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それでも私は「つながり」を維持したい

日本は大変だなあ、とつい数週間前まで余裕をかましてたのに、ここ2週間ほどでインドがどんどんきな臭い。3月19日午後8時のモディ首相の会見にて、3月22日(日)の外出禁止令(Janta Curfew)が発令された他、22日以降1週間、国際線の着陸はすべて停止とされた。さらに、10歳未満および65歳以上の外出を控えること、不要な外出や受診を控えることなどの勧告が出された。この勧告というのがどのくらいの厳しさのものなのか定かではないけれど、首相会見の雰囲気的には結構厳しそうだ。

妄想ハーフボイルド家族の続きも書きたいところだけれど、今回はちょっとお休みして、コロナウイルスの蔓延に関連した記事を書こうと思う。言うなれば、健康とそれにまつわるエトセトラは、私の個人的な生涯のテーマである。(こちらにも何か妄想連載名をつけたいな。絶賛連載名募集中。)

※私は専門家でもなんでもなく、ただの一人の子だくさん主婦の愚痴であることにご留意の上お読みください。

コロナウイルスで断たれた人々のつながり

健康に長生きするために重要なのは「つながり」である、というのが最近の健康科学業界の流行りだった。長生きにはつながりを、人の健康はつながりで決まる、といった謳い文句でそういったたぐいの研究が脚光を浴び、健康を目的につながりを促すイベントやTV番組が組まれたりもする。個人的にはその目的とツールが逆転した様子に若干の違和感を覚えつつ、つながり、というのがひとつのキーワードであることには深く納得していた。

ところがどうだろう、コロナウイルス騒ぎで学校という基本的な交流の場はもちろん、多くの人の交流が断たれた。人が沢山集う場所ほどノーとされ、ここインド(デリーグルガオン地区)では、プールも、一部の公園やモールも閉鎖になっている。近所のオープンしている公園に子どもたちを連れて遊びにいっても閑散としているし、交通量もずいぶん少ない。そしてついに、10歳未満は外出を控えよとのおふれも出された。我が家の4キッズは全員見事に10歳未満である。いったいどうやって日々を過ごせというのだろう。日本の状況はどうかわからないけれど、きっと多かれ少なかれ同じような状況なのだろうと想像する。これでは「健康のために人や社会とつながりを」の真逆である。

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さて、ここで一つ疑問が浮かんだ。人との交流を完全に断ってコロナウイルスを排除して身体的健康を守ることと、コロナウイルスに感染するリスクを多少犯しつつ、必要不可欠な人との交流を継続して続けた場合、どちらが総合的に見て健康にとっては「よい」のだろう。

もちろん、今の緊急事態の状況からしたら、人混みを避け、出来る限り不要な外出や交流は控え、自分と家族、そして弱者を守るというのが短期的には正解だということは分かる。

しかしどうだろう、ほぼほぼ自宅軟禁状態でかれこれ2週間が過ぎようとしている。私の健康状態はというと、明らかに低下している自覚がある。まず、自宅に閉じこもっているので運動をする機会がほぼない。そして、子ども以外と話をする相手がいないので根暗に拍車がかかる。子供の相手ばかりでストレスがたまると、ついオヤツに手が伸び、罪悪感がつのる。疲れ果てて夜は子供と同時に就寝するため自分の時間はゼロ。夜は毎晩不思議な夢を見て、疲れが残ったままなんとか朝目をさまし、起床と同時に子供たちとの嵐のような一日が始まる。・・・以下繰り返し。

あれ、なんだっけこの既視感。そうだそうだ、まるでこれは新生児育児じゃないか。そうだった、子どもが生まれたての頃も、同じようなことを考えていたんだった。

ああでかけたい。お気に入りのカフェで美味しいコーヒーを飲みたい。お友達とくだらない話をしながらビールを飲みたい。美術館に行くのもいいかもしれない。キッザニアで子どもたちを放牧してホットドックを頬張るのも悪くない。暑くなってきたからプールに入れたら最高だな。せっかくの春休み、旅行にだって行きたかった。

現実問題として、人混みや密集空間は諦めるとしても、せめて公園や図書館や、きわめてごく日常的な公共空間への立ち入りは自由にしておいてほしかった。

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それだけではない、コロナウイルスやそれを阻止するための排除意識をきっかけに、残酷なレイシズムがあらわになってきている。ある友人は東洋人の見ためだけで「コロナウイルス」と後ろ指を差されたといい、ある友人はタクシーで嫌な顔をされたという。今やヨーロッパの方が発症件数も死者数も多いのだけれど、中国から始まったというイメージや、もともとインド国内にあった(のかもしれない)欧米至上主義的な意識がそうさせるのかもしれない。文字通り、民族間の亀裂が見え隠れしている。

いったいいつまで「誰かとつながる」ことを我慢すればいいのだろう。これだけ莫大な負のエネルギーを抱えてなお、コロナウイルスを阻止し、人々の健康を守るためには交流を絶つことが第一だ、と本当に言えるのだろうか。

あらゆる行動制限や自粛の決断が、人類の健康や幸せにとって最善であると、一体誰が決めたのだろう。コロナウイルス対策としての行動制限や自粛は、人々の健康や幸せといった大きな目標を見据えた時、一体どのくらいの順位に位置するのだろう。リーマンショック以上に経済はダメージを受け、子育て働き盛り世代の家庭は大きな負担とストレスを強いられている。それでもなお、この行動自粛を続けていく価値があるというのであれば、仕方がない、我慢しようではないか。

健康のためにつながりが必要なのではない

こうしてあらゆるつながりを断たれて感じるのは、つくづく人間というのはソーシャルな生き物だということだ。外に出かける機会や人と関わる機会が失われれば失われるほど、自分の生きる楽しみや目的を見失う。

幸い私には4人の子どもがいて、自宅に閉じこもっていてもそれなりに他人との関わりがあるだけマシなのかもしれない。家族のいない一人暮らしの人は、さぞかししんどいだろうと推察する。あるいは教会やモスクに出かけて行くことがとても大きな意味を持つ人にとっても、それを禁止されることはきっととても苦痛なことだろう。

中国では、自宅待機によって夫婦が顔を合わせる時間が増え、離婚が急増しているというニュースも耳にした。他者との関わりの中で家族関係を保っていたのに、バランスが崩れてしまった結果なのかもしれない。

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こうして考えてきて、ふと気がつく。

たぶん、健康のためにつながりが必要なのではない。健康は結果なのだ。人が人として生きるために社会的なつながりは不可欠で、結果的に、上手に生きている人が“健康”なだけなのだ。濃度や形の差こそあれ、社会的な何らかのつながりナシに生きていくことなど不可能で、それはきっと、誰かに強制されたりあてがわれたりするものでもないのだろう。

健康にとってつながりが必要かどうかということは、こうなってくるともはやどうだってよいのだけれど、本来人々の健康を(コロナウイルスから)守るためにスタートしたはずの自粛政策が、つながりを断絶することでかえって健康な生活を脅かしているのだとしたら、「健康にはつながりが必要なんじゃなかったっけ?」ちょっとばかり苦言を呈したくなるのである。

人間らしく生きることを大事にしたい

平和な暮らしを守るために、健康を守ることは大切なことである。これはきっと間違いない。「健康は平和の礎」(若月俊一)である。

特に、症状が重症化しにくい若い世代が無頓着になることで、重症化しやすい高齢者や持病を持った人たちのリスクを高めることも指摘されている。十分に慎重になり、正しい知識の入手に心がけ、節度ある生活をすることが大切だ。

けれど、コロナウイルスを排除しようとするあまり、過度に非人間的かつ強硬な政策が進んでいくと、どうしても違和感を覚えてしまう。

そして思い出すのだ、インドにきたときのハルのことを。

デリーは大気汚染がひどいと聞いて、体が弱く、様々なハンディキャップを持ったハルを、インドに連れてきていいものか悩んだ。身体的弱者であるハルにとって、排除できるリスクは排除すべきなのかもしれない、という考えも一瞬よぎった。

けれど、あまり良くない環境に身をおくリスクと、家族とともに新たな生活を始めることのメリットを見比べ、私は後者を重視した。優先するべきはなにか、ハルにとって、あるいは私達家族にとってどういう生き方が幸せかを想像した結果だ。そして、どれだけ大気汚染がひどくても、そこは同じ地球であり、同じように暮らしている人たちがいるという事実。

結果として大変なことも沢山あったけれど、よかったことも沢山あった。ハルも含め、家族が今現在インドの地で心穏やかに生活できていることが、何よりも嬉しいことであり、私がもっとも大事にしたかったことでもある。

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コロナウイルスも同じではないか。コロナウイルスが蔓延している環境はよろしくないけれど、いつまで続くかわからないこの状況の中で、どう生活していけば人間的な生活が維持できるのかを考える段階に入っているのではないだろうか。コロナウイルスから身を守ることはもちろん大切だけれど、もっと大切なのは私達人間が、平和に心穏やかに暮らしていけるということのはずだろう。

そして、コロナウイルス患者もまた、ただただ毎日のニュースにあがってくる無味な数字なんかではなく、一人ひとりが血の通った人間であり、家族がいて大切なものがあって、同じように平和で心穏やかな暮らしを望んでいるという事実。

私達が地球人としてめざすべきは何か、優先すべきは何なのか、想像力を持って検討することさえできれば、にわかに熱を帯びた醜いレイシズムも、ウイルスに対する過度な排除意識も、きっとクールダウンするだろう。

この自粛生活と過度な排除意識が長くつづけば、きっと後々、これによる隠れた犠牲者がでてくるかもしれない。家から出ることで救われていた命や関係性が崩壊していくかもしれないし、本来必要な医療が適切にゆきわたらないという事態も発生してくるかもしれない。経済的なダメージも相当だろうし、この状況による精神的なダメージでの犠牲者も出るかもしれない。人間的な生活を自粛したり、ウイルスやその発生元を過剰に排除することの意味を、もっと慎重に、想像力を働かせて考えた方がいい。

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その上でどうしてもこのような自粛や排除を続ける必要があるというのなら仕方がないけれど、それでもやっぱり私は、社会的なつながりを維持したいと思ってしまう。自粛が続くなら、なんらかの新しい方法でもいい。自分自身の、健康と平和を守るために。

※注:子だくさんインド在住主婦の長い長い愚痴です。




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