夫。吃音も含めて一人の僕だから。笑いたいなら、笑えばいい。

 僕が生み出す「沈黙」と同時に、少しでも多くの「思いやり」が生まれるといいな。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?